一章 ありふれた最悪②

 その日の夜。

 重い足取りでアルバイト先へ向かった正路を待っていたのは、思いもよらない出来事だった。

 彼がここ一年近く働いているのは、自宅アパートの最寄り駅から二駅離れた場所にある、全国チェーンの居酒屋である。

 週に五日、開店前の準備から閉店後の片付けまでさまざまな作業をこなし、それでどうにか生活費を確保してきた。

 仕事自体はなかなか大変だが、時給は悪くないし、仕事の合間にボリュームのあるまかないも出るので、浪人生にとってはありがたい職場である。

 二度目の大学受験に失敗したショックは大きかったが、何もしていないと苦しさや悲しみ、迷いといったもろもろの感情が押し寄せてたまらなくなるので、今日ばかりはむしろ店が忙しいのがありがたい。

 重い現実からひとまず気をらしたくて、正路はいつも以上に仕事に打ち込んだ。

 そして、最後の客を見送り、後片付けに入った午後十一時過ぎ。

「おーい、足達君。ちょっと」

 売り上げのチェックを終えた店長が、フロアの掃除中だった正路を一声呼んで、返事も聞かずに奥へ引っ込んだ。

 正路を採用してくれた年配の先代店長は、折に触れて気さくに話しかけてくれるタイプだったが、先月新しく配属された現店長とは、開店前のミーティングで訓話や指示を聞くだけで、一度も個人的な会話をしたことがない。

(何だろう。もしかして、お客様からクレームが入ったとかかな)

 やや緊張しながら、正路がバックヤードにある事務所に顔を出すと、いちばん奥まった場所にある机で、制服の上からジャンパーを羽織った店長が、難しい顔をしてパソコンに向かっていた。

 正路の姿に気付くと、店長は無言のまま、指先をくいくいと動かして、近くに来いと指示してきた。

 ずいぶんと横柄な態度だが、アルバイト店員の正路には、店長相手にそれしきのことで腹を立てる権利はない。

 正路がおずおずと近づいていくと、店長はニコリともせず、「すぐ済む話だから、立ったままでいいよな?」と言った。

 質問の体を取ってはいるが、実際は「立っていろ」という命令だ。正路は黙ってうなずき、店長の机の脇に立った。

「あの、どんなご用でしょうか」

「ん、これまでお疲れさんって」

 サラリと告げられた「用事」の意味をすぐには理解しかねて、正路は「はあ」とあいまいな受け答えをする。

 すると店長は、軽くいらついた様子でこう付け加えた。

「つまり、ここでの仕事、そろそろ卒業したいんじゃねえかなって言ってんだよ」

「ええっ?」

 そこでようやく、自分が解雇されようとしていることに気付いて、正路は思わず一歩机に歩み寄った。

「待ってください。僕、何か間違ったことをしてしまったんですか?」

 すると店長は、おおめ息をつき、どっかと椅子にもたれた。

「間違ったことってわけじゃないかもだけど、なあ」

「じゃあ、どうして」

「どうしてって、知ってるだろ。前の店長がクビになって、俺が来た理由」

 投げやりに問われて、正路は、突然いなくなった先代店長の人のよさそうな笑顔を思い出しながら、躊躇ためらいがちに答えた。

「その、噂では、店の業績が思わしくなかったから、とか」

「それよ。知ってんじゃん」

 店長はパチリと指を鳴らして声のトーンを上げた。

「この店は駅前で、立地は抜群だ。なのに、競合店が多すぎて売り上げが今イチなんだよ。俺ぁ、お前らと違って、本部からここを立て直せって命令を受けて派遣されてきてんだ」

