第一章 わたくしと義弟の思い出②

 お父様にすがってさんざん泣いたあとに、日課になっている自習をしに図書室へ向かうと……そこでナイジェルとはちわせしてしまった。

 この子は自習なんてしなくてもいいくらい出来る子なのに、さらにけんさんを積もうとする。くやしいけれど、わたくしが勝てなくて当然なのよね。努力をきちんとする天才なんて本当にたちが悪いわ。

 そんなことを考えながらナイジェルから離れたながこしを下ろすと、ナイジェルが音も立てずにこちらに近づいてきた。

「ウィレミナ姉様」

「なによ」

 ジロリと強くにらんでも、いつもの通りならば義弟の表情に変化は生まれない。

 その──はずだった。

 ナイジェルのけんに小さく、不快だと言わんばかりのしわが寄る。めずらしくおこったのかしらと内心どきどきしていると、ナイジェルの強い視線がこちらをいた。目をらそうとしても逸らせない。視線でその場にい止められたようなさつかくまで起きてしまう。

「ナ、ナイジェル?」

 あせりで声が上ずる。そんなわたくしに……彼はふっとやわらかな笑みを向けた。

 笑った。いつも、無表情なていが。

 ふわりとそこにだけ光が差したかのような美しい笑みに、わたくしはられた。ナイジェルはふだんから美しいけれど、笑うとぼうがさらにきわつのね。

 彼は人間ではなく……天使かなにかなんだろうか。そんなバカなことさえ考えてしまうほどの美しさだ。

「姉様、泣いたのですか。頬に涙のあとが残っています。誰かにいじめられましたか? その誰かを……こっそり僕に教えることはできますか?」

 氷のような、けれど奥に熱をはらんだ声が美しいくちびるからつむがれる。

 ナイジェルにれていたわたくしは、それを上手うまく聞き取れず首を傾げた。

「なに……?」

「どうして、泣いていたのです?」

 そんなわたくしの様子を見て、ナイジェルは少し大きな声で重ねて質問をする。同時に小さな手がびて、わたくしの目のはしに指がえんりよがちにれた。

「目の周りが……赤くなって少しれています」

 ナイジェルはそう言うと、わたくしの目元を指先で優しく撫でた。なぐさめている、つもりなのかしら。

「お、お父様に少し甘えてしまっただけよ。わたくしにだって泣きたい時があるの」

「お父様に……いじめられたわけではないのですね?」

「わたくしのことを大好きなお父様が、そんなことをするわけないでしょう!」

 調子がもどってきたわたくしは、強い口調で言ってナイジェルを睨みつけた。

 するとようやく頬から手が離れていく。そして義弟はわたくしのとなりに腰を下ろした。

「何事もないのでしたら、安心しました」

「……どうして、隣に座るのよ」

「今日も一緒にお勉強がしたいなと。それと、ウィレミナ姉様」

 ナイジェルはわたくしを見つめながら、口元にまた笑みをまとう。そして……。

「僕にも甘えて、いいんですよ」

 そんな、訳のわからないことを言った。

「どうして、お前に甘えなきゃいけないのよ」

 冷たく言って、手元の本へと目を向ける。今日の自習はりんごくの歴史についてだ。この国と密接なかかわりがある隣国のことは、学んでいて損はない。ナイジェルはとっくに読んでしまっているであろうこの本を、彼の前で開くのは少しずかしいけれど。

 わたくしには、わたくしなりの進み方しかできないのだ。

 だから開き直って、堂々と開くことにする。

「ウィレミナ姉様が甘えてくれると、うれしいからです」

 ナイジェルはそう答えながら自分の手元の本を開く。わたくしはげんな顔をしながら、彼のれいな横顔に視線を向けた。わたくしが甘えると嬉しい? 本当によくわからないことを言う子。

 意地悪な義姉に甘えられても、いいことなんてないでしょうに。

 それに日々いろいろなことがらで負けてばかりなのに、これ以上弱みを見せるのは絶対にいや

「ナイジェルなんかに、甘えないわ」

 きっぱりと言い切ってみせると、ナイジェルはまゆじりを下げて悲しそうな顔をした。なによ、わたくしが悪いみたいじゃない!

