第37話:私は猫ですか


 深呼吸を一つして、玄関ドアをくぐる。

 お母さんには事前に連絡しているから、きっとリビングにでもいるだろう。私は先日の由紀さんとの会話を思い出しながら、自分用のスリッパを履いて中に進む。これは一種の交渉なんだから、あくまでも理解を示した態度が肝要なのだと、何度も何度も言われたっけ。


「ただい、ま……」


 リビングには、お父さんもいた。切れ長のするどい眼光が、私をまっすぐに睨む。たったのそれだけで、胸に不快感が募るから不思議だ。居てくれるだけで心が休まる人もいれば、居るだけで心が荒む人もいる。ざらりとした感情を、今日は会話をするために来たんだからと宥める。背筋を伸ばして、お母さんの前、私の定位置に座る。テーブルを家族で囲むのは、いつぶりだろう。


「ようやく帰ってきたか」

「……」


 帰ってきたわけじゃない、そんな言葉を喉で嚥下して追い返す。理解が大事。変なことを言う前に、我慢が利くうちに話し合いを終わらせてしまおう。まずは、相手の肯定から入ること。


「事務所の変更、やってみようかなって」


 そう言えば、二人の目が見開いた。今まで見たことが無いリアクションは好感触のように思う。台本に書かれた人物の感情を読み解くことは経験があるけど、こうやって実際に人の感情をどう動かすのかを考えながら言葉を紡ぐのは初めてだな。由紀さんってこんな事を考えながら言葉を発してるのかな。それはちょっとだけ、怖いかも。

 頭の隅で考えた事に笑いそうになって、口角に力を込める。油断は禁物だよね。このまま速攻でいこう。


「ようやく前を向いてくれたのね」


 胸を撫でおろしながら、お母さんが笑う。電話越しの声が嘘みたいに明るい。心の中でだけ舌を出しながら、その言葉に少しだけ笑って頷いてみる。後は、友人の家が大学が近くて勉強の為に友人の家の方が都合がいい事を伝えて、より一層励むことを宣言すれば、ミッションはクリア。

 それまでは表情を崩さず、演じ切る。


「そうか、それじゃ事務所には話を進めておこう」

「うん。 それでね、お父さん」


 予め用意したセリフをたどたどしく、今考えながら紡いでいるように話していく。私の改心にお母さんの表情はずっと明るい。お父さんも、大人しくじっと聞いているから、多分バレてないと思う。

 用意していた言葉は一度も遮られることなく伝えられ、少しの間沈黙が続く。


「その友人は、大丈夫なのか」

「え? あ、うん。 色々と迷惑かけちゃうかもしれないのも承知で……応援してくれるって、言ってくれてるよ」


 これは嘘じゃない。顎を撫でながら思案している姿に何か他の説得の言葉を考えていると、低いため息が響いた。お父さんが立ち上がって、写真立てを置いた棚を開け、一つの封筒を持って戻ってくる。白い封筒が開けられて、中から写真のようなものが出てくる。この会話の流れから、一体なんなんだろう。お父さんの手がそれを静かにテーブルに置く。

 そこには、私と由紀さんが映っていた。


「……は?」

「お前が変な男に捕まってるんじゃないかって心配だったんだ。 それで、少し知り合いに頼んで調べてもらったんだよ。 この人の家にいるんだろう?」


 タクシーで酔っ払った由紀さんが帰ってきた日の、しかもご丁寧に丁度頬にキスしてる写真ときた。知り合いだなんて言葉で包まず怪しいから探偵を雇いましたって言えばいいじゃん。こんな写真を撮るくらいべったり張り込ませてたんでしょ。ていうか心配ってなんだ、家族にこういうことする人の方がよっぽど信用できないし最低だし一緒に居たくない。