 どう返事をしていいかわからず、正路は頷くことで相づちに代える。

「とっとと結果を出して、一日でも早く本部に呼び戻してもらいたいわけよ。でないと勝ち組になれねえの。上に行けねえの。わかる?」

「……は、はい」

 反応の鈍い正路に小さく舌打ちして、店長はプリンターから出てきたばかりの紙を、正路の前にバシンと置いた。

「これ、こないだやったお客様アンケートの結果な。見てみ?」

 正路はおずおずと手を伸ばし、その紙を取った。そこに印刷されていたのは、居酒屋の客から寄せられたコメントの数々だった。

『ホールの女の子たちが、すごく元気で可愛くていい』

『ひとりマジメだけどもたつく店員がいる』

『最近、料理の盛り付けがれいになった』

『分煙をもうちょっとしっかりしてほしい』

『声が小さくてよく聞こえない男の店員何とかしてください』

『チェーン店でも店によって味が違う。ここはけっこういけてる』

『なんかちょっと陰気でノリが悪い店員ひとりいる』

(これ、は)

 正路の顔から面白いようにするすると血の気が引いていく。

「マジメだけどもたつく、声が小さい、ちょっと陰気でノリが悪い」

 店長は正路から紙を引ったくると、客のコメントから抜粋したフレーズを無闇に大きな声で読み上げた。

「なあ、足達君よ。お前以外の従業員に『誰のことだと思う?』ってたずねてみたら、全員お前のことだってよ。自分でもわかるだろ?」

 ツケツケと問われ、正路は言葉を発することができず、うなれた。

 わかっている。

 昔から、彼は内向的な子供だった。

 一人っ子で、幼い頃はとても身体が弱かったので、両親は心配して、正路をあまり外へ遊びに出さなかった。

 同年代の子供と触れ合う機会がなかったせいで、幼稚園に入る頃には、人見知りで引っ込み思案、主張することが苦手で、他人と心の距離を縮める方法がわからないという、今の正路のひながたかんぺきに出来上がっていた。

 学校では常にクラスメートのからかいやあざけりの対象ではあったが、ひどいじめを受けなかったのは、あまりにも正路の反応が薄くてつまらなかったからかもしれない。

 そんな彼の高校時代のあだ名は、三年間ずっと「空気」だった。

 友達もケンカ相手もおらず、部活にも入らず、これといった特技もなく、成績は中くらい、ルックスもほどほど。

 まさに「毒にも薬にもならない」を絵に描いたような正路少年には、それ以外につけるべきあだ名などなかったのだろう。

 実家を離れて一人暮らしを始めたとき、この居酒屋をアルバイト先に決めたのは、待遇だけでなく、そんな自分を変えたいという気持ちがあったからだ。

 だからこそ、アルバイト仲間に誘われれば勇気を振り絞って皆でテーマパークに行ったり、飲み会に参加したりしたが、そこでもやはり何一つ気の利いたことが言えず、他のメンバーのようにパーッと自分を解放して楽しむこともできない彼は、完全に仲間から浮いていた。

 いつしかそういう誘いも途絶え、気付けば、従業員のLINEグループからも外されていた。

 仕事中も、酔った客のハイテンションにどうしてもむことができず、他の従業員たちのような軽妙な会話もできなかった彼は、やはり「浮いて」いたのだろう。

 それでも、一生懸命、誠実に対応していれば、真心だけは伝わるはずだ。そう信じていた正路にとって、客からのしんらつなコメントは衝撃だった。

(お客さんから、こんな風に思われてたなんて)

「なあ。わかってんだろ? これ、全部お前のことだよな? 違うんなら言ってみな。誰のことだ?」

 ネズミをいたぶる猫のような意地の悪い笑みを浮かべ、店長はうつむく正路の顔を下からのぞき込んでくる。

「……です」

「聞こえねえよ!」

 蚊の鳴くような声で答えるなり大声で𠮟しつせきされ、正路は全身を硬直させる。店長は、手のひらで机の天板をバシンとたたいた。

「ああ? 葬式帰りみたいな顔しやがって。そんなだから、『声が小さい』だの『陰気』だの言われんだよ。なあ? 誰のことだ、ここに書かれてんのは!?」

 重ねて問われ、正路は泣きそうな気持ちで精いっぱいの声を絞り出した。

「ぼく……僕、です」

「声が小さいっつってんだろうが!」

「僕ですっ!」

 もはや悲鳴に近い返事をして、正路は唇を引き結んだ。緊張と恐怖で全身が小刻みに震え始め、一秒でも気を抜けば、涙がこぼれてしまいそうだった。

 そんな正路を、店長はけいべつまなしで見やった。

「これしきのことで半泣きになってんじゃねえよ。泣きたいのはこっちだっつの。お前はまあマジメだよ。それは認める。けど結果として、この店の明るくて楽しい雰囲気を、お前が損なってんの。お前が、俺たちみんなの足を引っ張ってんの。それ、よくないでしょうよ。なあ? 売り上げにも響くよなあ?」