「……なぜですか?」

「教えるつもりはないわ。わたくしこの本を読みたいから、会話はおしまいよ」

 これ以上弱みを見せたくないから、なんて恥ずかしくてとても言えない。だから無理やり会話を打ち切って、本と向かい合ったのだけれど……。

「姉様……」

 ナイジェルが見捨てられた子犬のような瞳でわたくしをじっと見つめるから、集中できないにもほどがある。

 わたくしを呼ぶ声まで悲しみの色を帯びているようで……本当にかんべんして欲しいのだけど。胸のあたりが、なんだかズキズキ痛い気がするわ。これは罪悪感というやつかしら。

「……今度のお茶会に来るんですって? お父様に聞いたわ」

 気まずい気持ちになったわたくしは、会話を打ち切る代わりに別の話題を提供した。するとナイジェルはいつしゆん目を丸くした後に、こくこくと何度もうなずいた。

「はい、お父様が参加してもいいと」

「そう。我が家のはじにならないようにいなさい」

「そのことで、相談があるのですが」

「相談?」

 ナイジェルのマナーはもうかんぺきだ。嫌というほど見せつけられたわ。それなのに、相談することなんてあるのかしら。

「お茶会にいらっしゃる方々の、お名前と顔がいつするようにしたいのです。姉様にわかるはんで、とくちようを聞かせてもらえたら嬉しいなと」

 はじめてお茶会に参加するんだから、そんなこと気にしなくてもいいだろうに。本当に義弟は真面目まじめだ。

 だけど悪いことではないわね。ナイジェルがなにかしくじれば、ガザードこうしやく家の家名に傷がつく。それを防ぐための予習は大事ね。

「……いいわ。お茶会に参加する方々の特徴を教えればいいのね? 参加者のリストを部屋から取ってこないと」

「ここにあります、姉様」

 ナイジェルはそう言うと、ふところから招待状といつしよに送られてくる参加者リストを取り出した。なんとも準備がいいことだ。

 ナイジェルから受け取ったそれに目を通す。今回のお茶会のしゆさいはレアードこうしやく夫人で、十歳から十五歳までのれいじよう令息たちの交流の場としてもよおされるものだ。我がガザード公爵家は、招待客の中で一番家格が高い。だからある程度の失敗はおこぼしされるだろう。それを加味した上でも、気をつけた方がいい人物のことから教えていこう。

 ……参加者が多いから、少し情報を整理したいわね。

「ナイジェル、少しお待ちなさい」

 わたくしは義弟に声をかけると、リストをながめながら頭の中で情報の整理をはじめた。

「わかりました、姉様」

 ……そしてしんけんな顔でへんに目を通すわたくしをナイジェルが嬉しそうに見つめていることには、まったく気づいていなかったのだ。


「ふっ……ふふふっ。ウ、ウィレミナ姉様っ。くふっ」

「……ナイジェル、なにを笑っているのかしら?」

「だって、姉様。そ、それでは……! ふふっ。お口が大きすぎますっ」

「失礼な子ね! 笑わないで!」

「ご、ごめんな……ふはっ! 目も、そんなふうにくとお顔から飛び出してしまいます」

「う、うるさいわね! もう、見ないで!」

 ……ナイジェルがまた笑っている。しかも今度は、声を上げてだ。

 先ほど微笑ほほえんだだけでも大事件だったのに、笑い声を上げているナイジェルを見ることになるなんて……今日は変わったことが立て続けにあるものだわ。

 義弟が笑うこと自体には問題はないの。子どものうちは時には感情を表に出すことも大事なことだもの。貴族なんて大人になれば、ずっと感情をかくすようなかんきように置かれることもあるのだし。

 だけど、今回の場合……。『ナイジェルが笑う原因』が問題なのだ。

「……わたくしの絵って、そんなに下手かしら」

 わたくしは机の上に広げた紙束を眺めながら、深いため息をついた。

 貴族の令嬢令息たちの容姿をナイジェルに伝えるために、わたくしが取った方法……。

 それは、絵を描くことだった。

 一番伝わりやすいと思ったのよ。きつねで赤毛のリーレン様とサニャ様の区別を文章で説明しても混同すると思ったから、じゃあ絵で描くのが一番いいわねって。そう思いついたのがはじまりだったの。

