「贅」務署
大枝 岳志
「贅」務署
私の消費癖は何も大人になった今に始まったものではなかった。小さな頃から周りの女の子達が持っている物は何でも欲しがったし、誰よりも良い物を持ちたくて両親に必死におねだりした。
今思えば何でも買い与えてくれる甘々な両親の存在が、私にとって良くなかった。
段々成長するにつれ、私は両親の力だけじゃなくて自分の力で欲しい物を手に入れたいと考えるようになった。しかし、我慢を強いられるような単調なバイトや人間関係の生まれるバイトはどれも長続きしなかった。
高校二年になるとそれなりに危ないお金の稼ぎ方も覚え、何でも買ってくれるパパも何人か持った。金銭感覚は麻痺し、大人になってから持った「カード」のおかげで大学を出て一人暮らしを始めて間もなかった私は、すぐに破産寸前に追い込まれた。
世間一般と比べればお金持ちだった私の両親だったが、経営していた会社が財政難になると生活はすぐに貧困の中へと堕ちていった。
それに気付かなかった私は自分の借金を事あるごとに両親に肩代わりしてもらっていた。
それでも、私は新作のバックや化粧品が出るたびに心の奥底から湧き上がる物欲を止めることが出来ずにいた。日々の多少の時間を割いてでもまだ需要のある身体を売り続け、返済には充てずに全て持て余した物欲を解消する為に注ぎ込んだ。
結果、私も両親も生活が破裂した。両親は実家を売り払い、小さなアパートに引っ越した。家にお金が無いとわかると、無情と思われるかもしれないけれど私から両親に連絡を取ることをしなくなった。
そんなある日、私の住むアパートに役人達がやって来た。どうせ滞納していた税金のことだろうと思っていると、彼らの中の一人が名刺を差し出して微笑んだ。
「私、「贅務署」の若田と申します」
「これ、漢字間違ってんじゃん。恥っ」
「いいえ。ニュース、ご覧になってませんか? 新設されたばかりなので、どうもイマイチ浸透していなくて困っているんです」
「贅務署……?」
突然やって来た彼らは「贅務署」の職員だと名乗った。怪しげな連中かと思ってニュースを見てみると、今年度から新設された「国民の生活基盤を抜本的に改善する組織」なのだととても小さな記事で紹介されていた。
「あの、それで何の用件ですか?」
「我々は市役所や税務の方の税務署とは違い、滞納しているお金を回収しに来た訳ではありません。が、林原琴音さん、あなたは随分と身の丈に合わない暮らしをしているようなので、是正しに参りました」
「是正? 何言ってんの?」
「生活を見直す、つまり生きるチャンスをあなたに与えると言うことです。我々はあなたの生存権を守る為に存在しています」
「はぁ? 全然意味不明なんですけど。帰ってもらえます?」
「そうはいきません。まずは……不要な贅沢品は全てこちらで処分させてもらいますね」
若田と名乗る四十くらいのちょっと狐っぽいイケメン男は、周りの男達に目配せをした。男達は玄関先で立ったままその様子を見ていた私を押し退け、空の段ボールを手に一斉に部屋の中へ雪崩れ込んで来る。
「やめてよ! ちょっと何してんの!? 警察呼ぶから!」
「おやおや、それはおやめになられた方がいいと思いますよ?」
「勝手にドカドカ侵入して来て何言ってんの!? 私の物に指一本触れたらマジで許さないから!」
「はい、これ見てください」
若田が差し出して来た一枚の紙切れには小難しい言葉がずらずら並んでいて、裁判長の判子と、贅沢品の没収、生活の改善という言葉が書かれていた。理由なく是正行為を妨害した場合には刑事告訴とかなんとかとも書かれている。
若田はリビングの上に置かれていたバーキンを摘み上げ、段ボールの中に落としながら笑う。
「今警察を呼んでも捕まるのはあなたの方です。せっかく生活を見直すキッカケが出来たというのに、あなたは自ら人生を棒に振る気ですか? 犯罪者は辛いですよぉ。新設されたばかりで幸い、まだ逮捕者は出てないんです。が、第一号となれば当然報道もされますし、好奇な目で世間から見られることでしょう。ネットで名前を検索すればあれやこれやと消えない過去も残されることでしょうねぇ……。ま、それでも良いと言うのなら、どうぞ」
「……私をどうする気なの?」
