第39話:私は猫ですか(3)


 規則正しく鳴る温度計。体の気だるさにある程度予想はしていたけど、実際に表示される三十八・三の数値に改めてげんなりとする。呼吸一つ苦しい気がするのは、病のせいなのか気持ちのせいなのか。随分と昇ったらしい太陽が部屋を照らして、それだけで随分と明るい。それにしても雨に濡れて風邪を引くなんて、あまりにもベタだ。


「ルナ、熱は?」

「……」


 ドアの開く音に続いて、由紀さんがベッドに近づく。持っていた体温計を奪われて、「風邪ね」と無慈悲に告げられる。

 ひんやりと冷たい手のひらがおでこに乗って、体の力が抜けるようだった。気持ちいい。でもそれは少しの間で、すぐに手のひらが離れていく。名残惜しさに見上げてみれば、由紀さんが小さく笑い返してくれてキュンとする。案外元気なのかもしれない。


「何か食べたいものある? コンビニで買ってくるから」

「んー……アイス食べたいです」

「シャーベット? クリーム系?」

「悩ましいですね……」


 そう言うと、両方ねと目尻が優しく緩まる。本当に甘やかすのが上手な人。最後に前髪を撫でて、由紀さんはコンビニへと出かけて行った。しんと静まり返った部屋は、少し寂しいけど暖かい。寝ていること以外に何も出来ないのは暇だけど、何かする元気もないし、由紀さんが帰ってくるまでまた少し寝ていようかな。ピリピリと痛む喉に一つ咳をして、目を瞑る。体に溜まる気怠さに瞼はすぐに重くなって、意識が少しずつ深く沈んでいく。


 そのまま現実と夢の狭間で揺蕩っていると、どこか遠くで音がした。まだ少し夢現の心地でいると、寝室のドアが開く音と、ビニール袋が擦れる音。ベッドの一部が沈む感覚がして、近くに由紀さんが座ったのだと分かる。重たい瞼をなんとか持ち上げると、一緒に意識も浮上してきた。


「ん……」

「ごめん、起こした?」

「うとうとしてた、だけです」


 重たい体をヘッドボードに預ける。あくびをすると、喉がピリッと痛んで咳が出た。咽せるように咳を繰り返すと、由紀さんの手のひらが背中を撫でてくれる。


「大丈夫?」

「ごほっ……すみません」

「気にしないの。 冷えピタも買ってきたから、おでこ出して」


 ビニール袋から取り出されたパッケージは少し懐かしい。前髪を手でかきあげて待っていると、由紀さんの手が丁寧にそれを貼って、手のひらの心地よさとは違う冷たさに目を瞬いた。体にこもる熱が少し逃げていくようで、これはこれで気持ちいい。


「ありがとうございます」

「アイスは? 後ゼリーとプリン、ヨーグルトとカットフルーツと、お粥もあるけど」

「……ぷは」


 どおりで袋が大きいと思った。病人が食べられそうなものランキングベスト五を網羅してるんじゃないかな。私が笑ってしまったせいか、由紀さんは拗ねたように目を細める。

 本当にもう、愛おしい人。この人と一緒に暮らして、好きにならない人なんていないんじゃないかな。こんなに可愛くて優しい人、他に知らない。


「何買えばいいか分からなかったの」

「あはは…はい、そうですよね。 あはは」


 由紀さんの手の甲が触れるみたいな優しさで私の頭を叩く。こんな風に過ごせるなら風邪を引いてよかったかも。わざわざ休みを取ってくれて、こうして分からないなりに頑張ってくれている由紀さんを見ていると、私への愛情を感じることができる。


「アイスはバニラカップとイチゴのシャーベット買ってきたけど」

「んー……シャーベットで」


 由紀さんからアイスとスプーンを受け取る。受け取ってからあーんしてもらえばよかったかな、なんて後悔。でも意外と元気なのはバレてしまっているし断られたかもしれない。それに、きっとまだチャンスはある。

 蓋を開けて、一口掬う。口に含むと、甘い冷たさが口の中に広がって美味しい。食欲がわかないと思ってたけど、これなら全部食べられるかも。黙々と食べていると、じっとこちらを見つめている視線に気づくのが少し遅れてしまった。


「……由紀さんも食べます?」

「バカ。 食べる訳ないでしょ」


 見てるだけだと由紀さんが言う。愛おしいものを見るように目を細めて、手のひらが私の頭を撫でる。熱を生むような事はやめてほしいけど、やめてほしくない。風邪だから甘やかしてくれるんだとしても、私以外にこんなことなんかしないでほしい。湧き上がる感情を誤魔化す様にひたすらアイスを口に放り込む。上がる熱を下げてくれますように。黙々と食べていると、あっという間に一つ完食してしまった。空の容器とスプーンを私の手から取って、代わりに捨ててくれる。いいのかな、こんな丁寧に扱われてしまって。

 

「他に何か食べる?」

「とりあえず大丈夫です」

「じゃあ冷蔵庫に仕舞っておくから、食べたくなったらいつでも言って」


 そう言って、由紀さんがまた寝室から出て行ってしまう。ご褒美のような時間はこれで終わりなのかな。看病っていってもずっと隣に居てくれるわけじゃないし、後はお昼まで寝て、お昼少し食べたら夜まできっと寝てるだけ。なんて少し離れただけこんな風に考えるのは我儘だなぁ。四六時中ずっといてほしいなんて、いよいよ末期なのかもしれない。