 それでようようと容姿の解説をしながら、参加者たちのお顔を描いていったのだけれど……。笑いをまんしていたらしいナイジェルが、急に笑いはじめたのだ。

 ──ショックだったわ。

 だってわたくし、絵が下手なんて自覚がなかったんだもの。

 紙の上にはミミズがのたくったような線で、令嬢令息らしき方々がえがかれている。改めて見ると、たしかに伝わりづらいかも。これではナイジェルに笑われても仕方ないわ。

 本当に嫌になるわね。わたくしのすぐれていない部分が、また明らかになってしまった。

 わたくしは大きく息をくと、似顔絵を描いた紙を乱暴に丸めて捨てようとした。だけどその動きは、ナイジェルの綺麗な手によってそっとやさしく止められる。

「……なによ」

 じとりとにらみつけると、笑いすぎてほお薔薇ばらいろに染めたナイジェルが困ったように眉尻を下げた。

「……姉様の絵が、欲しいです」

「なんですって? あれだけ笑っておいて、なにを言っているの? 参加者の情報は文章にまとめて後でわたすから、それでじゅうぶんでしょう。それに、もうこんなにぐちゃぐちゃに丸めてしまったし」

「嫌です、せっかく姉様が描いてくださったのですから。その絵が欲しいです!」

 ナイジェルがめずらしくごうじようだ。ふだんはなにかをねだるなんてこと、いつさいしないのに。

 もしかして……この絵をお茶会で見せびらかして、わたくしの評判をおとしめるつもりなのかしら。そ、そんなことさせないわよ!

「絶対に絶対に、これはあげないから!」

「姉様、ください」

「嫌よ!」

 ぎゅうっと絵をきしめて、渡さないぞという意志を強く見せる。だけどナイジェルはあきらめず、抱きしめた絵に手をばした。

「あ……」

 ナイジェルがバランスをくずしてぐらりとよろける。わたくしはとつに手を伸ばして、その体を受け止めようとした。

 視界いっぱいにナイジェルのぼうが広がる。彼は大きなひとみみはったまさにきようがくという表情をして、こちらにたおれ込んできた。けな顔をしていてもていの美しさはおとろえないのね。

 そんなバカなことを、ゆうちように考えていると……。

 ──あ、ぶつかる。

 そう思った時には、すでにおそかった。

「ふぎゃっ!」

「いたっ!」

 小さな子どもの体とはいえ、じゅうぶんな重さ、そして倒れ込む勢いがある。わたくしとナイジェルは頭をぶつけ合い、そのままながに倒れ込んだ。

 目の前に星が散ったような気がする。この義弟、石頭ね!

「い、痛い……」

 なみだで身を起こそうとした時、体が上手うまく動かないことに気づいた。せまい長椅子の上で、ナイジェルに押し倒されたような状態になっていたのだ。

 ふわりと彼のかおりがただよい、少し長めの銀色のかみがこちらの頬をくすぐる。ナイジェルは大きく目を見開いたままわたくしを見つめていて、それが少しおそろしい。

 ここまで至近きよでナイジェルの顔を眺めたことはなかったけれど、本当にがみのようなこうごうしさね。なにもっていないのに、どうしておはだがこんなに白いのかしら。毛穴もまったく見えないし。まつ毛も信じられないくらいに長い。何本マッチがるのかしら。目もにごりの無い空の色ね。まるでお人形の瞳みたいだわ。

 そんなことを考えながら絶世の美貌を観察してしまう。観察されている側のナイジェルはというと、なぜなのだろう……ぴくりとも動かなくなってしまった。

「ナイジェル、どうしたの?」

「…………」

 声をかけてみても義弟は固まったまま身動き一つしない。ぐいぐいとその胸を押しても、細身に見えるナイジェルなのにびくともしなかった。困ったわね、これじゃ動けないじゃない。

「ナイジェル? どこかぶつけた?」

 打ちどころが悪かったのかと心配になって手を伸ばし、れいな額をでてみる。うん、たんこぶはできていないみたい。むしろわたくしの額のほうが心配。だってズキズキとにぶい痛みを感じるんですもの。

 しばらくそうやって額を撫でてあげていると……義弟の顔が一気に赤くで上がった。

「ッ! 申し訳ありません!」

 ナイジェルはわれに返ったらしく、あわててわたくしの上から飛び退いた。よかった、あのままでは体がしびれてしまいそうだったから。わたくしは身を起こすと、自分の額をさする。うん、やっぱりちょっと痛いわね。

 義弟は真っ赤になったまま、なぜかもじもじとしており……その様子は少しだけ不気味だ。

「お前、どこか妙なところをぶつけたんじゃない? そうなら医者を呼ぶけど」

「へ、平気です。お医者様は必要ありません!」

 ぶんぶんと激しい勢いで頭をってから、ナイジェルは上ずった声でそう返す。異常がないのなら、まぁよいのだけれど。

「ち、近くで見た姉様があまりに綺麗で、その……びっくりしただけです」

 その言葉にわたくしは目を丸くした。

 ……わたくしが、綺麗? やっぱり強く頭を打ってるじゃない!