「どうもこうも、あなたが壊れないように身の丈に合った生活を送って頂くだけです。あなたの今の生活レベルには高級バックも高級腕時計も必要ありません。返済額を考えれば、月に自由に使えるお金があること自体がおかしいんです。それから、身なりをいくら上等な物にしようともあなたの生活行動、つまり内面と乖離してますから。その服も後ですべて脱いで下さい。没収します」
「はぁ? 服もバックも私のお金で買ったものでしょう!? そんな権利あなた達にない!」
「林原さん、いいですか? お聞きなさい」
若田は私に顔を近づけ、細い目を見開いて忌々しげに口をひん曲げると、吐き捨てるように言った。
「借りたお金というのは、あなたのお金ではありません。返済を無視し続けるあなたのお金で買ったものなど、ここには何ひ、と、つ! ありません。以上」
「……そんな」
贅務署の職員達は私がカードで買ったバックや財布、コートなんかを次々と段ボール箱の中へ放り込んで行った。
ヘルシー料理が出来るのが売りのスチーム機能付きの電子レンジは没収され、ご丁寧に用意していたようで見るからに中古の三流メーカー品に代えられた。洗濯機も、テレビも、化粧品に至るまで、私の生活に欠かせない物たちはすべて三流品に取って代えられた。
彼らが帰った後に部屋の中を見回してみると、まるで貧乏大学生の部屋に突然来てしまったような錯覚に陥った。
それからというものの、生活の中で「贅務署」の存在を叩きつけられる機会が嫌と言うほど増えた。少しの贅沢くらいは良いだろうと思い、スーパーで普段購入している値段の倍近いインスタントコーヒーをカゴに入れる。ところが、それをレジ打ちした店員が突然申し訳なさそうな顔になって、私に小さく頭を下げた。
「大変申し訳ございません……こちらの商品はお客様はご購入頂けない決まりになっておりまして……」
「はっ? 買えないってどういうこと? さっさとレジ打ってよ」
「大変申し訳ございません……あの、贅務署の指導に従うという決まりがありますので……」
「……あっそ! じゃあいい!」
こんな所にもあいつらは私に干渉してくるのか。私がちょっと破産しそうになったくらいで普通そこまでする? こんな生活送ってたらストレスで頭が爆発しそう。そう思った私は、私の生活様式をまるまる一変させる作戦を思いついた。
顔はイマイチだったけど、とにかく人が良くて金は持っている佐竹という彼女が出来たばかりの童貞上がりを短期間で落とし、結婚の約束を取り付けた。
コンパで知り合った時から私に気があることは分かっていたけれど、とにかくスマートな男じゃないし、背は百七十しかなくて話にならないし、学歴も青学程度と、これまた良い所が一つも見つからなかったけど私は自由になるお金の為に妥協した。
この男は私を愛してくれるし、金に糸目もつけない。
別れてもらった彼女には散々嫌味や恨み節を聞かされたりもしたけれど、そんなものはブスに生まれ、男を取られた方が悪いに決まってる。そんな愚痴はすべてホストクラブで吐き出して、外の男との愛のないセックスで解消した。
結婚に向けて佐竹と新居を建てる計画をしつつ、結婚となると何かと物入りになるからと言って彼が持っていたグレードの一番高いカードを使わせてもらえるようになった。私がいくら使おうとも佐竹は文句一つ言わないし、名義も彼のものだから贅務署も動かなかった。
青山を歩きながら目についたショップに足を踏み入れると、心の中でじっと息を潜めていた物欲がゼェゼェと息を巻いて走り出す。あれが欲しい、これも欲しい、あっちのも欲しい、全部欲しい。
会計時に提示される金額に私の感覚は麻痺し始め、移動手段は常にタクシーを使うようになった。部屋の中に再び積み上げられて行くバックやコートの数々を使用することは、ない。いつか使うかもしれない、いつか着るかもしれない、そんな言い訳が日に日に積み重なり、崩れ掛けたある日、私は佐竹にこんなことを言われた。
「琴音ちゃん、最近少し太った?」
「え? バレた……? 祐一さん、私が太ったら嫌かな……嫌、だよね……?」
「そっ、そんなことないよっ! き、きみは元々痩せすぎだったから、少しくらい太った方がちょうどいいし、何よりも健康的だと僕は思うから、そんなっ、太ってるだなんて思ってないし、気にもしていないよ! 本当だよ?」