「……はい」

「だったら、お前に辞めてもらって、可愛くて元気な女の子をひとり増やしたほうがずっと店のためにもなるし、お客様のためにもなる。そう思わねえか?」

「おもい、ます」

 震える声で認めて、正路はようやく少し顔を上げ、店長のしかめっ面を見た。

「じゃあ僕は、クビ、ですか」

「は? まさかだろ。そんなこと言ってない」

「えっ?」

 店長の思わぬ言葉に、正路の子犬を思わせるつぶらな目に、わずかな期待の光が宿る。

 しかし店長は、常識を語る口調でこう言った。

「こっちから解雇するには、もっともらしい理由が必要とか、一ヶ月前に予告とか、そういう厄介なルールがあるわけよ。まあもちろん、足達君がどうしても解雇されたいっつうんならそれでもいいけどよ。君、これから一ヶ月、平気な顔で働き続けられる? 堂々と俺たちの足を引っ張り続けたいわけ?」

「あ……」

「や、いいんだよ。それは足達君の権利だからさ。俺は尊重するよ。うちホワイト企業だからね。決して、クビになんてしないよ。ただ、俺たち職場の仲間たちのことと、何よりお客様の利益を考えて、君自身がこれからの方針を立ててくれたらなーって」

「それって……つまり、僕のほうから」

「おっと、こっちは何も強制してないよ。自分でよく考えてくださいってお願いしてるだけ。さて、君はどうするの? どうしたいの? 言って」

 さっきまでの剣幕はどこへやら、店長は急に猫なで声でそんなことを言った。「お前」呼ばわりが、いつの間にか「君」になっている。

 これは決して解雇ではない、どうかつもしていないという店長のアピールに、正路はすっかり混乱してしまった。

 そんな正路に、店長は相変わらずの優しい声で、しかし容赦なく畳みかける。

「ほら、こっちだって忙しいんだからさ。早く返事して。どうすんの?」

 早口に言い終えてからも、店長の口は、声を出さずに動き続けている。

 そのゆっくりとした口の動きは、幾度も繰り返し、同じフレーズを形作る。

 もう、逃げ道はないのだ。

 そう悟った瞬間、正路はすべての気力を失い、ただ、店長の唇が大きく動いて促す言葉を、従順に震える声で発した。

「今日で……辞めさせて、ください」

「あっそう? 相変わらず声ちっちゃいけど、ギリ聞こえました。いやあ、残念だなあ。実に残念だけど、君の意思を尊重して引き留めないよ。お疲れさん、いやどうもどうも」

 店長の、今にも踊り出しそうに明るい声に、彼がいかに正路を辞めさせたかったか、それがかなってどれほどうれしいかがいやおうなく伝わってきて、正路はとうとうこらえきれない涙が、目の奥から湧き上がるのを感じた。

 店長の目の前で泣くことだけはなけなしのプライドが許さず、正路は無言で深々と頭を下げ、そのままクルリときびすを返す。

 扉を開け、外に出ようとしたとき、背後から店長の相変わらず弾んだ声が鼓膜を打った。

「あっ、制服は置いていけよ。あと、ロッカーはれいに掃除して、私物を残さないように。そうそう、記念品のつもりで店の物を持ち帰ったら窃盗罪だからな。もううちの人間じゃないんだから、容赦なく警察呼ぶぞ」

 あまりにも心ない追い打ちにうなずくことすらつらすぎて、正路はそれでも静かに扉を閉めた……。

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