160.ご令嬢をいただきたいの
「エンゲルブレヒト侯爵はいらっしゃるかしら」
「はい、初めてお目にかかります」
私の名も呼ばず、自己紹介もしない。なるほど、キレ者だわ。私は侯爵がいるかとだけ尋ねた。クリスティーネの断罪シーンに、親がいる表記はなかったの。でもそれは、全体にあれこれ違っているから今更ね。
恋愛小説「あなたを愛していいですか」の本来の展開では、学園の卒業式が舞台だった。他国の要人や大使を招いての夜会ではないの。何より、お話の中でワインなんて出て来なかった。当然よね、卒業式なのだから。それがここまで狂ったなら、領地にいるはずの侯爵がいるかと思ったけど。大当たりだったわ。
「ローゼンミュラーよ。呼ぶことを許します」
「感謝いたします。ローゼンミュラー王太女殿下」
私の呼称である「ローゼンミュラー王太女」の肩書きは、他国の貴族でも口に出来る。それを口にせず、自己紹介しない意味はひとつ。揚げ足を取られないため。
私は「侯爵がいるか」と尋ねて彼は挨拶をした。だが「侯爵だ」と明言していない。逃げ道を残しながら、名乗り出たように振る舞う。その中で、私の呼称を口にしないことで、害意はないと示した。小説内で示された通り、外交に特化した才能があるわ。
ルピナス帝国で埋もれさせるなんて、勿体無い。
「ご令嬢をいただきたいの」
「……どのような意味で、でしょうか」
「そのままの意味よ。有能な外交官が欲しいわ。できたら一族丸ごと」
ここで外交官相手に言葉遊びをする気はない。欲しいと直接伝えた。そのほうが熱意が伝わるじゃない。むっとした顔のテオドールは、後で宥めるとして。返答を待った。
「娘と交渉なさってください」
あら、言うわね。なら口説き落とさせてもらうわ。クリスティーネに向き直った私に、後ろから罵声が飛ぶ。
「そもそも、あんたが悪いんじゃない!」
レオナだ。ごめんなさい、すっかり忘れてたけど……まだ退場してなかったのね。微笑んで振り返る。
「お酒に酔っておられるみたいね。いやですわ、
きっぱり言い切った。直訳すると「酒の臭いを漂わせて、酔っ払いが話しかけるんじゃないわよ」となる。貴族は今気づいたように私と彼女を見比べた。
明らかに赤いワインのシミが付き、人前で無礼を働かれた王太女。片や、見た目に変化はないのに酒の臭いを纏わせた、乱暴な口調の浮気相手。どちらを信じるか、迷う余地はない。ましてや、第二皇子の浮気から婚約破棄の流れを見ていたのだ。レオナに肩入れするバカはいなかった。
シュトルンツ国を敵に回したくない。それよりも臭うほど酒を飲む女に嫌悪感を覚えた。彼女を侍らせた皇子に非難の目が向かう。失意の皇帝が、場を取り繕おうと二人の退場を命じた。すでに遅いけれど。
「やめろっ! 何をする」
「ちょっとぉ、変なとこ触らないで」
騒ぐ二人が引き摺り出され、テオドールが動いた。
「我が最愛の姫、守れずに御身を穢した罪に罰をお与えください」
「いいわ。上手にできたら許してあげる」
芝居がかった私達の会話に、会場はざわりと揺れた。
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