第15話 ペペロンチーノの登壇
その十分前、男は図書室で呆然としていた。
リリアを初めて見たことに戸惑っていた彼だ。
でも、呆然とした理由はそこではない。
その直後に届けられた報告書の内容に、彼は愕然としていたのだ。
「Bクラスの午後の授業の先生が病欠した……だと?ネアンデール先生だったよな。いや、あの先生は午前中Aクラスで授業してたろ!?もしかしてレオナルドかイグリースに何かを吹き込まれたのか?」
無論、それだけで愕然とはしない。
「——だからペペロンチーノ先生が代わりに授業をするようにって……、これはロザリーの仕業か?」
彼の元に、教職員が絶賛混乱中という知らせは確かに届いている。
事件とするべきか、どうするべきか、生徒以上に混乱している教師陣。
『ボルネーゼ家と上流貴族が事件を揉み消した』
ゲームではその一行で解決できるかもしれない。
でも、事件を揉み消すのにどれだけ労力がいるのか、このベコン・ペペロンチーノには想像も出来ない。
「うーん、確か……。ネアンデール伯爵の授業は『歴史学』か。おい、俺。降霊する前の俺!ジョセフ・サンダース!歴史は嫌いだったのか!?全然、前の俺の記憶がないんだが!?……はぁ、それにしてもあっさりと逃げたものだな。気持ちは分からなくはないんだけど、俺も逃げたいし。」
Bクラスは火中の栗状態、それは流石に理解できる。
その栗をうまく拾いあげたところで、ネアンデール伯爵に意味があるかは分からない。
ボルネーゼ家は学校に対して最も影響力を持っている、——とはいえ、王のお気持ち次第で、その栗は手元で破裂するかもしれない。
だから誰もがこう考える、触らぬが吉。
藪に入っているのは蛇に違いないと。
「——んで、俺に白羽の矢が立ったと。確かに傍から見た俺は暇そうだもんな。」
図書室担当教官とかいう、訳のわからない人材が教員枠として余っている。
無理やりねじ込んだというより、必要のなさそうな場所に新たな枠を作った。
だから学校側としては、この余ったカードを使わない手はない。
彼の悩みはこの依頼が「ロザリー」を経由しているかどうかである。
実際、授業はどうとでもなる。
——その理由もある。
授業風景はゲームには登場しない。
教科書を黙々と黒板に書いても良いし、デカデカと自習と書いても良い。
やりたい放題でも問題ない筈だ。
だから問題は、彼女からの指令だとしたら、だ。
「ロザリーの命令だとしたら、至極真っ当な授業をしろ……だろうな。無気力な授業をしてしまったら、それこそ学校側の俺という存在を疑われてしまう。それに、出来るならマリアベルのフォローをしろってことか。娘に無用な心配をさせたくはないが、動きすぎるとこんな便利な居場所を失ってしまう……か。でも、これは利用するしかないよな。」
彼の気持ちは、実は最初から決まっていた。
だから意気揚々と図書室の本棚に向かうのだが、彼は歴史書のコーナーを前にして立ち止まってしまう。
「リリアが歴史の本を借りてったんだった……。Cクラスは明日が歴史の授業か。なるほど、予習するタイプのチートヒロイン。彼女が敵かはさておき、マリアベルはとんでもない奴を相手にしている。」
努力する天才チートヒロイン。
見つめられた瞬間に理解させられた。
主人公補正、そんな言葉で済ませられない魅力的な少女。
守りたくなる存在、支えたくなる存在、男の所有欲を掻き立てる存在。
——なにより、自由と平等の象徴。
そうでなければ、眉目秀麗、品行方正、資産運用、魑魅魍魎の貴族軍団の中で、彼女は主人公になれないだろう。
それは分かっているつもりだ。
確かに彼女が主人公だ、と思った。
「それでも……、俺はマリアベル派だ」
彼は本棚を諦めて奥の部屋に向かう。
分かりやすそうな歴史書は、全部シーブルに持って行かれた。
シーブルも三冊持っていったから、六冊分が抜き取られている。
「あくまで教員として……だ。あくまで他人、あくまで全ての生徒に教えるつもりで——」
彼は図書室の奥にある部屋の戸を開けた。
そこは生徒立ち入り禁止ゾーン。
設定上、存在していた部屋が本当にあった。
当たり前かもしれないが、ちょっとした感動もある。
「これと、これ。……要はこの世界の設定を話せばいいんだよな?出来るだけ、マリアベルの為になるものにしよう。シーブルもいるが、アイツに聞こえないように器用に喋ろう。」
そんな親馬鹿ぶりを発揮させながら本選びをして、何を話そうかと彼は決める。
もしかしたら、一回限りの教師役、それならとっておきの話をするべきだろう。
「良し。これしかないよな。じゃあ、我が娘に教鞭を振るうとしようか」
そして、彼はマリアベルのいる教室に初めて足を踏み入れた。
◇
「初めましての方は初めまして。お久しぶりの方はお久しぶり。私の名前はベコン・ペペロンチーノ。普段は図書室の管理人をしております。」
教室が、彼の一言で静まり返る。
数人は彼のことをなんとなくは覚えている。
始業から一ヶ月も経っていないのだから、図書室に入り浸る生徒はあまりいない。
(え?静まり返ったけれども……。やっぱ、不味いのか?バレてる……とか?)
