295.走り続けた私に束の間の休息を
積まれた書類をテオドールが分類する。隣でエレオノールが資料を読み上げながら、サポートを始めた。ペンのインクが掠れればインク壺が交換され、手を止めるとお茶が差し出される。
快適過ぎて、複雑だわ。ようやく乳母が決まり、私は子育てから執務へ戻った。ふとした瞬間に、視線が彷徨う。つい先日まで、同じ部屋で過ごしたヴィンフリーゼを探してしまうのだ。お腹が空いたのでは? オムツはまだ大丈夫かしら。そんな考えが自然と浮かんだ。
「気が散ったわ」
しっかりした休憩を取ると明言し、執務机から離れる。ソファに座れば、横になりたいと体が訴えた。出産から疲れが取れず、そこへ追い打ちを掛ける娘の世話。ようやく気を緩めてもいい状況になっても、今度は娘の不在が気になる始末。これって貧乏性なのかも。
「ブリュンヒルト殿下、庭を散歩されてはいかがでしょう」
「動くのが嫌なの」
正直に答えて、慌てて手で口を押さえた。気が緩みすぎだわ。今までの私なら何か理由をつけ避けるのに、つい本音が溢れた。これは危険だった。
「お気づきですか」
「ええ。ありがとう、テオドール」
限界まで来ている。休まなくては身が持たない。そう告げた夫に頷き、心配そうなエレオノールに尋ねた。
「休みを取るわ。何日なら調整できる?」
「最大で五日間は問題ありませんが、最低でも二日は休んでください」
「分かったわ。三日、支えて頂戴」
嬉しそうに「はい」と返すエレオノールに、私は反省する。こんなに心配させるほど、表に出ていたなんて。もっと早く休むべきだった。出産で間が空いたから、つい無理をしてしまったわ。
ピンクのウサ耳の隙間の赤髪を撫でた。あなたも無理をしないのよ、と言いかけて呑み込む。私に言われたくないわよね。少しの間無理をさせるけれど、その分はきちんと労うつもりよ。
テオドールが差し出した手を取り、私室へ戻る。ベッドに横になるなり、左側のベビーベッドを探した。当然、乳母と共に別室だ。額に手を当てて、ごろりと天井を眺めた。
「わずか二週間でこんなに変わるなんて」
体調も心も、意識も。まったく違う。
「お嬢様、ゆっくりお休みください」
わざと「お嬢様」と呼ぶテオドールの気遣いに口元が緩んだ。まだ若い、大丈夫と慰める意味も含まれているが、あなたは何も変わっていないと自信を持たせる響きだった。本当に気遣いが上手ね。だから手放せなかったのよ。
私のワンピースを緩めるテオドールの手に協力しながら、楽な室内着に袖を通す。ごろごろと寝転がりながら、着替えた。こんなにお行儀悪いのは久しぶりで、ずっと笑いが収まらない。ワンピースを片付けようと身を起こす夫の袖を掴み、振り返った彼の首に手を回した。
「一緒に寝ましょう」
「……お誘いの意図がないのが不思議です」
体調不良の私を回復させたいテオが、私を襲う? あり得ないわ。だから安心しているの。大人しく抱き枕になりなさい。そう突きつけて、体の力を抜いた。柔らかなベッドに体が沈んでいくような、不思議な感覚に身を委ねる。
三日だけ。そうしたら立派に王太女としての役目を果たすから。少しだけ休ませて頂戴。走り続けることが、こんなに大変だなんて知らなかったのよ。
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