「……変なところをぶつけたのね。綺麗なのは、お前の方じゃないの」

「──ッ!」

 ナイジェルは赤い顔を、さらに真っ赤に染め上げる。そして「姉様が、僕をめてくださった」と、よくわからないことをぶつぶつとつぶやきはじめた。

 ……褒めてないわよ、事実を言っただけで。

「ナイジェル、やっぱりお医者様を呼ぶわ。だから部屋にもどりなさい」

「姉様、僕は平気です」

「心配だから、早く」

「姉様が僕の心配を……!」

 わたくしが『綺麗』だなんて、きっとげんかくが見えているにちがいないもの。これは確実にじゆうしようよ。わたくしだって人でなしではないのだから、心配くらいするわ。

 重ねて何度も説得すると、ナイジェルはしぶしぶという様子で部屋へと戻って行った。

 ……あの『絵』が無いことに気づいたのは、それからしばらくしてからのことだった。

 翌日。義弟の部屋で立派な額に入れられたそれを発見するなんて……わたくしは思ってもいなかったのだ。



 本日はナイジェルといつしよに参加するお茶会の日だ。

 おとずれたレアードこうしやく家の庭園にはたくさんのテーブルが置かれ、すでにとうちやくしていたれいじよう令息たちが思い思いに会話をしている。

 子どもばかりのお茶会とはいえ、よい『つながり』を期待する親は多い。そんな重荷を背負っていることをおくびにも出さずに、みながおかろやかに会話をするのだ。

 しゆさいのレアード侯爵夫人にごあいさつをしてから、わたくしとナイジェルは目立たないテーブルに着いた。そして挨拶に来る令嬢令息たちに、笑顔で挨拶を返す。不本意ながら……先日の『絵』のおかげか、ナイジェルの受け答えにすきはない。その様子を見て、わたくしは内心胸を撫で下ろした。

 ガザード公爵家の不義の子のお目見えに、皆はきようしんしんだ。数々の視線があからさまなこうしんかくせないままに、ナイジェルへと向けられていた。お茶会の前から『お友達』にも、さんざんさぐりを入れられたものね。

「その方がおうわさの弟君ですか。とてもてきな方ですね」

 サンディ侯爵家の令嬢がそう言うと、ナイジェルをえんりよながめ回す。ふだんからおぎようがいいご令嬢ではないけれど、本当にしつけね。

「そう。少し不器用だけれど、可愛かわいらしい子なのよ」

 わたくしはそう返すと、おっとりと見えるように微笑ほほえんでみせた。

 ナイジェルへの悪感情は、一切表に出すつもりはない。ガザード公爵家が軽んじられる隙を作るわけにはいかないのだ。

 ……本当に、めんどう

 お父様が不義の子なんかを家に入れるから。

 その面倒の元であるナイジェルは、なんだかげんがよさそうだけれど。

 生活を共にしていない者からすれば、ただの無表情にしか見えないのだろう。この義弟の感情のにも、さとくなってしまったわ。お茶会に参加するのがそんなにうれしいのかしらね。

 正装をしたナイジェルは、美少年ぶりにさらにみがきがかかっている。そんな彼には、悪感情以外の感情をはらんだ視線も多く向けられていた。これだけの見た目で、不義の子とはいえガザード公爵家の子どもなのだ。あわよくばえんを結びたいと考える令嬢も当然いるだろう。

「ウィレミナ姉様、とてもお綺麗ですね」

 ナイジェルが、そんな白々しいことを言ってくる。いやね、明らかな嫌味を言うなんて。

 わたくしも赤のドレスを着てかざっているものの、ナイジェルのように何段も女っぷりが上がるようなことはない。元がぼんようだとどれだけ着飾っても、代わりえなんてしないものなのだ。

「見えいたお世辞はいいの」

「いえ、本当にお綺麗だと」

 いらちを隠さずに言ってみせると、ナイジェルのまゆじりがわずかに下がる。嫌味ばかりのこびを売っても仕方ないでしょうに。

「そういうことは、好きなご令嬢ができたら言ってあげればいいのよ。お前の見た目ならきっと喜ぶわ」

「……ちゃんと好きな方に言っております」

 ナイジェルの言葉に、わたくしは目を丸くする。この子、いつの間に好きなご令嬢ができたのかしら。

 我が家に来る令嬢たちとは、素っ気ない会話しかしていないと思っていたのだけれど……わたくしが知らないうちに親交を深めていたのね。なかなか、貴族らしいそつがないことをする。

