第一章 わたくしと義弟の思い出②
お父様にすがってさんざん泣いたあとに、日課になっている自習をしに図書室へ向かうと……そこでナイジェルと
この子は自習なんてしなくてもいいくらい出来る子なのに、さらに
そんなことを考えながらナイジェルから離れた
「ウィレミナ姉様」
「なによ」
ジロリと強く
その──はずだった。
ナイジェルの
「ナ、ナイジェル?」
笑った。いつも、無表情な
ふわりとそこにだけ光が差したかのような美しい笑みに、わたくしは
彼は人間ではなく……天使かなにかなんだろうか。そんなバカなことさえ考えてしまうほどの美しさだ。
「姉様、泣いたのですか。頬に涙の
氷のような、けれど奥に熱を
ナイジェルに
「なに……?」
「どうして、泣いていたのです?」
そんなわたくしの様子を見て、ナイジェルは少し大きな声で重ねて質問をする。同時に小さな手が
「目の周りが……赤くなって少し
ナイジェルはそう言うと、わたくしの目元を指先で優しく撫でた。
「お、お父様に少し甘えてしまっただけよ。わたくしにだって泣きたい時があるの」
「お父様に……いじめられたわけではないのですね?」
「わたくしのことを大好きなお父様が、そんなことをするわけないでしょう!」
調子が
するとようやく頬から手が離れていく。そして義弟はわたくしの
「何事もないのでしたら、安心しました」
「……どうして、隣に座るのよ」
「今日も一緒にお勉強がしたいなと。それと、ウィレミナ姉様」
ナイジェルはわたくしを見つめながら、口元にまた笑みを
「僕にも甘えて、いいんですよ」
そんな、訳のわからないことを言った。
「どうして、お前に甘えなきゃいけないのよ」
冷たく言って、手元の本へと目を向ける。今日の自習は
わたくしには、わたくしなりの進み方しかできないのだ。
だから開き直って、堂々と開くことにする。
「ウィレミナ姉様が甘えてくれると、
ナイジェルはそう答えながら自分の手元の本を開く。わたくしは
意地悪な義姉に甘えられても、いいことなんてないでしょうに。
それに日々いろいろな
「ナイジェルなんかに、甘えないわ」
きっぱりと言い切ってみせると、ナイジェルは
「……なぜですか?」
「教えるつもりはないわ。わたくしこの本を読みたいから、会話はお
これ以上弱みを見せたくないから、なんて恥ずかしくてとても言えない。だから無理やり会話を打ち切って、本と向かい合ったのだけれど……。
「姉様……」
ナイジェルが見捨てられた子犬のような瞳でわたくしをじっと見つめるから、集中できないにもほどがある。
わたくしを呼ぶ声まで悲しみの色を帯びているようで……本当に
「……今度のお茶会に来るんですって? お父様に聞いたわ」
気まずい気持ちになったわたくしは、会話を打ち切る代わりに別の話題を提供した。するとナイジェルは
「はい、お父様が参加してもいいと」
「そう。我が家の
「そのことで、相談があるのですが」
「相談?」
ナイジェルのマナーはもう
「お茶会にいらっしゃる方々の、お名前と顔が
はじめてお茶会に参加するんだから、そんなこと気にしなくてもいいだろうに。本当に義弟は
だけど悪いことではないわね。ナイジェルがなにかしくじれば、ガザード
「……いいわ。お茶会に参加する方々の特徴を教えればいいのね? 参加者のリストを部屋から取ってこないと」
「ここにあります、姉様」
ナイジェルはそう言うと、
ナイジェルから受け取ったそれに目を通す。今回のお茶会の
……参加者が多いから、少し情報を整理したいわね。
「ナイジェル、少しお待ちなさい」
わたくしは義弟に声をかけると、リストを
「わかりました、姉様」
……そして
「ふっ……ふふふっ。ウ、ウィレミナ姉様っ。くふっ」
「……ナイジェル、なにを笑っているのかしら?」
「だって、姉様。そ、それでは……! ふふっ。お口が大きすぎますっ」
「失礼な子ね! 笑わないで!」
「ご、ごめんな……ふはっ! 目も、そんなふうに
「う、うるさいわね! もう、見ないで!」
……ナイジェルがまた笑っている。しかも今度は、声を上げてだ。
先ほど
義弟が笑うこと自体には問題はないの。子どものうちは時には感情を表に出すことも大事なことだもの。貴族なんて大人になれば、ずっと感情を
