一章 ありふれた最悪③
とぼとぼという擬態語が、これほどまでに似合う足取りで歩く日が来るとは。
そんな驚きすら覚えつつ、正路は人気のない、暗い夜道を歩いていた。
居酒屋の仕事が終わるのはいつも終電後なので、通勤にはこれまでずっと自転車を使っていた。
先々週、その自転車を盗まれたのが、思えばケチのつき始めである。
以来、やむなく徒歩で自宅アパートと居酒屋を往復していたが、今夜でそれも終わりだ。
「一生懸命、働いてたつもりだったんだけどな」
思わず、力ない嘆きが漏れる。
居酒屋を出て、深夜でもそこそこ
以来、
きっと、
(大学入試にまた失敗、バイトも今日でクビ……ああいや、バイトは自分から辞めたことになったんだっけ)
正路は、パーカーのポケットに手を入れた。
中から引っ張り出したのは、薄い事務用の封筒だ。中には、千円札が一枚だけ入っている。
事実上解雇され、失意状態で居酒屋のロッカーで着替えていたとき、わざわざやってきた店長がねじ込んでいったものだ。
「忘れてた、これ、
まだ、
(全然、名残惜しそうじゃなかった。嬉しそうだった。僕がいなくなったことを、あんなに喜ぶ人がいるんだ)
職を失った今の正路にとっては、たとえ千円札一枚でも、貴重な生活費の足しだ。封筒を店長に突き返す度胸など、もとよりあろうはずがない。
店長が引き上げた後、入れ替わりに古株の従業員がいかにも気まずそうにやってきて、「ごめんな、店長命令だから」と、正路のバッグの中を
そんな屈辱的な目に遭っても、「お世話になりました」と
今の正路にできる腹いせなど、その程度のものだ。
(大学にも要らないって言われて、バイト先にも要らないって言われて。まだたくさんスタッフは残ってたのに、誰も「さよなら」すら言ってくれなかったな。僕がクビだって、みんな知ってるみたいだったのに)
いかにも後ろめたそうにチラチラ見てきた同僚、いや元同僚たちの顔を思い出し、正路の目には新しい涙が溢れる。
結局誰とも友達と呼べるほど親しくはなれなかったが、それでも一年近く、週の大半、顔を合わせて挨拶したり、仕事上の会話をしたりした関係だ。
それなのに、誰も自分との別れを惜しんだり、連絡先を交換しようと言ってくれたりはしなかった。
その残酷な事実が、正路を完膚なきまでに打ちのめしていた。
(わかってる。僕が悪いんだ。みんなは、親切に僕を遊びに誘ってくれた。それなのに、僕が溶け込めなかった。どう振る舞ったら好感を持ってもらえるのか、わからなかった。フリでも楽しめばいいのに、それすらまともにはできなかった)
対人関係における自分の心境にいちばん近いのは、小学生の頃、休み時間に担任教諭に半ば強制的にクラス全員でやらされていた「長縄跳び」かもしれないと、正路はぼんやり思い出していた。
二人組で長い縄の両端を持ち、息を合わせて回し続ける中、ひとりずつ順番にジャンプに加わっていき、クラス全員が入れたら成功、誰かが縄に引っかかったら失敗、という遊びである。
別に縄に足を引っかけたからといって罰則があるわけではないが、それまで頑張って飛び続けた皆の努力を無にするということで、どうしても白い目で見られがちだ。
正路は飛ぶと必ず失敗するので、皆が嫌がり、いつも縄を回す役を押しつけられていた。正路としても、皆の「あーあ」というリアクションを食らうのがつらくて、いつしか何も言われなくても縄を持つようになった。
縄回しの相棒はいつも担任教諭で、身長差と正路に体力がないせいで、回しているとすぐ肩がちぎれそうに痛み始めるのが常だった。
それなのに縄の向こうから、「楽しいだろ、足達!」と担任に声を掛けられ、必死で作り笑顔を返していた自分を思い出してしまい、正路の口からは「あああ」と
(そうだ。あのときとまったく一緒だ。縄跳びに加わるタイミングがわからなくて、思いきって突っ込んでいったらそのたびに大失敗して、みんなに迷惑ばっかりかけてた。縄を回すのはしんどくて痛くてつらいばっかりなのに、みんなが楽しそうだから、無理やりニコニコしてた。僕はあの頃から、ちっとも変わってない)
他にできることがないからやっていた縄回し係ですらたびたび失敗し、担任教諭に「足達よう、お前は何ならできるんだかな」と困り顔で言われたことまで思い出し、正路はとうとう道端で立ち止まってしまった。
うっかり
(何をしても
そんな絶望は、今、突然生まれたわけではない。
幼い頃から、努力してもどうしようもない失敗と
「もう、歩いたって意味がないじゃないか」
このまま歩を進めても、たどり着くのは、待つ人のないひとりぼっちのアパートだ。
新しいアルバイト先を見つけられなければ、そのささやかな住み
「僕には、誰もいない。何もない」
そんな
限界ギリギリの精神状態が、正路の警戒心をあまりに鈍らせていたのかもしれない。
あるいは、とめどなく流れる涙が、視覚を
とにかく、正路がハッと我に返ったとき、彼の視界は
「え……っ?」
その光が、狭い道幅ギリギリに不自然な蛇行を繰り返しながら、猛烈な勢いでこちらへ向かって走ってくる自動車のヘッドライトだと気付いたときには、もう遅かった。
両脚に走った激痛に悲鳴を上げるより早く、胸部に強い打撃を受け、息が詰まる。
どす、だったり、めり、だったり、ぐしゃ、だったり。
これまで一度も聞いたことがない、重くて鈍くて生々しい音を聞きながら、正路は自分の身体がチリのように宙に舞うのを感じていた。
よく、人生の終わりに、人はそれまでのことが
だが、そんな余裕は正路にはなかった。
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