第一章 わたくしと義弟の思い出②

「テランス・メイエだ。君のお姉様の婚約者だよ」

 紹介する前に、テランス様がそんなことを言う。その言葉を聞いて、眉間に皺が寄ってしまう。

 わたくしたちは、まだ『婚約者候補』でしょう? いつの間に『婚約者』になったのかしら。

 近いテーブルの女性たちが、あからさまにこちらを見ながらひそひそと内緒話をはじめる。耳をそばだてれば「いいわよね。あんなに地味な見目でも、公爵家のかたがきがあればテランス様と親しくできるのだから」や、「不義の子がいるおうちのくせに」などという声が聞こえてくる。

 貴女たち子爵家と伯爵家のご令嬢よね? 三大公爵家であるガザード公爵家のむすめにケンカを売るには、格が足りていないのではないかしら。お茶会はそういうこともふくめて、きちんとお勉強をする場なのよ?

 軽くにらみつけると、二人の内緒話はぴたりと止まった。心なしか顔があおめ、大量のあせもかいている。……いやね、こわがるくらいなら最初からしなければいいのに。こういう方々って本当に多いの。

「……婚約者? お父様からも姉様からも、そんなお話は聞いておりませんが」

 ナイジェルが眉間に深い皺を寄せながら、テランス様に噛みつくように言う。この子ったら、一体どうしたのかしら。ナイジェルの手を、抗議の意味を込めてぎゅっと握る。するとナイジェルはおとのようにほおを染めてから、わたくしにちらりと視線を向けた。

「ナイジェル、この方はわたくしの婚約者候補ですのよ。ね、テランス様」

「今はそうだね。だけど私はいつだって、君の婚約者になりたいと思っているよ」

 テランス様は金色のまつ毛がふちひとみせて、うれいに満ちた表情を作る。

 ……わたくしの婚約者になりたい気持ちはわかるわよ。国で大きな権力を握り、王家のえんせきであるガザード公爵家と縁続きになりたいのは当然ですもの。

「それはうれしいお言葉ですわ。ですが現状は正確に言いませんと、いらぬ誤解を招きます」

 いつもはちゃんとわきまえているお方なのに。今日は本当にどうしたのかしら。

 メイエ侯爵家とガザード公爵家の婚約話が本決まりになった……なんて噂になったら、そのていせいにどれだけの時間が取られることか。

「ウィレミナじよう。可愛い君を困らせるつもりはなかったんだ」

かつな発言はしないでください。大変めいわくです」

 テランス様の謝罪に、ナイジェルの言葉がかぶせられる。わたくしは、せんでナイジェルのうでをぱしりと軽くたたいた。

「ナイジェル、失礼なことを言うんじゃないの。テランス様、本当にごめんなさい」

「いや、だいじようだよ。弟君は……お姉様のことがとてもお好きなんだね」

 くちびるに甘い笑みを乗せながら、テランス様はナイジェルに視線をやった。ナイジェルはその笑みを受け止めつつも、いつもの通りの無表情である。

 わたくしがナイジェルに好かれている? ナイジェルをいじめてばかりの嫌な姉なのに、あり得ないわ。

 いや……テランス様はこちらの内情なんて知らないから、妙な勘違いをしても仕方ないわね。そう考え、小さく息をいたのだけれど……。

「……はい。僕は姉様を、心の底から愛しています」

「なっ!」

 しんけんな表情でつむがれたナイジェルの言葉に、わたくしは絶句した。

 なんて特大の嫌味なの。これはもしかしなくても、ふだんの仕返しというやつかしら。報復される覚えはあるから、ごうとくと言われてしまえばそうなのだけれど! わたくしの『あの絵』を堂々と部屋にかざっていたし、この子ったら意地が悪いわ!

「ナイジェル! 変なことは言わないの」

 ぱしりぱしりと、扇子で数度細い腕を叩く。もちろん手加減はしているわよ!

