344.本音と建前を間違えたわ

 刺繍は最後までやり遂げた。お祖母様は刺繍が得意だったと聞くけれど、こういった才能は遺伝しないのね。実はお母様もやや残念な腕前なのよ。


 それでも私よりはマシ。きちんと形になっていたもの。出来上がったハンカチは、丁寧に染み抜きされて血の跡はない。それでも刺繍された紋章がかなり歪んでいた。


 丸いはずなのに、どうして右上へ向かって楕円形になったのかしら。自分でも首を傾げるけれど、直し方も分からないわ。これを手直しするより新しく作る方が早いかも。いえ、どちらも大変ね。


「ありがとうございます。一生の宝にいたします」


「まだあげると言ってないわ」


 テオドールは満面の笑みで、恭しく拝領する構えだ。あなたにあげるつもりで作ったけれど、この出来では渡したくない。幸い今は作り直しの時間があるけれど、作り直しても同じ結果になりそう。


「ワイエルシュトラウスの紋章を変更いたしましょう」


 まさか、この刺繍に合わせて、紋章を変える気なの? やめなさいよ、恥ずかしいじゃない。


「わかったわ。刺繍は渡すから、紋章の変更はダメよ」


「はい、ヒルト様のお言葉に従います」


 絹の品質は最高級だし、糸も同じ。手触りはいいと思うの。刺繍が歪んでることだけ気にしなければ、大丈夫よ。胸元から見えるのはほんの少しだもの。我慢できる、そう言い聞かせる私から受け取ったテオドールは、慣れた手付きでハンカチを畳み直した。


「これでいかがでしょう」


 礼装ではない普段着のシャツの胸元に、さっと当ててみせる。不思議と歪みが目立たなかった。いえ、それどころか違和感ゼロよ。どうやって畳んだのかしら。


 無言で食い入るように見つめる私に、テオドールは顔を近づけた。気づいているけれど無視したら、ちゅっと音を立てて唇の端に触れてくる。ぱちくりと瞬きする間に、整った顔はさらに近づいて。じっくり味わわれてしまった。


「っ、テオドール!」


 解放されて咎める響きで名を呼ぶ。しかし彼に反省の色はなくて、逆に耳元で甘い声が囁いた。


「テオと、そう呼んで」


「ずるいわ!!」


 唇を尖らせて抗議する。分かってるのよ、仕事が忙しくてお預けにしたわね。そうしている間に妊娠が発覚して、さらにお預け期間が長くなった。欲求不満なんでしょう。


 そう突きつけたら、きょとんとした顔で瞬く。思わぬことを言われた、そんな顔だった。


「欲求不満ですか? ありません。あなた様が私の隣にいて微笑みかけ、名を呼んで、見つめてくださる。それだけで昂り満たされるというのに」


「……どれだけ変態なのよ」


 そんなことあるわけないでしょう。


 本音と建前を間違えたわ。嬉しそうに笑わないで頂戴。困った駄犬よね。でもその駄犬がいいと思うなんて、私も大概だわ。


「お兄様とエルフリーデが戻るまでに、家具を発注しなくちゃいけないの。手伝いなさい」


「こちらはいかがでしょうか。お召し物の傾向から、好みではないかと思います」


 命じたらそれ以上の成果を出す。裏の仕事でも、執事でも、夫でも……そんなテオドールの声を聞きながら、家具を示す彼の指を掴んだ。素直に力を抜く手を引き寄せ、その指先に唇を当てる。


「私が死ぬまで、先に逝くことは許さないわ。私を看取ったらすぐに追いかけるのよ?」


「もちろんです、ヒルト様」


 こんな命令、そんな嬉しそうな顔で受けないで。千切れそうな尻尾の幻影が見えた気がした。

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