第38話:私は猫ですか(2)


 玄関にたどり着くころには、体から水滴が滴るくらいにはずぶ濡れだった。

 

 こんなびしょ濡れで、何か報告できる成果もなくて、由紀さんに合わせる顔がない。玄関扉の前で言い訳の言葉を準備してみたところで、ただいまに続く相応しい言葉はありそうにもないし。

 情けない心地でこっそりと鍵を開け、ドアノブを回す。音を極力抑えて中に入ると、由紀さんの家の匂いと、自分にまとわりつく雨の匂いがする。リビングの灯りが点いているから、由紀さんはいるんだろう。どうしよう、こっそりと中に入るにはずぶ濡れだしバスタオル迄には少し距離がある。いってらっしゃいと見送ってくれた由紀さんの顔を思い出して項垂れると、前髪から水滴がいくつか落ちていった。


 いっそのことシャワーでも浴びようか。素早く浴びてしまえば、こんな濡れ鼠になっていることもバレないし、気分も晴れるかもしれない。廊下が少し濡れてしまうけど、由紀さんが気付く前に拭いてしまえば。

 その瞬間不意に扉の開く音がして、視線を持ち上げると驚いたように目を丸める由紀さんがいた。まごつく間に、どうやら手遅れになってしまったらしい。反射的に口角が上がる。


「あー……ただいま、由紀さん」

「おかえり。 いや、そうじゃなくて、なんでそんなずぶ濡れで立って……待って、タオル持ってくるから」


 あの由紀さんが分かりやすく動揺している。慌てたように脱衣所の方へ駆けて、どたどたと騒がしい音を立てた後に戻ってくる。バスタオルが何個も重なった状態で由紀さんの顔が顎の辺りまで隠れている。


「あはは、一枚で大丈夫ですよ」

「いいから、拭いたらシャワー浴びて」


 一番上のタオルを取って、頭を拭く。ふかふかで暖かくて、落ち着く香りがして、一つ息を吐き出す。荒む心が少しずつ丸みをおびていくみたいな、落ち着く感じがする。これなら素直に玄関を潜って、ただいまって言えばよかったかな。


「実家なんだから傘くらい借りてきたら良かったのに」


 思わず止まってしまった手に、失敗したなと思う。何かあったのか分かりやすすぎる。タオルのおかげで顔は隠れているし、すぐにまた手を動かしたけど誤魔化しきれるかな。口角を上げて、何でもないような声色を意識する。


「雨降るって知らなくって」

「……貸して」


 頭に触れる感触。優しい力加減でタオルが頭を撫でていく。あーあ、きっと全部バレてしまっている。

 タオルから覗く視界の中で、由紀さんの部屋着が見える。裾が揺れて、影がゆらゆらと揺れている。どうしてこんなに優しいのかな。落ち着いてきたはずの感情がまた波紋を立てる。感情がさっきから揺らされてばかりで、そんな優しさ一つでまた鼻の奥が痛くなる。

 空いた両手で、由紀さんを引き寄せる。冷たい濡れた感触の向こうから、じんわりと染み込んでくる暖かな温度。優しく染み込んできて、なんだかそれすらも由紀さんを感じる気がする。


「ルナ?」

「ごめんなさい、うまくいかなくって」


 誤魔化すことも忘れて甘えたくなる。だって由紀さんはそれを許してくれるから。由紀さんの服だって濡れちゃうのに、背中を撫でる優しい手つきが嬉しい。自分が濡れてしまう事より私の心配を優先してくれるのが嬉しい。だからきっと、好きになったんだ。私に押し付ける人じゃなくて、私を受け入れてくれる人だから。隙間が無くなる様にぎゅっと抱きしめると、タオル越しに後頭部を撫でられる。愛情にも感じられるその手つきで、さっきとは違う感情で胸が一杯になる。恋人だったらここで、甘いキスだって許されるのにな。


「落ち着いた?」

「んー……もう少し」


 あと少しだけ甘えたらちゃんと離れよう。甘えてもいいけど、そこに逃げるのはきっと違うから。シャワーを浴びてシャキッとしたら、また一緒にこの問題を考えてくれるかな。振り出しになった問題も、途中までは上手くいってたしもう一度押してみればまた変わるかもしれない。由紀さんがいると不思議と頑張れる気がしてくる。なんて、いきなりポジティブすぎるかな。

 

「甘えん坊な猫ね」

 

 そう言って、由紀さんが背中を撫でる。甘えん坊な、猫。

 こんなに好きは募るのに、由紀さんにとって私は出会った頃と同じ、猫なんだよなぁ。なんて、そんな当たり前のことを今更実感してしまうと、さっきの気分はしんなりと萎んでいく。本当に、感情がジェットコースターに乗ってるみたいに上下する。


「私ってまだ猫ですか」

「え?」


 こんなことを聞くなんて幼稚だな。飼い主だとか猫だとか、今まで散々そう言って戯れてきたのに。いざちょっと気に障ればこうして拗ねている。気に入らないとすぐに態度に出ている。私のこういうところって、もしかしてあの人たちにそっくりなのかな。

 押し寄せてくるモヤモヤを押し留める。今ここで由紀さんに拗ねるのはただの八つ当たりだから、こんなに優しくしてくれる人にすることじゃない。


「あはは、なんでもないです。 寒くなってきたのでシャワー浴びちゃいますね」

「ルナ」


 回した腕を離して、脱衣所に向かうはずだったのに体が引っ張られる。掴まれた手首、振りかえると由紀さんが不安そうにこちらを見つめている。特別鋭い訳じゃないけど、鈍い人では決してない。でも由紀さんに怒ってる訳じゃないから、そんな顔なんてしないでほしい。さっきの自分の幼稚な行動に、改めて嫌気がさす。


「色々あって気が立ってるみたいです。 由紀さんは何も悪くないので、本当に気にしないでください」

「その色々、後でちゃんと話してくれる?」


 まっすぐに見つめてくる瞳は、純粋な心配の色をしている気がする。由紀さんがこんな風に私を見てくれるなら、猫だってなんだっていいじゃん。そう自分に言い聞かせる。もっと先をと暴れだす心を諫める日々は、少しずつ苦痛を伴ってきている。

 ルナという響きが、干渉しすぎない距離感が、居心地が良かったはずなのに。猫じゃなくて、私として愛されたいなんて。


「あはは。 一緒に次の作戦、考えてくれます?」

「もちろん」


 こんな風に演技なんてしたくないのにな。でも、色々の中にこんな感情があるなんて知られてはいけないから仕方ないよね。はみ出さない。二度目があってはいけない。思いがぴったりと重なっていなくても、大切にしてもらえているだけ幸せだから。そうやって、また私は自分に言い聞かせる。

 あと何十回、何百回って繰り返していくのかもしれない。


「引き留めてごめん。 風邪ひくから早く温まって」

「はい」


 手首から彼女の手が離れていく。それだけで途端に体が冷たくて寒い。

 今日はやっぱり、とことんついていない日らしかった。

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