「うん、ありがとう。祐一さんってやさしくて大好き!」
「じゃ、じゃあ、そろそろ……エッチの方もいいかな……?」
「私が痩せたら、ね? 今のままじゃ恥ずかしいから……」
「うっ……うんっ!」
このクソ童貞上がりが。指一本触らせてたまるか。気持ち悪い。少し太ったくらいで気にしやがって。私は心の中で盛大な舌打ちを漏らし、こういうことは後々の火種になったら面倒なのでエステへ通うことにした。支払いはもちろん、彼のカードだ。だって、それは彼が望んだことだから。
翌日。さっそくエステへ行き、一番高いコースを選んで事前支払いを済ませようとカードを通す。そこまでは何も問題はなかったのに、店に掛かってきた電話に応対していた店員が私の所にやって来て、いつかのスーパーの店員のように申し訳なさそうな顔色を浮かべながら頭を下げる。
「林原様、申し訳ございません。こちらのカードですが、利用停止の連絡が入りまして……」
「なんで? 支払いは旦那……まだ籍は入れてないけど、旦那がしてくれているはずよ」
「いえ。カード会社様からの連絡ではなく、贅務署の方から連絡が入りまして。あの、現金でのお支払いも受け付けておりますが、如何なさいますか?」
「現金……? あんな奴の為に私のお金を使える訳がないでしょう!? キャンセルよっ! キャンセルして! ムカつく! マジムカつく! なんなの!?」
「では、キャンセルさせて頂きます」
あまりにムカつき過ぎてお店のガラス扉を蹴っ飛ばしてやろうかと思った。何が贅務署よ。私はもうすぐ佐竹琴音になるの。林原琴音としての人生はもう終わりのはずなのに、あいつら一体どこまで私にしつこくする気なの!? もらった名刺に電話を掛けて文句をぶちまけてやろうと思い、名刺を部屋のテーブルの上に置きっぱなしにしていた事を思い出す。腹の虫が収まらず、急いで部屋に帰ろうとタクシーを拾うと運転手は私の顔を一目しただけで「降りてくれ」と言った。
「なんでよ!? 私は客よ!?」
「林原琴音さんだろ? 今朝あんたの情報が贅務署から回って来たよ。悪いけど、あんたは歩いた方が身の丈に合ってるみたいだからね」
「ちょ、ちょっと! 訴えてやるわよ!」
「別にいいけど、捕まるのはあんただぜ?」
「……何なのよ、もうっ!」
私は炎天下のアスファルトをとぼとぼと、一時間も掛けて家に帰った。電車で帰ろうと思ったら日頃タクシーばかり使っているからパスカードを家に置きっぱなしにしていたことに気が付き、財布の中の現金も三十円しか入っていなかった。おまけに、ATMでなけなしの現金を下ろそうとしても「贅務署にご連絡を」と文字が画面いっぱいに出て、カードはすぐに吐き出された。
苛立ちと暑さのせいで息は上がるし、なんで私がこんな理不尽な目に遭わないといけないのかと思うと、腹の虫はますます騒ぎ出す。歩いてみて分かったことは、ショーウィンドウに映った私は以前の私とはまるで違う姿になっていたことだ。
丸々と肥えていて、あんなにほっそりしていた顎が輪郭を失くし始めている。タイトなワンピースは腹の肉を見事に描き出し、ベルトにはこれでもかと肉が食い込んでいる。
誰だこれ、と思ったけれどそれは間違いなく私だった。
最近の私はずっとこんな姿で生きていたんだ。
そう思うと、佐竹に少しだけ申し訳ない気持ちが生まれたりもした。だけど、せっかく痩せる機会を作ったのにそれを止めた贅務署が全部悪いんだ。
そう憤りながらアパートへ帰ると、大勢の男達が私の部屋から荷物を持ち出しているのが見えて、私は叫んだ。
「テメェら、なんで勝手に私の部屋に入ってんだよ!」
男達は私の声に反応することなく、おそらくカードで買った服やバックの入った段ボール箱を次々と運び出して行く。男達の中から若田が出て来ると、ムカつくくらい楽しそうな顔をしてこちらに向かって手を振っていた。
「若田ぁ! テメェ何してくれてんだよ!?」
「林原さん、そんなに怒ると血圧が上がりますよ。久しぶりに会いましたけど、イメチェンしました?」
「うっせーよ! つーか運んでるもの全部戻せよ! 佐竹のカードで買ったんだから佐竹のもんだろ!?」
若田に詰め寄って襟を掴みながらあんまりムカついたからそう叫ぶと、若田はハハハと笑いながら襟を掴んでいた私の腕を振り解いた。見かけは細い癖に、物凄い力で腕を解かれた。