「そう。その好きな方をいつかしようかいしてね」

 ガザード公爵家と繋がりを持つのにふさわしい人間か、きわめないとならないもの。

「いえ、その……」

 わたくしの言葉を聞いたナイジェルは、なぜかがくりとかたを落とした。だめね、おおやけの場でそんな情けない顔をしたら。

「いいことナイジェル。あることないこと言うやからは多いと思うけれど、堂々としていなさい。弱みを見せたら、そこから食いらされてしまうわ」

 せんで口元を隠しながら、ナイジェルに忠告する。すると彼は神妙なおもちで何度もうなずいた。

「わかりました姉様。ガザード公爵家の名に傷をつけないよう、堂々といたします」

 ナイジェルはそう言うと、表情をしく引きめた。


   ● ● ●


 赤のドレスに身を包みあわしようをしたウィレミナ姉様は、ようせいのようにれんで愛らしい。僕はさりげないふうをよそおいながら何度も視線を送り、そのお姿を目に焼きつけた。着飾った姉様をえんりよなく眺めるために退たいくつだろうお茶会に参加をしたのだから、しっかりと見ないと損だ。

 お茶会に参加をしたのには、もう一つ理由がある。

 ……姉様に悪い虫がついていないかの、かくにんもしておきたかったのだ。

 会場にはたくさんの羽虫が居るけれど、姉様はにもかけていない。その様子を見て僕はあんした。歯牙にも、というよりもただにぶいだけかもしれないけれど。そんなところも愛らしいと思う。

「ナイジェル様は、本当にうるわしい方なのね」

「光栄です、レディ」

 なんたらとかいう令嬢が、ほおを染めながら声をかけてくる。僕はそれを適当に流した。

 お茶会には着飾ったご令嬢が大勢来ているけれど、僕の目にはただ一人しか映らない。姉様でないのなら、男も女も等しく僕にはどうでもいい存在なのだ。

 ちらりと姉様にまた視線を送る。そして僕は、胸の奥の気持ちをふくんだいきをついた。

 今日の姉様は、本当に愛らしいな……。

 いや、姉様はいつだってお可愛らしいのだけれど。

 ウィレミナ姉様は派手なお顔立ちではないけれど、せいな美しさを持っている。夜のやみのようなくろかみは豊かで、少しつり上がった黒いひとみは愛らしいねこの目のようだ。はだは白く、その頬は感情が高ぶるとわずかに薔薇ばらいろに染まる。それは白い画布に淡いしゆを落としたようで、とてもれいなのだ。

 姉様の手足はきやしやで、こしも折れそうに細い。細すぎることを『ドレスを着た時に見映えしない』と本人は気にしていらっしゃるけれど、まだ僕らは十歳だ。成長の余地はいくらだってある。そしてどんな成長をしたって、姉様は愛らしいだろう。

 姉様は見た目だけではなく、中身もお美しい。

 ウィレミナ姉様はほこり高く、そしてやさしい人なのだ。

 急に公爵家にやってきた正体不明の『てい』に思うところもあるだろうに、姉様は僕に日々ご指導をしてくださる。

 姉様がご指導くださるのは僕に足りないことばかりで、じんだと思う内容でのお𠮟しかりを受けたことは一度たりともない。そして、僕がどれだけ至らなくても決して見捨てたりしないのだ。なんてしんぼうづよく……愛情に満ちた方なのだろう。