 するとナイジェルはじっとこちらを見つめた後に、「変なことでは、ありません」と明らかにねた口調で言った。

「……ナイジェル? なにを拗ねているの?」

きようだい仲がいいことをおおやけの場で主張することは……大事だと思います」

「……まぁ、それはたしかにそうね」

 不仲なところを見せれば、そこにつけ込もうとするやからも出るかもしれない。この件に関しては、くやしいけれどナイジェルの言うことが正しいわ。ガザードこうしやく家はれいな一枚岩で、つけ入るすきなんてないと……そう見せなければ。

「君たちは、本当に仲がいいんだね」

 テランス様はわたくしたちに向けてにゆうで美しい笑みをかべた。しかしその瞳の奥は、なぜか笑っていないように見える。なんなの、背筋がぞくぞくしてきたわ。

 テランス様が、ナイジェルの手を握っていない方のわたくしの手をそっと握る。反射的にナイジェルの手を放そうとすると、その手はナイジェルの手によって引き止められてしまった。……両手が使えなくて、とても不便なのだけど。

「ウィレミナ嬢。私も君ともっと仲良くしたいな。今度歌劇に一緒に行こうよ」

「歌劇ですか?」

「そう、王都で評判の──」

「テランス様。お友達がお待ちのようですよ?」

 ……テランス様の言葉を、ナイジェルがバッサリとち切った。

 ナイジェルが指す方へ目を向けたテランス様は、こっそりと……だけど大きく息を吐く。

 そこには彼の家とつながりが深い、ステクリー侯爵家のご令息アダルベルト様が居た。三大公爵家である我が家ほどのけんはないけれど、テランス様が無下にはできない家の方ね。

「ウィレミナ嬢、お久しぶりです」

 アダルベルト様はこちらへ近づいてくると、ふわりとようえん微笑ほほえんだ。彼もテランス様と同じく美形である。わたくしと同じくろかみ黒目なのに、どうしてここまで見目に差が出るのかしらね。

「申し訳ないのですが、テランスをお借りしても?」

 アダルベルト様はそう言うと、テランス様の腕に親しげにれた。

 ここは殿とのがたの友情にゆずるべきよね。わたくし、テランス様のこんやくしやですらないのだし。

「ええ、問題ございませんわ」

 にっこり笑ってそう言うと、テランス様はなぜかぼうぜんとした表情になった。

 アダルベルト様は、テランス様の腕をつかむと引っ張っていく。

「ウィレミナ嬢、その! おさそいの手紙を書きますから!」

 アダルベルト様に引きずられながらそう言うテランス様のお顔は……なぜか必死に見えた。ゆうがないご様子は、なんだか彼らしくないわね。

 テランス様を見送ってから、紅茶を飲みつつ一息つく。あいさつに来る『お友達』もじよじよに少なくなり、『もう一ぱい紅茶をお願いしようかしら』なんて考えながらのんびりと過ごしていると……。

「ウィレミナ姉様、その」

 なぜか真剣な表情のナイジェルに、話しかけられた。

「なに、ナイジェル」

「ウィレミナ姉様は、ああいう男がお好みなのですか?」

 ナイジェルの質問の意味が理解できず、わたくしは首をかしげた。

 ナイジェルがわたくしから視線をらす。その視線を追うと、その先にはアダルベルト様とお話をしているテランス様の姿があった。アダルベルト様の妹君の、マルタ嬢もいらっしゃるわね。彼女は線の細い美少女で、楽しそうによく笑う方だ。令嬢としては品がないこうだけれど……品にこだわってあいわらいしかしないわたくしよりも、ああいうくつたくのない女性の方が殿方には好まれるのだろう。