「佐竹さんにはご事情を全てお話しして、ご理解頂きました。もちろん、了承も得ています」
「はぁ? 何勝手な真似してくれてんだよ!」
「勝手な真似をしたのは林原さん、あなたですよ。あくまでも身の丈に合う生活を送ってもらわないと。佐竹さん、あの方はとても良い方ですよ。学歴もあるし仕事では人望もある。性格も理解の早い方で助かりました。あなたには本当にもったいない方なので、元彼女の柳瀬さんにもお話しして、ヨリを戻すということで落ち着きました。つまり、あなたにはもう何の権利もないということになります」
「えっ……はっ? ちょっと待ってよ。元カノとか意味分かんないんだけど? だって、あの男は彼女を振ってまで私を選んだんですけど!?」
「えぇ、人には誰でも必ずミステイクというものがあります。あなたを選ぶことは佐竹さんにとって良くないことだったので、彼の方の身の丈に相応しいお嬢さんと契りを交わす方向に持って行きました。柳瀬さんという方、別れた後もずっと佐竹さんを思っていたようで、近頃佐竹さんから連絡があって喜んでいたみたいです。タイミング的にもちょうど良かったですよ」
「どういうことよ? まさか……あんた達が差し向けたってこと?」
「そうは言いませんが、まぁ……国民には身の丈に合った生活を送って頂くのが我々の使命ですから。あ、それも運んじゃって」
「めちゃくちゃなことばっかりして人の人生壊しやがって! あんたらのこと訴えてやるからね!」
堪らなくなって若田を突き飛ばしてみたけど、足を踏ん張っていたのか若田は一歩も動かなかった。顔に浮かんだ笑顔を鎮めると、腕組をして私を見下すような顔に変わる。
「林原琴音さん、あなた……もしかして国民には自由が保障されているとか言うつもりではありませんよね?」
「憲法に書いてあるんでしょ!? それくらい知ってるわよ! 守りなさいよ、憲法!」
「……日本国憲法第三十条「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ」! ご存じでしたか? その義務をちっとも果たさない者を誰が国民と見做しますか? 区民税……もうずいぶんと滞納してらっしゃいますよね? 納税の義務すら果たさない今のあなたは国民以下の存在です」
「せ……生存権があるでしょ! 私にだってあるはずよ!」
「二十五条のことを言いたいのですか? ですから、生存権を守る為にも身の丈に合った生活を送れとあれだけ口酸っぱく言って行動にも移したんじゃありませんか! それなのに、あなたは今日の今日まで一体何をしていましたか!? 生活を改めるどころか純情な男心を利用し、浅ましい心の病から逃げ続け、そこから生まれる「物欲」の為に奔走し、世間を欺き続けました! あなたはブクブクと肥えたみっともない身体を世間に晒しながら歩き回り、他人の金銭でやましい心から湧き出る物欲を満たそうと人様に迷惑を掛け続ける怪物なんです! 少しは自覚したらどうなんですか!?」
「そ、そこまで言わなくても……」
「このアパートも即刻退去して頂きます。今後の返済のことを考えればあなたにここの家賃支払能力は皆無ですからね。通勤に便利な豊島区に三畳一間のアパートをご用意させて頂いたので、今からそちらに越して頂きます。畳と屋根があるだけ、マシだと思って下さい。では、お部屋の中にはまだまだ「贅沢品」がありますので、失礼!」
私はこの瞬間、全てを失った。
薔薇色の未来も、高級なバックやコートに囲まれる生活も、欲を掻き立てる買物の時間も。
私に残されたのは無駄についた脂肪と、支払いの目処なんか立つはずもない債権だけだった。
部屋から次々と私物が運び出されて行くのを、私はテーブルに座りながら呆然と眺めていた。
白い手袋をはめた若田が私の傍に立つと、満面の笑顔で言う。
「このテーブルもあなたの生活にはもう必要ありません。さぁ、どいて下さい」
「……ふんっ。勝手にすれば?」
「ご協力、感謝致します」
仕方なしに立ち上がり、物を運び出す職員達を睨み付ける。面白いくらい、みんな何の反応をも見せない。
人の生活をぶち壊すのが仕事の人達。なんてつまらない人達なんだろうと思っていると、職員の一人が嬉しくて堪らないと言いたげな笑みを浮かべ、若田を呼んだ。
「部長! こんなものがありましたよ! これは身の丈に合っていませんよ!」
「ほう? どれどれ……」
私は職員の手に握られた物を見て、無意識に「あっ」と声を漏らしていた。それはまだ私が実家に住んでいた頃に母から譲り受けた婚約指輪だった。父の会社が潰れ、いよいよ経済的に逼迫し始めた我が家である日、母から貰ったものだった。
「琴音には苦労ばかり掛けて、本当にごめんね。お母さん、あなたに何もしてあげられないけど……これ、いつか困った時に何かの足しになるかもしれないから。ね?」
「これ……大事なものなんじゃないの?」
「いいの。私にとっては、琴音のこれからの方がずっと大事だもの」
すぐに、そんな会話を反芻した。
お母さん、せっかく貰った大切な指輪なのに、ごめん。ごめんね。こんな娘で、本当にごめん。
あれは純金で出来た指輪だ。きっと若田は声を上げて喜んで、私に向かって「これも要りませんね」と言って来るに決まっている。どうせ何を言っても通用しないんだ。もう、何もかも持って行ってくれたらいいとヤケになっていた。
若田は指輪ケースを手に取ると、すぐにそれを戻すように指示を出す。
「これは違う。すぐに、元にあった場所に戻して下さい」
「でも、部長……ぶっちゃけ、これ本物の純金ですよ……? 売るとしたら相当な価値に」
「戻せと言っているんだ!」
若田が腕組したまま怒鳴り声を上げると、その気迫に肩を震わせた職員はそそくさと指輪を小さな箪笥の中へ戻した。
「えっ、なんで? 贅沢品でしょ、あれ」
「……林原さん。あれはいつか本当のあなたを理解してくれる伴侶と出会った時に役立てて下さい」
「えっ、じゃあ……持って行かないの?」
「私達は税務署じゃありません。あくまでも、贅務署です。身の丈に合うとは、その価値を分かり合えるということです。それは物にしろ、人にしろ、変わりはありません」
「なんか……うん、ありがとう……あれは、大事なものだったから」
「……ただ、サイズが合わないみたいなので、少し体型を戻す必要がありそうですが」
「はぁ? うるせぇよ!」
私は自分の浅はかな欲望に、ここまでして、こうしてまでして、ようやく気が付くことが出来た。
その後はどう考えてみても返済が無理だと分かったので、債務整理をして人生を仕切り直すことにした。
鼠小屋みたいな三畳一間のアパートは電車が通るたびにガタガタ揺れるけど、狭いから物を増やそうという気は無くなった。すると、不思議と物を買いたいという気持ちも失せていった。
今は猫の額くらいしかないベランダに、百均で買って来たプランターを置いて花を育てている。
小さな芽が出て、そこからぐんぐん若葉が成長して行くのが今の私にとっての最高に贅沢な時間だ。
月に一度の調査の為に、この小さな部屋に今月も若田がやって来た。
「林原さん、順調に慎ましい生活を送ってますね」
「まぁね……ちょっと自分でもどうかしていたなぁって、今になってつくづく思うよ」
「前進してますね。おかげさまでね、その成果が出ましたよ。今日からスーパーで買える物に規制がなくなりました」
「本当っ? ねぇ、それ、本当? お刺身も、高い珈琲豆も、買ってもいいの?」
「ええ。ただし、良く財布と相談することです。お、あれはセージですか?」
「あぁ、あれ? うん。ちょっとした趣味だけど、健気に育っているのを見てるとさ、なんか癒されるんだよね。まだ花はつかなそうだけど」
「良いことです。セージの花言葉、知っていますか?」
「え? セージに花言葉なんてあんの?」
「草にだってありますよ。人の心はそれだけ自然を愛でるように出来ているんです」
「ねぇ、セージの花言葉ってなんなの? まさか、愛とか言っちゃう?」
「……セージはね、元々は賢人を意味しています。あの花に与えられた花言葉は「知恵」です。どうか、綺麗に咲かせてあげて下さい」
「……うん、そうする。絶対、そうする」
小さな窓を開け放ったベランダから吹き込む風に、小さなセージが揺れている。いつ花がつくんだろう、そんな風に思える今に、私はとても贅沢な気分を感じている。
「贅」務署 大枝 岳志 @ooedatakeshi
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