 でも、せめて寝るまで隣に居てくれたりしないかな。


 そんなことを考えていると足音がこちらに近づいてきて由紀さんが戻ってきた。お盆にスポーツドリンクとコーヒーが乗っていて、その意味に心臓が早く脈打つ。コーヒー一杯分だけかもしれないけど、まだここに居てくれるんだ。ベッドサイドテーブルにそれを置いて、由紀さんがまたベッドに座る。


「スツール一個買ってもいいかもね」

「私はこっちの方が近くて嬉しいですよ」

「風邪移さないならね」


 口角を少し上げながら、由紀さんがベッドをぽんぽんと叩く。大人しく寝ろということらしい。渋々布団に潜り込んで、でも隣に由紀さんがいるのに寝る気にはなれない。さっきとは真逆のことを思っているけど、もったいないんだから仕方ない。じっと由紀さんを見上げていると、焦げ茶色の瞳が私を見下ろす。マグカップを持っていない方の手が私の前髪を撫でてから、そっとおでこに乗る。甘やかされている、愛されている、大切にされている。ちゃんと伝わってくる。嬉しいけど、どこにもぶつけようのない熱だけが体に溜まっていく。吐き出した息が熱くて、それにやけどでもしたみたいに喉が熱くて痛い。


「猫だけど、猫じゃない」

「え?」


 突然の言葉の意図が分からず熱で鈍くなった頭で必死に考える。そして、昨日うっかりと零れた言葉を思い出す。あの話の続き、ということなのかな。猫だけど猫じゃないって、どういう意味なんだろう。

 零れた言葉や態度を、由紀さんが指摘することが最近増えた気がする。我慢が出来なくなると困るからスキンシップを控えていたことも、両親のことも、今回の言葉も。それも大切にしてくれようとしてくれてるってことなのかな。私の言葉について、もしかしてずっと考えてくれてたのかな。


 由紀さんの手のひらが、ゆっくりと離れていく。視線を落としマグカップを撫でながら、ゆっくりと由紀さんが言葉を落としていく。


「ごめん、風邪で寝込んでいるときにする話じゃないか」

「え、聞きたいです……どうせ眠くないですし」

「そう?」


 頷くと、由紀さんはマグカップを置いて体を私に向けて座り直す。


「じゃあ、独り言だけ聞いて。 昨日から……というよりここ最近ね、ルナがどんな存在かよく考えている自分がいる。 でも、ぴったりとくる言葉が見つからないの。 愛でる存在のように思う時もあるし、心地いい存在だとも思っているし、何より離れがたい」


 結局まとまっていないのだと、由紀さんが笑う。

 それでも、一生懸命に考えて紡いでくれた言葉は嬉しい。離れがたいという言葉が心の奥底で反響する。由紀さんにとって、私はきっと特別な存在になれている。今まで感じられていた感触が、現実の重みを伴って心の中に収まる。

 

 だからこそ、我儘になる。

 まだ定まってないんだったら、私と同じ気持ちになってくれないかな。愛おしく思ったり、心地いいと思ってくれたりするのなら、決して遠い場所にいる訳じゃない私のところに、気持ちまで来てくれないかな。


「でも、最初の頃言ってたような猫とは確実に意味合いが違うってことだけは分かる。 ルナは、私にとって大事な人よ。 私もきっと、ルナになら何をされても許してしまうのだと思う」


 由紀さんの手の甲が頬に触れる。ひんやりと冷たくて、私の熱を奪ってくれるよう。そのまま私の全部受け取って、私と同じになってしまえばいいのに。この熱全部、一緒になってくれたらいいのに。せり上がる熱が喉を焼き尽くしてしまいそうで、喉が震える。


 体にこもる熱が、溢れてしまいそう。我慢してたものが全部溢れてしまいそう。頬に触れる手に自分のを重ね合わせれば、拒まれることなくつないでくれる。何時だって拒まない人。私を受け入れてくれる人。私を大事だと言ってくれる人。何をしても許してくれるって本当ですか。

 私のこの気持ちを出しても、許してくれますか。


「私も、由紀さんは大事な人です」


 気怠い体を起こす。ぐるぐると頭をフル回転させてるせいか、なんだかさっきよりも体が重たい。ゆっくりと上体を起こすと、見かねた由紀さんが背中を支えてくれる。何度か深呼吸をすると、少しだけ気分もマシになった気がする。


 手を握って、背中を支えられて、まるで恋人みたいだなって私は思ってるけど、目の前の瞳は純粋な心配の色を映している。

 大事にされているならそれでもいいなんて、本当は嘘だ。本当は私と同じになってほしい、私と同じ気持ち、熱を持ってほしい。そんな私の最大の我儘だって、許してよ。


 ゆっくりと顔を寄せて、直前で目を瞑る。何されるかなんてもう分かるはずなのに、由紀さんが避ける気配は無かった。

 そっと触れた唇は、もう何度目だっけ。柔らかくて甘くて、そろそろ頭がゆで上がるくらいに熱い。体が熱くて、呼吸が苦しくてすぐに離れる。そういえば私風邪ひいてたんだった。移っちゃうかな。移っても、許してくれるかな。


「ルナ……?」


 もしそうなったら、その時に謝ろう。今は優先することがある。焦げ茶色の瞳をまっすぐに見つめると、動揺に揺れながらも逸らされることなく見つめ返してくれる。ずっと我慢してきた言葉、傍に居られなくなるからと言わなかった言葉。全部許してくれるなら、我慢してきた言葉もこの熱も全部受け止めてほしい。


「好きです、由紀さん」


 受け止めて、私と同じになってほしい。

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