 アダルベルト様は、マルタ嬢とテランス様をこんいんさせたいのかもしれないわね。整った見た目の二人は、とてもお似合いだ。

「ウィレミナ姉様、答えてください。ああいう男がお好みなのですか?」

 なぜかそうな表情で、ナイジェルがまたたずねてくる。

『ああいう男』って、テランス様のことかしら。

「……テランス様はてきだけれど、好みとは少しちがうわね」

 周囲に人がいないこともあり、ついそんな本音がこぼれてしまう。するとナイジェルは、その大きな瞳をまん丸にした。

「では、どのような男性がお好みなのです?」

 やけに食いつきがいいわね。なんなの? の好みがそんなに気になるのかしら。まぁ、教えてあげても別にいいのだけれど。

「王宮この団の団長の、マッケンジーきようのような方が好みね」

 わたくしは胸を張って堂々と答えた。するとナイジェルの大きな瞳が限界までみはられる。

「マッケンジー卿ですか? あの、筋肉質でくまのように大きなたいをお持ちだといううわさの?」

 ナイジェルはふるえる声で言うと、けんに深い谷底のようなしわを刻んだ。なによ、その不服そうな態度は! マッケンジー卿はとても素敵な方よ。前に王宮で会った時には『とても愛らしいですね』なんて言いながら、大きな手で頭をでてくださったんだから! 子どもあつかいされているのは……わかっているわよ。それでもうれしかったの。

「あの大きなお体、とても素敵よね。男らしさのしようちようですもの」

「マッケンジー卿は、おんとし四十歳だったと思いますが」

「ええ、四十歳ね。お年は少し上だけれど、それも彼のりよくよね」

 ねんれいが作った目元の小さな皺が、少し可愛かわいらしいのよね。三十も年上の男性に可愛いなんて言うのは、少し失礼かもしれないけれど。

 ……いつか彼がおひめさまっこをしてくれないかしら、なんて。時々してしまうもうそうのうをよぎる。あのたんれんの成果がまったたくましい腕で抱き上げられたら、どんなに素敵なことだろう。そしてせいかんなお顔で、やさしく微笑んでもらうの。ああ、想像だけでときめくわ!

 思わずにんまりとしてほおを染めていると、みような表情をしたナイジェルからの視線がさる。わたくしはあわてて表情を引きめた。

「と、とにかく。わたくしをしっかりと守ってくださる、素敵な騎士様のような殿方がいいの!」

「なるほど。たよりになる筋肉質で年上の男性がお好みなのですね。……これは困ったな」

 ナイジェルは小声でぶつぶつとなにかをつぶやいてから、大きく深いため息をついた。

 ……本当に変な子ね。



 お茶会から帰った後。ナイジェルは急に剣術の教師をつけて欲しいとお父様にねだった。彼のおねだりなんてめずらしいものに目を丸くしつつも、お父様はそれをかいだくしていたわね。

 ……だけどどうして、剣術なのかしら。

 かしこい子だし、武官よりも文官に向いていると思う。

 しかしこのナイジェルのせんたくは、わたくしに意外な幸運をもたらしたのだ。

 ナイジェルの剣術の教師として、我が家にやって来たのはなんと……。

 わたくしのあこがれの方、マッケンジー卿だったのよ!

 ナイジェルがお父様に『絶対に強くなりたいので、最高の教師を』とお願いした結果らしいの。なんてことなの、こんな素敵な出来事が起きるなんて!

 マッケンジー卿が、ご自身の公務を減らして若い世代の育成に力を入れようとしているタイミングだったこと。教師のらいをした我が家が、王国三大公爵家だったこと。マッケンジー卿自身が、なぜかこの仕事に乗り気だったこと。そんないくつかの要素が重なって決まった人選だったようだけれど……わたくし本当に運がいいわね!

 ナイジェルはなぜかしぶい顔をしていたから、マッケンジー卿の功績をわたくし何時間もかけていつしようけんめい説明したわ。子どもの教師にするのは本当にもったいないお方なんだから!

「マッケンジー卿! お久しぶりですわ!」

「ウィレミナじよう。お久しぶりです」

 しきにいらしたマッケンジー卿をむかえると、彼は白い歯を見せてみを零した。ああ、いつ見ても素敵なお方!