 そんなふところが深い姉様のご指導にこたえようと、僕は日々けんさんを重ねた。

 ……まだあまりめてはくださらないけれど、いつか『素敵な貴公子になったわね』と姉様に言って頂きたい。

 僕はそのためだけに、努力しているのだ。

 姉様のことが……僕は大好きだ。

 ウィレミナ姉様は口調が強く、それが誤解を招きやすい。姉様の『友人』が姉様に隠れて『性格の悪い女だ』なんてかげぐちを言っているのを、僕はくさるほど聞いた。

 ……そんなお前らの方が、数万倍もみにくいじゃないか。そのくせ姉様をおとしめるなんて、そののどぶえみ切ってやりたい。

 僕は姉様が大好きだけれど、姉様の友人たちはだいきらいだ。上辺ばかり綺麗にして、内側はドロドロに腐りきっていて……本当にばかりである。

 このお茶会に参加しているのも、ほとんどがそんな下衆だ。

「ナイジェル。アバディはくしやく家のリオナ様よ」

 話しかけてきたれいじようの名前がわからず視線を送ると、姉様が小声で耳元にささやいてくれた。吐息がふわりと耳にかかって、少しだけくすぐったい。

 ……大好きな、僕の姉様。

 姉様は僕のことを、公爵の『不義の子』だと思っている。

 面倒がないように僕と公爵が周囲に意図的にかんちがいをさせていることを、姉様は知らない。

 僕たちの間には直接的な血のつながりもなく、僕が貴女あなたのことを好きと知ったら……姉様は一体どんなお顔をするのだろうか。


   ● ● ●


「ウィレミナ嬢」

 声をかけられそちらを見ると、メイエこうしやく家のテランス様が軽く手をりながら立っていた。彼は同い年のきんぱつへきがんの美男子で……わたくしのこんやくしや候補筆頭である。

 筆頭、というだけでまだ確定ではないのだけれど。国のかなめである三大公爵家のこんいんは、しんちように時間をかけて進められる。情勢が変化すれば、また別の婚約者候補が筆頭に上がってくるでしょうね。

 ナイジェルをこうけいしやに、なんて話が出る可能性も当然あるわね。不義の子だとは言っても、ナイジェルは非常にゆうしゆうな子だから。

 その場合、わたくしは他家にとつぐのだろう。

 ……ナイジェルの存在によって、自分の将来設計が変わることに不満はないわ。

 わたくしもテランス様も、そしてナイジェルも。この国のためのこまに過ぎないのだ。そこに自身の感情がかいざいするすきなんてものはない。少なくともわたくしはそう思っている。

 とにかく。『今はまだ』将来的に繋がる可能性がある、メイエ侯爵家のご令息だ。きちんとした対応を心がけないとならないわね。

「お久しぶりです、テランス様」

 にこりと微笑ほほえんでしゆくじよの礼をすると、テランス様もみを返す。そしてわたくしの手を取ると、そっとこうに口づけた。

 さすがと言うべきかしら。いつ接しても洗練された所作ね。

 テランス様は女性に非常におモテになる。人当たりがいい美男子で会話もけいみよう、そして侯爵家のご令息なのだ。わたくしとの婚約も確定ではないし、モテない方がおかしいわね。ここに来るまでにもあちこちで女性たちにつかまっていたらしく、いろいろなこうすいにおいが入り混じりながら彼からただよっていた。

 彼の責任ではないのだけれど……鼻が曲がりそう。

 わたくしが小さくけんしわを寄せると、テランス様はそのわずかな表情の変化にもすぐに気づき少し困ったように笑った。

「ごめんね。いとしい君のところに来る前に、可愛かわいらしいちようたちに捕まってしまって」

 そう囁かれ、また手の甲に口づけをされる。そしてまゆじりを下げて、はにかんだ笑みを向けられた。その表情は子犬のように愛らしい。ほかの令嬢たちが、彼にコロリといくのもわかるわ。

 だけど正直に言うと、テランス様はわたくしの好みではない。

 わたくしはいかにも貴公子という方よりも、洗練されたのような……自身を厳しく律している方を好ましいと思ってしまうのだ。そういう方と結ばれる可能性が低いのは、ちゃんとわかっているわよ。

 今の王宮この騎士団の団長様なんててきよね。おんとし、四十歳だけれど。妻に先立たれて現在独身の彼と、お茶をしたりダンスをしたりというもうそうを時々してしまうのはないしよだ。妄想くらいは自由よね。

「テランス様は大輪の花ですもの。それは仕方がないことですわ」

 わたくしはそう言って笑うと、にぎられた手をそっと引きいた。その手はすぐに別の手に握られ……手の甲を何度も布でこすられる。そんなに擦られると痛いのだけど! なにをするの!

「ナイジェル、痛いわ」

 下品にならないよう、小声でこうをする。

 すると犯人であるナイジェルは、いつもの無表情でわたくしを見つめた。申し訳ないという顔くらいすればいいのに!

「ごめんなさい、姉様。よごれがついていたので」

 ナイジェルはさらりと言うと、擦られすぎて赤くなったわたくしの手の甲を優しくでる。汚れ? さっき食べたケーキのクリームでもついていたのかしら。

「姉様、その方をしようかいしてくださいませんか?」

 少し甘えるような口調で言われて、わたくしはしようした。テランス様は『覚えるべき』方だと事前に教えていたのに。この子にもうっかりがあるのね。

「そうか、君がうわさの……」

 テランス様は小さくつぶやく。

 ナイジェルはそんな彼に、いつになくするどい視線を向けた。

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