一章 ありふれた最悪①

 三月某日、午後二時。

 K大学農学部の広々としたキャンパスの一角には、たくさんの人が集まっていた。

 年齢も服装もまちまちだが、皆、一様に期待と不安が入り交じった表情で、目の前の建物の閉ざされたガラス扉を見つめている。

 今年、二十歳になるだちまさみちもまた、その中のひとりだった。

(今年こそ。神様、お願いです。どうか今年こそ。……どの神様かは、よくわからないけど)

 そんなあいまいな祈りを、今朝起きてから何度繰り返したことだろう。

 今さら祈っても遅いとわかっていても、そうせずにはいられなかった。

 さっきからひどのどがひりついて、せきばかり出る。正路は右肩に引っかけていた薄いリュックサックから、ペットボトルのお茶を取り出し、グビリと一口飲んだ。

 つい気がはやり、予定の時刻より一時間近く前に来てしまったせいで、身体がだいぶ冷えてきた。突っ立っているだけなので、無理もない。特に、足首の辺りがヒヤヒヤして、関節がこわる感じがする。

(そろそろ予定時刻だけど、まだかな。早く確かめたいような、もっと遅くてもいいような。ああ、こんなに寒いとわかってたら、使い捨てカイロでも持ってきたのに)

 正路がかじかみ始めた手をこすり合わせていると、人々の間からざわめきが起こった。

 建物から、この場に居合わせる皆が待ちわびていた、スーツ姿の三人の大学職員が姿を現したのだ。

 先頭を歩くもっとも年かさに見えるひとりは拡声器を片手に持ち、あとの二人は丸めた模造紙の束をそれぞれ一つずつ抱えている。

 人々の熱い視線を浴びつつ、年配の職員は、まだ何も貼り付けられていない木製の簡素な掲示板の横に立ち、口元にスッと拡声器を当てた。

『ただいまより、K大学農学部の入学試験合格者の受験番号を掲示致します!』

 スピーカーから流れるひび割れた声に、人々はいっせいに掲示板の前へと殺到した。

 そう、彼らは皆、受験結果を見るために集まっていたのである。

 今どきは、合格発表などオンラインで確認できるのだが、やはりそこは現地で、自分の目で確かめ、実感したいというのが人間の心理というものなのかもしれない。

 正路も、凍えて少ししびれたような足の裏に閉口しつつ、人の流れに乗って移動する。

 二人の職員は、恭しいといっていいほど厳粛かつ慎重に、大きな掲示板に広げた模造紙を一枚、また一枚と貼り付けていく。白い模造紙には何の装飾もなく、ただ五けたの受験番号が隅から隅まで整然と印字されている。

 掲示板前で押し合いへし合いしながら自分の受験番号を探す人々の中からは、次々と歓声や落胆の声が上がり始めた。

 共に合格して友人たちと抱き合い、飛び上がって喜ぶ者、自分は合格したうれしさを押し殺し、不合格だった友人を慰める者、早くも在校生たちにつかまって、サークル活動に勧誘される者、ひとりで結果を確認し、静かにその場を立ち去る者……。

 そんな明暗を分ける中、正路もまた、掲示板に忙しく視線を走らせていた。

(あ、僕の受験番号のあたりは、あそこの紙だな)

 移動を妨げる人々を遠慮がちにき分け、さっき張り出されたばかりの模造紙の前に移動して、自分の受験番号を探す。それだけのことが、小柄でやせっぽちな彼には、なかなか難しい。

(神様、どうか。どうか今年こそは合格させてください)

 一歩進むごとに、彼は心の中でじゆもんのように繰り返す。

 しかし、すがるような正路の願いは、あっけなく打ち砕かれた。

 去年とまったく同じように、彼の前後の受験番号は見つかるのに、彼のものだけが抜けている。

 不合格。

 頭のてっぺんから足のつま先まで、その一言が、まるで長いやりのようにざっくりと貫いていく。

(まただ。また……ダメだった。両隣の人は合格したのに、僕だけ)

 全身から力が抜け、その場にしゃがみ込んでしまいそうになるのに、人混みはそれすら許さない。

 まるで海を漂うポリ袋さながらにあちらへ流され、こちらへ流されて、ようやく掲示板の前から離れられたときには、正路は心身共にボロボロになっていた。

(やってしまった。二度も失敗してしまった)

 半ば魂の抜け殻状態で、彼はヨロヨロと花壇に近づき、コンクリート製の頑丈そうな縁にポスンと腰を下ろした。

 さっきまでは外の寒さに震えていたが、今はみぞおちに氷の塊を突っ込まれたように、むしろ身体のしんが冷えきっている。全身の血液が凍り付いた感覚だ。

(この一年、いったい何だったんだろう)

 昨年、同じ大学の受験に失敗した正路は、実家がある秋田県を出て、大学のある神奈川県にひとり移り住んだ。

 お小遣いやお年玉を積み立てたささやかな貯金とアルバイトの収入でどうにか家賃を払い、予備校に通う余裕はないので、動画サイトに提供される無料の学習ビデオを頼りに、勉強に励んだ孤独な一年だった。

 一度も実家には帰らず、年明けには郷里の同級生たちが同窓会で盛り上がっている写真をSNSでうらやましく眺めながら、それでも古ぼけた木造アパートの一室で、小さなこたつに潜り込んで勉強に打ち込んできたのだ。

 それなのに。

(今年こそは、いけると思ったのに。ごたえはあったのに)

 最初のショックがわずかにおさまって、気絶していた心がゆっくりと動き始める。

(どうしよう。僕は、どうしたらいいんだろう)

 そんな悲痛な思いに応えるように、彼のコートのポケットの中で、スマートホンが振動した。

 慌てて引っ張り出してみると、液晶画面に表示されているのは、郷里の母親の名前だった。

 途端にこみ上げる嵐のような感情をひとまずぐっとこらえて、正路は通話アイコンを押し、体温で温まったスマートホンを冷えきった耳に押し当てた。

「もしもし?」

『もしもし、正路? 元気にしてる? 今日、発表って言ってたでしょ。朝からみんな、ずっと気にしてるんだけど』

 普段はLINEやメールでやり取りする母親が珍しく電話してきたからには、よほど正路からの報告が待ちきれなかったに違いない。

 正路は申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、ここで噓をついてもどうしようもない。叫び出したい気持ちを深呼吸でぐっと押さえつけ、彼はできるだけ平静な声で告げた。

「ごめんね、お母さん。今年も駄目だった……」

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