 厳しい鍛錬の日々を思わせる、しやくどういろに焼けたはだ。精悍で整ったお顔にかぶ愛らしいじわい色をした赤の髪はきっちりと後ろに撫でつけられ、海のように深い青のそうぼうするどかがやきを放っている。張り詰めた筋肉が見て取れる体躯は、まるで小山のようだわ。

 ……わたくしの理想の騎士様が、ふうどうどうとそこに立っている。

 その感動で、小さな胸は大きなどうを刻んだ。

「ウィレミナ嬢は、また美しくなられましたね」

 マッケンジー卿はそう言うと騎士の礼を取った。そしてわたくしの手を取り、そっとこうに口づけをする。憧れの人にしゆくじよとして扱われた感激に、頬は熱くなり口元はゆるんでしまう。

「まぁ! マッケンジー卿ったら。そんなことを言われると、照れてしまいます」

「本当のことを言っているだけですよ。子どもの成長とは早いものです」

 彼はしみじみと言った後に、快活な笑い声を立てた。

 好ましい方からのめ言葉はとても嬉しいものね。……『子ども』という部分は、遠くに置いておくわ。

「これからもわたくし素敵な淑女になりますわよ、マッケンジー卿」

「ええ、楽しみにしております」

 マッケンジー卿は立ち上がると、まなじりを下げながら大きな手でわたくしの頭を何度も撫でた。

 ……完全に子ども扱いね、なんて思うけれど。いいの、今が幸せだから。

 その時、強い力でぐいとうでを引かれた。

 そちらを見ると、なぜかげんそうなナイジェルがそこにいる。淑女に急にれるなんて、よろしくないわよ。

「なによ、ナイジェル」

「マッケンジー卿は僕の教師です。姉様のものではありません」

 ナイジェルは小さく口をとがらせる。この子ったら自分の教師とわたくしが親しげにしているから、ねてしまったのね。出来た子だと思っていたけれど、まだまだ子どものようだわ。

「わかったわ、授業の時間はじやしないわよ。授業の後はわたくしとお茶を飲んでくださいませね、マッケンジー卿!」

 わたくしは自分の容姿のえなさを自覚しているから、殿とのがたに甘えることが得意ではない。だけどマッケンジー卿には、なおに甘えられる。これは年の差がせることね。包容力のある年上の男性は、やっぱり素敵!

「わかりました、小さなレディ」

 そんな言葉とともに向けられたマッケンジー卿のしぶのある笑みを見て、わたくしはときめきでそつとうしそうになってしまった。


   ● ● ●


 ウィレミナ姉様がマッケンジー卿と話をしている。姉様の表情は今まで見たことがないくらいに輝いており、彼をしたう気持ちにあふれていて……。そのお顔が僕に向いていないことがくやしくて、胸をきむしりたい気持ちになった。

 僕のけんの教師に、姉様が慕っている人が来るとは思ってもみなかった。

『最高の教師』をたのんで『王宮この団団長』が来るなんて、予想できるわけがないじゃないか。こうしやくうらみたい気持ちにもなったが、僕はそれをぐっとこらえた。

 それに、これはこいがたきを観察できる絶好の機会でもある。

 改めてマッケンジーきように目を向ける。この人が姉様の慕っている人……僕とは本当にタイプがちがうな。タイプうんぬんというよりも、生き物としての根本が違う気がする。何度生まれ変わっても『これ』になれる気はまったくしない。

 僕はここまで背がびないだろうし、筋肉もこんなつき方はしないだろう。僕がいくらきたえても、体の作りの問題でマッケンジー卿のようなしい見目にはなり得ないのだ。

 だけどそれは、あくまで『見た目』の話である。

 剣の腕、騎士としての心構え、精神的な強さ。僕が追いつき、そして追いけるしよはきっとあるはずだ。

 僕は、マッケンジー卿に勝たなければならない。

 僕だって姉様を守れるのだと、貴女あなたの高潔な騎士になれるのだと。……それを証明しなければ。

「生意気な目をしてるな、ぞう

 姉様が屋敷にもどったのを見届けてから、マッケンジー卿がしんの仮面をぐ。そこにいるのは、抜き身のやいばのような気配を持つ男だ。たいしているだけで、情けなくも足がすくんでしまう。

 だけど、ここでされてなるものか。

「……いずれ貴方あなたに勝たなくてはならないと、考えておりましたので」

 ほおに冷やあせをかきながらしぼり出すようにそう言って、マッケンジー卿をにらみつける。

 僕の言葉を聞いたマッケンジー卿は目を丸くし、と大きな声で笑い出した。

「いいつらがまえだ。さすが『あの男』のむすだな」

 今度は、僕が目を丸くする番だった。この男は──僕のじようを知っている?

