第一章 わたくしと義弟の思い出②
「テランス・メイエだ。君のお姉様の婚約者だよ」
紹介する前に、テランス様がそんなことを言う。その言葉を聞いて、眉間に皺が寄ってしまう。
わたくしたちは、まだ『婚約者候補』でしょう? いつの間に『婚約者』になったのかしら。
近いテーブルの女性たちが、あからさまにこちらを見ながらひそひそと内緒話をはじめる。耳をそばだてれば「いいわよね。あんなに地味な見目でも、公爵家の
貴女たち子爵家と伯爵家のご令嬢よね? 三大公爵家であるガザード公爵家の
軽く
「……婚約者? お父様からも姉様からも、そんなお話は聞いておりませんが」
ナイジェルが眉間に深い皺を寄せながら、テランス様に噛みつくように言う。この子ったら、一体どうしたのかしら。ナイジェルの手を、抗議の意味を込めてぎゅっと握る。するとナイジェルは
「ナイジェル、この方はわたくしの婚約者候補ですのよ。ね、テランス様」
「今はそうだね。だけど私はいつだって、君の婚約者になりたいと思っているよ」
テランス様は金色のまつ毛が
……わたくしの婚約者になりたい気持ちはわかるわよ。国で大きな権力を握り、王家の
「それは
いつもはちゃんとわきまえているお方なのに。今日は本当にどうしたのかしら。
メイエ侯爵家とガザード公爵家の婚約話が本決まりになった……なんて噂になったら、その
「ウィレミナ
「
テランス様の謝罪に、ナイジェルの言葉が
「ナイジェル、失礼なことを言うんじゃないの。テランス様、本当にごめんなさい」
「いや、
わたくしがナイジェルに好かれている? ナイジェルをいじめてばかりの嫌な姉なのに、あり得ないわ。
いや……テランス様はこちらの内情なんて知らないから、妙な勘違いをしても仕方ないわね。そう考え、小さく息を
「……はい。僕は姉様を、心の底から愛しています」
「なっ!」
なんて特大の嫌味なの。これはもしかしなくても、ふだんの仕返しというやつかしら。報復される覚えはあるから、
「ナイジェル! 変なことは言わないの」
ぱしりぱしりと、扇子で数度細い腕を叩く。もちろん手加減はしているわよ!
するとナイジェルはじっとこちらを見つめた後に、「変なことでは、ありません」と明らかに
「……ナイジェル? なにを拗ねているの?」
「
「……まぁ、それはたしかにそうね」
不仲なところを見せれば、そこにつけ込もうとする
「君たちは、本当に仲がいいんだね」
テランス様はわたくしたちに向けて
テランス様が、ナイジェルの手を握っていない方のわたくしの手をそっと握る。反射的にナイジェルの手を放そうとすると、その手はナイジェルの手によって引き止められてしまった。……両手が使えなくて、とても不便なのだけど。
「ウィレミナ嬢。私も君ともっと仲良くしたいな。今度歌劇に一緒に行こうよ」
「歌劇ですか?」
「そう、王都で評判の──」
「テランス様。お友達がお待ちのようですよ?」
……テランス様の言葉を、ナイジェルがバッサリと
ナイジェルが指す方へ目を向けたテランス様は、こっそりと……だけど大きく息を吐く。
そこには彼の家と
「ウィレミナ嬢、お久しぶりです」
アダルベルト様はこちらへ近づいてくると、ふわりと
「申し訳ないのですが、テランスをお借りしても?」
アダルベルト様はそう言うと、テランス様の腕に親しげに
ここは
「ええ、問題ございませんわ」
にっこり笑ってそう言うと、テランス様はなぜか
アダルベルト様は、テランス様の腕を
「ウィレミナ嬢、その! お
アダルベルト様に引きずられながらそう言うテランス様のお顔は……なぜか必死に見えた。
テランス様を見送ってから、紅茶を飲みつつ一息つく。
「ウィレミナ姉様、その」
なぜか真剣な表情のナイジェルに、話しかけられた。
「なに、ナイジェル」
「ウィレミナ姉様は、ああいう男がお好みなのですか?」
ナイジェルの質問の意味が理解できず、わたくしは首を
ナイジェルがわたくしから視線を
アダルベルト様は、マルタ嬢とテランス様を
「ウィレミナ姉様、答えてください。ああいう男がお好みなのですか?」
なぜか
『ああいう男』って、テランス様のことかしら。
「……テランス様は
周囲に人がいないこともあり、ついそんな本音が
「では、どのような男性がお好みなのです?」
やけに食いつきがいいわね。なんなの?