 瞼が引くつく。驚きや怒りを通り越して、呆れさえも感じる。


 揃いも揃って、心配ならなにしてもいいのかよ。


「っ」


 膝に置いた手で太ももを抓る。アドリブ、アドリブ。由紀さんの言葉を必死に言い聞かせる。正面からぶつかったって意味がない。こんな人たちに時間を割くのは意味がない。この場に必要な言葉は、由紀さんは大丈夫だという判断材料。この人になら娘を預けてもいいと思える情報を、嘘でも本当でもなんでもいいから言わなきゃいけないのに、頭に溢れてくるのは罵詈雑言ばかりで、一向に浮かんでこない。“他人にこんなことする人”より“家族にこんなことする人”の方がよっぽど信用できないんだよバーカ‼これは言っちゃまずい。 


「お父さん、あさひがせっかくもう一度頑張るって言ってるじゃないの」

「……」


 あと少し押せばしばらくは大丈夫なんだから。頭にぱんぱんに膨らんだ悪感情を、ゆっくりと自分の外側に置いていく。邪魔な感情は外に置く、演技の基本。もう一押し、信頼させるための情報を。


「正直、こんな軽薄な人に任せてもいいとは思えない」


 膨らんだ感情が、パチンと音を立てて弾けた。

 軽薄だとか、任せてもいいなんて、どの口が言ってるんだ。


「自分の娘に探偵雇っておきながら言うセリフ?」


 理性が押しとめる前に、言葉が出た。一度出ると、もう全然抑えがきかなくて次々と出てくる。本音は流暢に次いで出て、眉間の皴が深くなっていっても止まらない。何も知らないくせに由紀さんのことをバカにして、この人はどれだけ私を見下しているんだろう。


「この家に戻らなきゃいけないならもう役者はやらない」

「あさひ」

「どんだけ思い通りにすれば気が済むの? だったらもう私にそっくりなロボットでも伝手で作ってもらったらいいじゃん。 私なんかよりよっぽど従順だと思うよ!」


 テーブルに置いてあった写真を破く。一度、二度、三度。ばらばらになった写真を床に投げ捨てて椅子から立ち上がると、お母さんが慌てたように駆け寄ってきて、腕を掴まれる。歩み寄れさえしないなら、妥協点すら許さないなら、人と人の関係なんてどうやって繋いでいけるんだろう。あと何回こんな気持ちにさせられなきゃいけないんだろう。掴んだ腕を乱暴に振りほどくと、お父さんの罵声が飛んだ。


「いつまで我儘を言ってるんだ!」

「だから役者はやるって言ってるじゃん! 全部言う通りにしろって無茶苦茶言ってるのはそっちだよ」


 鼻の奥がツンとする。こんな無駄なことに感情なんて明け渡したくない。ぐっと力を込めて涙を堪えて玄関に向かって歩き出す。ああもう最悪だ。せっかく由紀さんが力を貸してくれたのに無駄にしちゃった。これからずっと、由紀さんに迷惑かけちゃうのかな。でも、由紀さんのことをバカにされるのは許せない。靴に足を突っ込んで、踵を踏んだまま家を飛び出す。

 どうして家族だからって、縁が切れないんだろう。どうして家族だからってこんな真似が許されるんだろう。


 大切にしてくれない人に、自分の時間なんて割かなくていい。由紀さんはそう言ってくれるのに、無理矢理繋がれた鎖が煩わしい。速足で歩いていると、中途半端に履いていた靴が脱げて躓く。そんな些細なこと一つが、我慢ならない位腹が立つ。


「なんなの、もう」

 

 脱げた靴を蹴り飛ばそうとして、取りに行くのは自分なのだと衝動を宥める。それでも収まらないイライラに、思わずしゃがみ込む。道路で靴脱げて蹲ってるとか、くそダサい。押し寄せる感情に全部が飲み込まれてしまいそうで頭を搔きむしると、その手に何かが当たる感触がした。

 俯いた顔を上げると、アスファルトに数個の染みみたいな模様。それが一つ二つと数を増やして、頭にもぽつりと降ってくる。


「あーー、もう!」


 悲劇のワンシーンでもあるまいし、タイミングよく雨なんて降ってくるな。脱げた靴を履きなおして、ちゃんとかかとまで靴に収めて走り出す。土砂降りになる前に帰らないと。そう思っている間にも雨脚は無情にも強くなっていく。

 何もかも上手くいかない、正真正銘の最悪の日だ。

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