 僕の様子を見てマッケンジー卿はにやりと不敵に笑う。

「──知っているのですか」

「所用でガザード公爵家の近くに来た時に、お前の姿を見かけてな。あまりにもあの男にそっくりだったものだから、ガザード公爵閣下と陛下を問いめたんだよ」

 ……まさか公爵と国王陛下を問い詰め、そして僕の素性をかせるとは。マッケンジー卿は見た目通りの型破りな男らしい。

「本来なら、まだりをするような年じゃあないんだがな。あいつの子なら話は別だ」

 マッケンジー卿と父は親しかったのだろうか。父は騎士だったし、マッケンジー卿とねんれいも近い。だからその可能性はじゅうぶんにあるな。

 細身のぼつけんを投げられ、あわてて受け取る。はじめて手にした木剣は意外なほどの重さがあり、これをり回せるのだろうかと弱気がわずかに顔を出す。僕はそれを、慌てて心の奥底に押し込めた。

「とりあえず、お前がそれをどれだけあつかえるか見てやるよ。どこからでもかかってこい。それを見てから、どの程度から指導をはじめるかを決める」

 マッケンジー卿はそう言うと、ちようはつするように両手を広げてみせた。彼は木剣を持っていない。……いちげきすら、僕には入れられないと確信しているのだ。

 ──『今』はその通りだろう。だけれど未来には、その大きな体を地にいつくばらせてやる。

 そして姉様の愛を、僕は勝ち取るんだ。


   ● ● ●


「なによ、ボロボロじゃないの。情けない子ね」

 剣の授業が終わり、マッケンジー卿にわきかかえられて屋敷に戻って来たナイジェルを見て、わたくしはため息をついた。

「少し、やり過ぎました」

 マッケンジー卿は申し訳なさそうに言うとまゆじりを下げる。そして居間のながにナイジェルを下ろした。

 ナイジェルはボロボロだけれど、意識ははっきりしているようだ。

 ……なんだか、しようちんしているようだけれど。

「マッケンジー卿は悪くありませんわ。剣のたんれんというものに、は付き物なのですもの」

 そう返しながらナイジェルの様子をくわしく観察する。彼の体には大小のあざと、小さなり傷がいっぱいだ。だけどマッケンジー卿が上手うまく手加減してくれたのか、大きな怪我は無いようね。さすがだわ。

 ナイジェルは細身でがらだし騎士には向いていないと思うのだけれど、どうして剣の教師なんてねだったのかしら。

 あまりにボロボロだったのでさすがにわいそうになり、水差しの水でハンカチをらして少しれた頬に当てる。するとナイジェルは気持ちよさそうにひとみを細めた。

「冷たくて気持ちいいです、姉様」

「そう、それはよかったわ。あとはメイドを呼んで……」

「姉様に、手当てして欲しいです」

 変な子ね、メイドを待てないくらいに痛むのかしら。頬を冷やした後に、ついでにどろよごれていた首筋をぬぐう。するとナイジェルはくすぐったそうな顔をした。

 こうしていると本当の弟の世話を焼いているみたいね、なんて。少しなごみそうになる。

 ダメね、下手に情を持つのはよくないのに。不義なんて道に外れたことは、許してはいけないの。

 ……本当に許しちゃいけないのはナイジェルじゃなくて、お父様だっていうのはわかっているのだけれど。お父様にきらわれるのがこわくて、はっきりそうと言えないのだから……わたくしはきようものなのだわ。