国内トップレベルの変身魔法は認識さえも曖昧にするという話、そう聞かされている。
ただ、自分が掛けられているのだから、その判断が付かない。
「ペペロンチーノ先生!?」
ただ、シーブルは喜ばしいことに反応してくれた。
「どうも、シーブル君。ネアンデール先生が体調を崩されたです。ですから、代わりの教員として私に白羽の矢が立ちました。国内随一の歴史家のネアンデール先生の代わりが務まるとは思いませんが……」
彼のおかげで説明の手間が省けた、とばかりに全員の前で頭を下げる紫の髪の教官。
でも、内心はひやひやである。
(ここがマリアベルのクラス。思っていた通り、このクラスを支配しているのはマリアベルだな。リリアと正反対のオーラだが、彼女のおかげでリリアに傾かなかったまである。……にしても、本当にマリアベルにもバレないのか?マリアベルもネザリアの血を引いている筈なんだよなぁ。)
視線を合わせたら不自然な気がするが、視線を合わせないのも不自然な気がする。
だから、彼が選択したのは、誰の目も見ないという最も消極的な回避術。
「いえいえ、ご謙遜を。僕は知ってますよ。あらゆる学問に精通していると、職員名簿に書いてありました。そして山の奥で修行を積まれていたとか。」
「シーブル君、あれは学校側が考えたジョークですよ。それにいつの間に職員名簿なんて見ていたのですかね。」
流石は情報通、魔法書マニア・シーブル。
ベコンの認識が甘かったらしい。
どこに職員名簿があったのかは知らないが、流石に知られていた。
ベコン・ペペロンチーノはあらゆる面でマリアベルを援助できるように仕組まれている。
(ネザリアは予言師を信じてここまでの準備をした。そして降霊術を実践して俺を呼び寄せたんだ。ボルネーゼはそれほどの家、それくらいやってのける。……俺がその設定について行けるかは、別問題だけれども!)
あの日、ロザリーに手渡された教員免許に目を剥いた。
ただ、教員免許だけに目を剥いたわけではなかった。
全ての才能オールAの教官として、国に認定されていた。
そして何故そんな人物が急に現れたのか、という理由付けが山籠りである。
なんと雑な設定か、と。
(ロザリー様曰く、本来、この世界に存在しない人物なのだから、何でもありという理屈)
影の支配者ネザリアにかかれば、居ない人間を作ることなど造作もない。
孫の為に彼女は無茶を通しまくったのだ。
その全てを託されているのだから、失敗は許されない。
「……さて、ネアンデール先生はどこまで歴史を紐解かれていたのでしょうか。」
図書室教官は分厚い本をそっと教壇に置く。
鍵が掛かっている、なんとかというチェーンライブラリの本を持ってきた。
多分、めちゃくちゃ高い代物だろうからと、彼は白い手袋でゆっくりと頁を捲る。
「この辺りはどうでしょうか。ライスリッヒ諸島の歴史などは?」
……この辺の情報なら別に与えても問題ない——筈?
そう。
彼はこのゲームをそれなりに理解している。
やろうと思えば、タイムパラドックスさえ起こしうる。
——だがその場合、世界がどう転ぶのか分からない。
老婆ネザリアの魔力が残っている間は、マリアベルが真に追い込まれることはない。
今年の終わりに彼女は死ぬ。
そして、急速にボルネーゼ家は力を失う。
とはいえ、急ぐべきではない。
ネザリアとはちゃんと話をしている。
——奥の手は最後まで取っておくから意味がある。
ゲームのネタバレはネタバレしていないから価値がある。
ただ、彼はマリアベルの本当の父親ではない。
だから、彼女にこんな一面があるなんて思っていなかった。
「先生!私、その話、とっても気になります!」
今の今まで、うろんな目つきだった少女の瞳が、突然光を宿して輝き始めた。
いや、輝き始めてしまった、と言うべきか。
(あれ?どした、マリアベル?っていうか、久しぶりに見るマリアベル、可愛い!リリアより断然、可愛い!あぁ、本当はもっと……)
「ネアンデール先生も、お母様もお婆様も、ライスリッヒ諸島の話を教えてくださらなかったのです!」
(え?いやいや、そんな馬鹿な。だってこの話は。いや、このキャラはパッケージにちゃんと載っているんだし……)
おやおや?
と、冷たい汗が流れる中、ペペロンチーノ伯爵家五男の講義が始まる。
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