だけど、今回の場合……。『ナイジェルが笑う原因』が問題なのだ。
「……わたくしの絵って、そんなに下手かしら」
わたくしは机の上に広げた紙束を眺めながら、深いため息をついた。
貴族の令嬢令息たちの容姿をナイジェルに伝えるために、わたくしが取った方法……。
それは、絵を描くことだった。
一番伝わりやすいと思ったのよ。
それで
──ショックだったわ。
だってわたくし、絵が下手なんて自覚がなかったんだもの。
紙の上にはミミズがのたくったような線で、令嬢令息らしき方々が
本当に嫌になるわね。わたくしの
わたくしは大きく息を
「……なによ」
じとりと
「……姉様の絵が、欲しいです」
「なんですって? あれだけ笑っておいて、なにを言っているの? 参加者の情報は文章にまとめて後で
「嫌です、せっかく姉様が描いてくださったのですから。その絵が欲しいです!」
ナイジェルがめずらしく
もしかして……この絵をお茶会で見せびらかして、わたくしの評判を
「絶対に絶対に、これはあげないから!」
「姉様、ください」
「嫌よ!」
ぎゅうっと絵を
「あ……」
ナイジェルがバランスを
視界いっぱいにナイジェルの
そんなバカなことを、
──あ、ぶつかる。
そう思った時には、すでに
「ふぎゃっ!」
「いたっ!」
小さな子どもの体とはいえ、じゅうぶんな重さ、そして倒れ込む勢いがある。わたくしとナイジェルは頭をぶつけ合い、そのまま
目の前に星が散ったような気がする。この義弟、石頭ね!
「い、痛い……」
ふわりと彼の
ここまで至近
そんなことを考えながら絶世の美貌を観察してしまう。観察されている側のナイジェルはというと、なぜなのだろう……ぴくりとも動かなくなってしまった。
「ナイジェル、どうしたの?」
「…………」
声をかけてみても義弟は固まったまま身動き一つしない。ぐいぐいとその胸を押しても、細身に見えるナイジェルなのにびくともしなかった。困ったわね、これじゃ動けないじゃない。
「ナイジェル? どこかぶつけた?」
打ちどころが悪かったのかと心配になって手を伸ばし、
しばらくそうやって額を撫でてあげていると……義弟の顔が一気に赤く
「ッ! 申し訳ありません!」
ナイジェルは
義弟は真っ赤になったまま、なぜかもじもじとしており……その様子は少しだけ不気味だ。
「お前、どこか妙なところをぶつけたんじゃない? そうなら医者を呼ぶけど」
「へ、平気です。お医者様は必要ありません!」
ぶんぶんと激しい勢いで頭を
「ち、近くで見た姉様があまりに綺麗で、その……びっくりしただけです」
その言葉にわたくしは目を丸くした。
……わたくしが、綺麗? やっぱり強く頭を打ってるじゃない!
「……変なところをぶつけたのね。綺麗なのは、お前の方じゃないの」
「──ッ!」
ナイジェルは赤い顔を、さらに真っ赤に染め上げる。そして「姉様が、僕を
……褒めてないわよ、事実を言っただけで。
「ナイジェル、やっぱりお医者様を呼ぶわ。だから部屋に
「姉様、僕は平気です」
「心配だから、早く」
「姉様が僕の心配を……!」
わたくしが『綺麗』だなんて、きっと
重ねて何度も説得すると、ナイジェルは
……あの『絵』が無いことに気づいたのは、それからしばらくしてからのことだった。
翌日。義弟の部屋で立派な額に入れられたそれを発見するなんて……わたくしは思ってもいなかったのだ。
本日はナイジェルと
子どもばかりのお茶会とはいえ、よい『
ガザード公爵家の不義の子のお目見えに、皆は
「その方がお
サンディ侯爵家の令嬢がそう言うと、ナイジェルを
「そう。少し不器用だけれど、
わたくしはそう返すと、おっとりと見えるように
ナイジェルへの悪感情は、一切表に出すつもりはない。ガザード公爵家が軽んじられる隙を作るわけにはいかないのだ。
……本当に、
お父様が不義の子なんかを家に入れるから。
その面倒の元であるナイジェルは、なんだか
生活を共にしていない者からすれば、ただの無表情にしか見えないのだろう。この義弟の感情の
正装をしたナイジェルは、美少年ぶりにさらに
「ウィレミナ姉様、とてもお綺麗ですね」