「姉様、うでも痛いです」

 ナイジェルの声に、暗いところにしずんだ思考が引き戻された。

「なにを甘えたことを言ってるの」

「……だって、痛いのです」

 晴れた日の空のような色合いの瞳で、甘えるように見つめられる。仕方なしに腕の痣にも濡れたハンカチを当ててあげると、ナイジェルの表情がふわりとゆるんだ。

 後でお父様にお医者様を呼んでもらおうかしら。もしかすると骨にひびが入っているかもしれないし。

「後でお医者様を呼ぶわよ。いいわね?」

「はい、ウィレミナ姉様」

「痛み止めのなんこうと包帯を多く処方してもらった方がいいのかしら。まったく、手間がかかる子ね」

「……ごめんなさい、姉様」

 ナイジェルが悲しげに長いまつ毛をせる。すると白い頬にかげが落ちた。

「剣は……いつまで習うつもりなの?」

 このまま剣の授業を続けていたら、いつか大怪我をするんじゃないかしら。別にナイジェルが大怪我をしようと、わたくしはどうでもいいのだけど。

 だけどこの子が大怪我をしたら……お父様がきっと悲しむわ。お父様にとっては、この子も大事な子どもなんだもの。

「僕が、強くなれるまでです」

「お前がなれるわけがないでしょう?」

「いいえ、強くなります。そして騎士になるんです」

 ナイジェルが伏せ気味だった顔を上げる。強い意志をはらんだ視線がこちらをき、わたくしはそれにたじろいだ。

 公爵家のこうけいになる可能性があるお父様の子なのに、一体なにを言っているのよ。騎士になったとしても公爵家をぐことはできるけれど、命の危険があることはけてほしいわ。お父様に心労がかかるもの。そもそもの話……こんなにきやしやなこの子が騎士になれるはずがないのだから、な心配かしら。

「無理で……」

「いや、なかなか見込みがありますよ。動きも悪くはないですし、何より明確な『目標』があるのか何度もらいついてくる根性があります」

 メイドが用意した紅茶を口にしながら、マッケンジーきようが会話に加わる。

 見込みがある? マッケンジー卿がおっしゃるのならそうなのかしら。

「しばらくきたえた後に、学校へのすいせんをしてもいいと思っております」

 ──騎士学校。

 げんえき騎士からのご推薦がないと入れない、騎士のエリートコースへの道。

 そこに……ナイジェルが入るの?

 騎士への道は広く門戸が開かれており、登用試験に合格することで平民でも貴族でもなることができる。マッケンジー卿も平民からの登用で、かつやくを買われて現在はしやくたまわっているのだ。

 それだけ聞くとなんてふところが深い世界なんだろう、と思うかもしれないけれど。

 騎士の世界は貴族家の者がはばをきかせており、平民出の騎士は下働きのように扱われ、出世がしづらいなどのあからさまな差別を受ける。マッケンジー卿がこの騎士団団長になってからは、そんな差別をなくそうと努力してらっしゃるけど……。現状は『なくなった』と言えるものではない。

 マッケンジー卿はその扱いを実力でね返す『たん』だったわけだけれど。本当にてきだわ! そんなゆうもうかんで才覚にあふれた将なのに、いつも気さくで気取っていないところも素敵よね。はしたないとわかっていつつも『素敵な方』だなんて気持ちが溢れてしまう。

 ……わたくしのマッケンジー卿への気持ちは、どうでもいいわね。

 騎士になる方法は登用試験という正規ルートとは別に、もう一つのルートがある。

 それが『騎士学校』への入学だ。

 騎士学校は一定以上の功績を挙げた、現役騎士の推薦でしか入れない二年制の学校だ。

 十二歳から十八歳までの間ならいつでも入学が可能。推薦があった生徒の入学試験は、ずい行われている。

 推薦だと貴族のけんに任せての入学が横行しそう……なんて思われるかもしれないけれど。

 推薦入学者が厳しい訓練にえられずとうぼうした場合やその他問題を起こした場合、本人だけではなく推薦者も厳しいしよばつを受ける。なので『ほど』のしんらいがないと推薦には至らないのだ。

 入学試験が登用試験とはかくにならないくらいに厳しいので、腕に覚えのない者が無理やりコネでの推薦を勝ち取っても入学自体がそもそも難しいのだけれど。

 そんな事情で騎士学校卒の生徒は信用という担保があるため、卒業後に重要なポストにきやすい。騎士学校ざいせき中の成績によっては、近衛騎士という花形への道も開けるのだ。