「王宮
わたくしは胸を張って堂々と答えた。するとナイジェルの大きな瞳が限界まで
「マッケンジー卿ですか? あの、筋肉質で
ナイジェルは
「あの大きなお体、とても素敵よね。男らしさの
「マッケンジー卿は、
「ええ、四十歳ね。お年は少し上だけれど、それも彼の
……いつか彼がお
思わずにんまりとして
「と、とにかく。わたくしをしっかりと守ってくださる、素敵な騎士様のような殿方がいいの!」
「なるほど。
ナイジェルは小声でぶつぶつとなにかを
……本当に変な子ね。
お茶会から帰った後。ナイジェルは急に剣術の教師をつけて欲しいとお父様にねだった。彼のおねだりなんてめずらしいものに目を丸くしつつも、お父様はそれを
……だけどどうして、剣術なのかしら。
しかしこのナイジェルの
ナイジェルの剣術の教師として、我が家にやって来たのはなんと……。
わたくしの
ナイジェルがお父様に『絶対に強くなりたいので、最高の教師を』とお願いした結果らしいの。なんてことなの、こんな素敵な出来事が起きるなんて!
マッケンジー卿が、ご自身の公務を減らして若い世代の育成に力を入れようとしているタイミングだったこと。教師の
ナイジェルはなぜか
「マッケンジー卿! お久しぶりですわ!」
「ウィレミナ
厳しい鍛錬の日々を思わせる、
……わたくしの理想の騎士様が、
その感動で、小さな胸は大きな
「ウィレミナ嬢は、また美しくなられましたね」
マッケンジー卿はそう言うと騎士の礼を取った。そしてわたくしの手を取り、そっと
「まぁ! マッケンジー卿ったら。そんなことを言われると、照れてしまいます」
「本当のことを言っているだけですよ。子どもの成長とは早いものです」
彼はしみじみと言った後に、快活な笑い声を立てた。
好ましい方からの
「これからもわたくし素敵な淑女になりますわよ、マッケンジー卿」
「ええ、楽しみにしております」
マッケンジー卿は立ち上がると、
……完全に子ども扱いね、なんて思うけれど。いいの、今が幸せだから。
その時、強い力でぐいと
そちらを見ると、なぜか
「なによ、ナイジェル」
「マッケンジー卿は僕の教師です。姉様のものではありません」
ナイジェルは小さく口を
「わかったわ、授業の時間は
わたくしは自分の容姿の
「わかりました、小さなレディ」
そんな言葉とともに向けられたマッケンジー卿の
● ● ●
ウィレミナ姉様がマッケンジー卿と話をしている。姉様の表情は今まで見たことがないくらいに輝いており、彼を
僕の
『最高の教師』を
それに、これは
改めてマッケンジー
僕はここまで背が
だけどそれは、あくまで『見た目』の話である。
剣の腕、騎士としての心構え、精神的な強さ。僕が追いつき、そして追い
僕は、マッケンジー卿に勝たなければならない。
僕だって姉様を守れるのだと、
「生意気な目をしてるな、
姉様が屋敷に
だけど、ここで
「……いずれ
僕の言葉を聞いたマッケンジー卿は目を丸くし、
「いい
今度は、僕が目を丸くする番だった。この男は──僕の
僕の様子を見てマッケンジー卿はにやりと不敵に笑う。
「──知っているのですか」
「所用でガザード公爵家の近くに来た時に、お前の姿を見かけてな。あまりにもあの男にそっくりだったものだから、ガザード公爵閣下と陛下を問い
……まさか公爵と国王陛下を問い詰め、そして僕の素性を
「本来なら、まだ
マッケンジー卿と父は親しかったのだろうか。父は騎士だったし、マッケンジー卿と
細身の
「とりあえず、お前がそれをどれだけ
マッケンジー卿はそう言うと、
──『今』はその通りだろう。だけれど未来には、その大きな体を地に
そして姉様の愛を、僕は勝ち取るんだ。
● ● ●
「なによ、ボロボロじゃないの。情けない子ね」
剣の授業が終わり、マッケンジー卿に
「少し、やり過ぎました」
マッケンジー卿は申し訳なさそうに言うと
ナイジェルはボロボロだけれど、意識ははっきりしているようだ。
……なんだか、
「マッケンジー卿は悪くありませんわ。剣の
そう返しながらナイジェルの様子を
ナイジェルは細身で
あまりにボロボロだったのでさすがに
「冷たくて気持ちいいです、姉様」
「そう、それはよかったわ。あとはメイドを呼んで……」
「姉様に、手当てして欲しいです」
変な子ね、メイドを待てないくらいに痛むのかしら。頬を冷やした後に、ついでに
こうしていると本当の弟の世話を焼いているみたいね、なんて。少し
ダメね、下手に情を持つのはよくないのに。不義なんて道に外れたことは、許してはいけないの。
……本当に許しちゃいけないのはナイジェルじゃなくて、お父様だっていうのはわかっているのだけれど。お父様に
「姉様、
ナイジェルの声に、暗いところに
「なにを甘えたことを言ってるの」