ナイジェルが、そんな白々しいことを言ってくる。
わたくしも赤のドレスを着て
「見え
「いえ、本当にお綺麗だと」
「そういうことは、好きなご令嬢ができたら言ってあげればいいのよ。お前の見た目ならきっと喜ぶわ」
「……ちゃんと好きな方に言っております」
ナイジェルの言葉に、わたくしは目を丸くする。この子、いつの間に好きなご令嬢ができたのかしら。
我が家に来る令嬢たちとは、素っ気ない会話しかしていないと思っていたのだけれど……わたくしが知らないうちに親交を深めていたのね。なかなか、貴族らしいそつがないことをする。
「そう。その好きな方をいつか
ガザード公爵家と繋がりを持つのにふさわしい人間か、
「いえ、その……」
わたくしの言葉を聞いたナイジェルは、なぜかがくりと
「いいことナイジェル。あることないこと言う
「わかりました姉様。ガザード公爵家の名に傷をつけないよう、堂々と
ナイジェルはそう言うと、表情を
● ● ●
赤のドレスに身を包み
お茶会に参加をしたのには、もう一つ理由がある。
……姉様に悪い虫がついていないかの、
会場にはたくさんの羽虫が居るけれど、姉様は
「ナイジェル様は、本当に
「光栄です、レディ」
なんたらとかいう令嬢が、
お茶会には着飾ったご令嬢が大勢来ているけれど、僕の目にはただ一人しか映らない。姉様でないのなら、男も女も等しく僕にはどうでもいい存在なのだ。
ちらりと姉様にまた視線を送る。そして僕は、胸の奥の気持ちを
今日の姉様は、本当に愛らしいな……。
いや、姉様はいつだってお可愛らしいのだけれど。
ウィレミナ姉様は派手なお顔立ちではないけれど、
姉様の手足は
姉様は見た目だけではなく、中身もお美しい。
ウィレミナ姉様は
急に公爵家にやってきた正体不明の『
姉様がご指導くださるのは僕に足りないことばかりで、
そんな
……まだあまり
僕はそのためだけに、努力しているのだ。
姉様のことが……僕は大好きだ。
ウィレミナ姉様は口調が強く、それが誤解を招きやすい。姉様の『友人』が姉様に隠れて『性格の悪い女だ』なんて
……そんなお前らの方が、数万倍も
僕は姉様が大好きだけれど、姉様の友人たちは
このお茶会に参加しているのも、ほとんどがそんな下衆だ。
「ナイジェル。アバディ
話しかけてきた
……大好きな、僕の姉様。
姉様は僕のことを、公爵の『不義の子』だと思っている。
面倒がないように僕と公爵が周囲に意図的に
僕たちの間には直接的な血の
● ● ●
「ウィレミナ嬢」
声をかけられそちらを見ると、メイエ
筆頭、というだけでまだ確定ではないのだけれど。国の
ナイジェルを
その場合、わたくしは他家に
……ナイジェルの存在によって、自分の将来設計が変わることに不満はないわ。
わたくしもテランス様も、そしてナイジェルも。この国のための
とにかく。『今はまだ』将来的に繋がる可能性がある、メイエ侯爵家のご令息だ。きちんとした対応を心がけないとならないわね。
「お久しぶりです、テランス様」
にこりと
さすがと言うべきかしら。いつ接しても洗練された所作ね。
テランス様は女性に非常におモテになる。人当たりがいい美男子で会話も
彼の責任ではないのだけれど……鼻が曲がりそう。
わたくしが小さく
「ごめんね。
そう囁かれ、また手の甲に口づけをされる。そして
だけど正直に言うと、テランス様はわたくしの好みではない。
わたくしはいかにも貴公子という方よりも、洗練された
今の王宮
「テランス様は大輪の花ですもの。それは仕方がないことですわ」
わたくしはそう言って笑うと、
「ナイジェル、痛いわ」
下品にならないよう、小声で
すると犯人であるナイジェルは、いつもの無表情でわたくしを見つめた。申し訳ないという顔くらいすればいいのに!
「ごめんなさい、姉様。
ナイジェルはさらりと言うと、擦られすぎて赤くなったわたくしの手の甲を優しく
「姉様、その方を
少し甘えるような口調で言われて、わたくしは
「そうか、君が
テランス様は小さく
ナイジェルはそんな彼に、いつになく
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