「ナイジェルを推薦だなんて。マッケンジー卿に、ごめいわくがかからないかしら」

 わたくしが最初に思ったのはそれだった。

 ナイジェルが問題を起こせばマッケンジー卿が処罰を受ける。それだけは絶対に避けないと。

「姉様、僕はげたりしません」

 ナイジェルがわたくしの服を引っ張りながら、心外だという顔をして言う。

 だけど授業の初日からこんなにボロボロなのよ? 学校は腕に自信のある生徒たちばかりだろうし、入学できたとしても毎日泣くナイジェルしか想像できないわ。

「……わたくし、心配よ」

 ぽろりと出た言葉に自分でおどろいて、口を手で押さえる。するとナイジェルは大きく目を見開いた後に、ほこる花のような美しいみをかべた。なんなのよ、そのうれしそうな顔は!

だいじようですよ、ウィレミナじよう。俺……いや、私が大丈夫だと思うまでは推薦はしませんから」

 わざわざ『私』と言い直すマッケンジー卿は、悪戯いたずらっ子のようで少し可愛かわいい。大人の男性の上に可愛いところもあるなんて、本当に最高ね。

「ふふ。マッケンジー卿、楽なことづかいで大丈夫ですのよ」

「いや、これは失敬。では、お言葉に甘えて少し楽にさせて頂きますか」

 マッケンジー卿はそう言うと、照れたような笑いを浮かべた。そしてクッキーに手をばして一口で食べてしまう。彼はどうやら、甘い物がお好きらしい。

 わたくし……先ほどはマッケンジー卿の見識を疑うような失礼なことを言ってしまったわね。きちんと謝罪をしないと。

「ナイジェルを疑うことは、マッケンジー卿を疑うことになってしまいますわね。けんのことなどわからないむすめが失礼を申してしまい、申し訳ありません」

 マッケンジー卿のところへ行ってぺこりと頭を下げると、頭を大きな手でわしゃわしゃとでられる。それがここよくて、わたくしは思わず笑みをらした。

「弟君が心配だったのでしょう? ウィレミナ嬢はよき姉君だ」

 ──だけど、かけられた言葉を聞いて心がこおりつく。

 わたくしは、いい子なんかじゃない。弟いじめをする悪い姉なのだから。

「マッケンジー卿、わたくしはいい子では」

「いいえ。ウィレミナ嬢自身が気づいていないだけで、とてもいい子ですよ」

 マッケンジー卿はそう言って白い歯を見せながらにかっと笑うと、メイドに紅茶のお代わりをたのんだ。そしてクッキーをまたほおる。そんな彼の様子を見ながら、わたくしは口を引き結んだ。

 マッケンジー卿におやさしいことを言って頂く資格は……わたくしにはないわ。

 わたくしはかたを落としながらながこしを下ろした。するととなりに座ったナイジェルがじっとこちらを見つめてくる。

「姉様。その」

「な、なによ」

 ナイジェルに呼ばれて、つい身をこわらせる。

「姉様はいつも──」

 ……ナイジェルの口からどんな言葉が出るのかがこわい。そしてそれをマッケンジー卿に聞かれることが、もっとおそろしい。

 わたくしはとつにナイジェルの口を両手でふさいでしまった。するとナイジェルの大きなひとみが、さらに瞠られる。

 ふだんていにつらく当たっていることを、マッケンジー卿に知られたくない。そんな気持ちで心がぐちゃぐちゃになり、どうしていいのかわからない。

「ナイジェル、なにも言わないで。お願い」

 こんがんの色をふくんでしまうこわでお願いすると、ナイジェルはこくこくと何度もうなずく。そしてわたくしの手をそっと口からがした。

「なにも言いません、姉様。だから……そんな泣きそうなお顔をしないでください」

 優しくささやかれ、青の瞳でじっと見つめられる。あんなにきつく当たっているのに、それをだまっていてくれるなんて…。義弟の方がわたくしよりも『いい子』ね。

 わたくし……公爵家の令嬢としてふさわしくない人間なんじゃないかしら。

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わたくしのことが大嫌いな義弟が護衛騎士になりました 実は溺愛されていたって本当なの!? 夕日/角川ビーンズ文庫 @beans

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