「……だって、痛いのです」
晴れた日の空のような色合いの瞳で、甘えるように見つめられる。仕方なしに腕の痣にも濡れたハンカチを当ててあげると、ナイジェルの表情がふわりと
後でお父様にお医者様を呼んでもらおうかしら。もしかすると骨にひびが入っているかもしれないし。
「後でお医者様を呼ぶわよ。いいわね?」
「はい、ウィレミナ姉様」
「痛み止めの
「……ごめんなさい、姉様」
ナイジェルが悲しげに長いまつ毛を
「剣は……いつまで習うつもりなの?」
このまま剣の授業を続けていたら、いつか大怪我をするんじゃないかしら。別にナイジェルが大怪我をしようと、わたくしはどうでもいいのだけど。
だけどこの子が大怪我をしたら……お父様がきっと悲しむわ。お父様にとっては、この子も大事な子どもなんだもの。
「僕が、強くなれるまでです」
「お前がなれるわけがないでしょう?」
「いいえ、強くなります。そして騎士になるんです」
ナイジェルが伏せ気味だった顔を上げる。強い意志を
公爵家の
「無理で……」
「いや、なかなか見込みがありますよ。動きも悪くはないですし、何より明確な『目標』があるのか何度も
メイドが用意した紅茶を口にしながら、マッケンジー
見込みがある? マッケンジー卿がおっしゃるのならそうなのかしら。
「しばらく
──騎士学校。
そこに……ナイジェルが入るの?
騎士への道は広く門戸が開かれており、登用試験に合格することで平民でも貴族でもなることができる。マッケンジー卿も平民からの登用で、
それだけ聞くとなんて
騎士の世界は貴族家の者が
マッケンジー卿はその扱いを実力で
……わたくしのマッケンジー卿への気持ちは、どうでもいいわね。
騎士になる方法は登用試験という正規ルートとは別に、もう一つのルートがある。
それが『騎士学校』への入学だ。
騎士学校は一定以上の功績を挙げた、現役騎士の推薦でしか入れない二年制の学校だ。
十二歳から十八歳までの間ならいつでも入学が可能。推薦があった生徒の入学試験は、
推薦だと貴族の
推薦入学者が厳しい訓練に
入学試験が登用試験とは
そんな事情で騎士学校卒の生徒は信用という担保があるため、卒業後に重要なポストに
「ナイジェルを推薦だなんて。マッケンジー卿に、ご
わたくしが最初に思ったのはそれだった。
ナイジェルが問題を起こせばマッケンジー卿が処罰を受ける。それだけは絶対に避けないと。
「姉様、僕は
ナイジェルがわたくしの服を引っ張りながら、心外だという顔をして言う。
だけど授業の初日からこんなにボロボロなのよ? 学校は腕に自信のある生徒たちばかりだろうし、入学できたとしても毎日泣くナイジェルしか想像できないわ。
「……わたくし、心配よ」
ぽろりと出た言葉に自分で
「
わざわざ『私』と言い直すマッケンジー卿は、
「ふふ。マッケンジー卿、楽な
「いや、これは失敬。では、お言葉に甘えて少し楽にさせて頂きますか」
マッケンジー卿はそう言うと、照れたような笑いを浮かべた。そしてクッキーに手を
わたくし……先ほどはマッケンジー卿の見識を疑うような失礼なことを言ってしまったわね。きちんと謝罪をしないと。
「ナイジェルを疑うことは、マッケンジー卿を疑うことになってしまいますわね。
マッケンジー卿のところへ行ってぺこりと頭を下げると、頭を大きな手でわしゃわしゃと
「弟君が心配だったのでしょう? ウィレミナ嬢はよき姉君だ」
──だけど、かけられた言葉を聞いて心が
わたくしは、いい子なんかじゃない。弟いじめをする悪い姉なのだから。
「マッケンジー卿、わたくしはいい子では」
「いいえ。ウィレミナ嬢自身が気づいていないだけで、とてもいい子ですよ」
マッケンジー卿はそう言って白い歯を見せながらにかっと笑うと、メイドに紅茶のお代わりを
マッケンジー卿にお
わたくしは
「姉様。その」
「な、なによ」
ナイジェルに呼ばれて、つい身を
「姉様はいつも──」
……ナイジェルの口からどんな言葉が出るのかが
わたくしは
ふだん
「ナイジェル、なにも言わないで。お願い」
「なにも言いません、姉様。だから……そんな泣きそうなお顔をしないでください」
優しく
わたくし……公爵家の令嬢としてふさわしくない人間なんじゃないかしら。
わたくしのことが大嫌いな義弟が護衛騎士になりました 実は溺愛されていたって本当なの!? 夕日/角川ビーンズ文庫 @beans
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。わたくしのことが大嫌いな義弟が護衛騎士になりました 実は溺愛されていたって本当なの!?/夕日の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます