第36話:踏み込む(2)


 長くなるかもとルナは笑って、コーヒーを淹れてくれた。二人並んでソファーに座ってしばらくの沈黙を置いて、ルナは少しずつ話し始める。

 

「両親は、簡単に言うと教育に熱心な人たちでした。 私は四歳の頃ブロードウェイのミュージカルに連れていかれたし、小学校に入る頃には芸能事務所に所属して、色んな習い事をしてました」

「芸能?」

「教育の方向が少し特殊というか、両親は役者を目指してましたし、私にもそうなってほしかったみたいです」


 ソファーに深く座り込みながらどこか遠くを見つめるルナの横顔は、いつかの過去を思い出しているように見える。「あさひ」と、ルナは自分の名前を呟いて、その後に息を吐き出す。


「あなたは私たちの眩しい希望なの。 そんなことをよく言われてました」


 その希望を、あさひという名前に込めたということだろうか。言葉だけをなぞれば、これを親の深い愛だと称賛する人もいるのかもしれない。私は、未だにどう捉えるべきか分からない。決して愛がないとは思わないけれど、その愛がルナに正しく伝わらなければ、意味は希薄なものになるのだろうとも思う。

 少なくとも、その愛をルナは愛だとは思っていない。それだけは私にも分かる。


「小さい頃は言われた通りに頑張って褒めてもらえて嬉しかったし楽しかったです。 でも、年月を重ねていくうちに少しずつ見えてくるものが増えてきました。 凡な才能に、私自身にはこの道を歩きたいという強い意志もない。 才能を持った友人と、劇団に通ってがむしゃらに頑張る友人を持ったから分かるんです。 この道には少なくともどちらかが必要だって。 でも私にはないし、手に入れたいとも思っていない。 そう気づいた時、私には進む道は見えなくなりました」


 ルナと両親の間にある問題が段々と見えてきた。ルナは生まれた時から、両親の夢を自身の名前に、未来に託されていたのだろう。その為に必要な物は惜しみなく与えられ、ルナは育った。そして自分というものが確立していく中で、親の託した道と自身の望みが違うことに気づいた。


「大学の進学先を決めるタイミングで、両親には伝えました。 でも、諦めることはない、まだ時間はある、出来る手助けはなんでもやる、返ってくる言葉はそればかりで、あー、私は今までなにやってたんだろうって」


 ルナがまた、困ったように笑う。

 実家から大学に通っていたということは、その道を進みたくないと思いつつも親の言う事を優先して過ごしてきたということ。つまり、私の差し伸べた選択肢が、ルナが初めて選んだ道なのかもしれないということ。ルナ、と呼ぶ度に嬉しそうにしていた事を思い出す。


 私には分からないことは多い。ルナのことをまだ全然知らないし、こういうことは両者からの意見を聞かなければ真相は見えてこないのが常だとも思っている。冷静に物事を見る理性は静かに状況を見つめようとしている。

 

 それでも。

 ソファーの上にあるルナの手に、そっと触れる。私よりも高い温度、長い指、奇麗に手入れされた爪。偶然だったとしても、この手を掴んで良かったと思う自分がいる。私がルナの力になれればいい。真相がどうだったとしても、私はきっとルナの味方をするのだと思う。そうしたいと思うから。


「ある夜です。 芸能事務所を変えてみないかと言われたんです。 環境が変わればチャンスが巡るかも、だったかな、なんかそんなような事を言われた気がします。 あはは、笑っちゃいますよね。 惨めすぎて、もう辞めたいって怒鳴っちゃったんですよね。 それで、頬をバチーン、と」

「……頬が腫れてたのは……」

「はい」


 ルナの手がゆっくりと私の手を握りしめる。確かめる様に、何処かに行ってしまわないよう様にぎゅっと握りしめる強さに、掴まれているのは手のひらなのに胸が苦しくなる。その痛みを分かち合えるのならと、ルナの手を握り返す。クスクスと漏れる息に視線を上げると、ルナがくすぐったそうに笑っていた。その表情に先ほどのような憂いは見えなくて、私は少しだけほっとする。

 きっと私は彼女の力になれている。そう言ってくれている気がする。


「後は由紀さんの知っての通り。 逃げ出した猫は女神さまに拾われて、穏やかで楽しい日々を過ごしていました」

「随分と平凡な女神ね」

「あはは。 ですが、そこにある知らせが悪魔から届くのです。 私たちが敷いたレールに戻りなさい、と」


 おとぎ話を語るように、ルナは言う。それがつまり、最近頻繁にかかってくる電話なのだろう。

 

 ひとつ、家に戻ること。

 ふたつ、役者の道を進むこと。

 

 知らせの内容を淡々と語る語り部は、これからどうすればいいのかわからないと、そう最後に呟いた。

 

「それが、今困っていること?」

「はい。 一度電話をかけ直したんですけど、全くもってダメダメでした」


 確かに話を聞く限り、会話が通じない相手という印象がある。それ程までに親御さんにとって大きな夢だった、ということだろうか。まあ理由がどうあれ、その道をルナが望まないのなら無理を強いるのは間違っている。だから少なくとも、私がルナの手を離すという選択肢はない。

 ルナを心配している、という事が理由だったのなら私から心配はないと説得する方法もあったかもしれないけれど、本題はそこではない。どこかしらで妥協点を探すというのが、一番現実味があるだろうか。

 

「ルナは、どっちを優先したい?」

「え?」

「お互いが少しずつ譲歩した場所を解決点に置いてみようかと思ってね。 例えば、役者の道を諦めることを許してくれるなら帰るとか、逆に役者は目指すから家には帰らないとか」

「……どっちかを諦めるってことですか?」

「これは、あくまで私の意見なのだけど……役者を目指す振りでもしておけばいいんじゃない?」


 驚いたように目を丸める猫から、逃げるように視線を逸らす。

 悪い大人の意見を言うのは大変忍びないけれど、こういうものに真っ向から向き合うのはほとほと疲れるのだ。少なくともこういう面倒事は悉く逃げてきたから、こういうアドバイスしか出来ない。心を砕いて説得し続ければあるいは上手くいくのかもしれないけれど、現にその方法でルナがすり減っているというのなら、卑怯だろうが悪かろうがどうでもいい。


「由紀さんの今までっていつか話してくれます?」

「別にそんなに悪い道を進んできたわけじゃないから」


 打算的なのは否定しないけれど、効率がいいのも確かだ。


「あなたをちゃんと見てくれない人に、あなたの時間を割いてほしくないだけ」

「……あはは」


 大きな目が細まって、口角が奇麗に上がる。ルナに似合う笑顔だ。どんな時間を過ごしてきたのかは知らないけれど、この笑顔だけは演技ではなく心からのものだと信じている。ルナの知らない部分は多いけれど、知っていることだってきっとそれなりにはあるはずだ。本当は人懐っこい事、良く笑う事、朝は早いし、朝からよく食べるし、私よりも体温が高い。そして、私と一緒にいることを、きっと望んでくれている。


「近くにお手本になる大人がいて良かったなー」

「お勧めはしてないから。 何事にも真っすぐに向き合えるのはとても凄いことだから、簡単に捨てないで」

「んー……さっきと矛盾してません?」

「これは恒常的な話。 さっきのは限定的な話」

「あはは、大人って感じですね」


 ゆっくりと、ルナがこちらに寄りかかる。頭と頭が触れて、すぐ近くにルナの顔がある。横を向けば、私の鼻が彼女の頬に触れてしまいそう。少し久しぶりの温度に、思い出したかのように鼓動が早くなっていく。握られた手も、触れる髪の柔らかさも、近くで香るルナの匂いも、少しだけあの夜を思い出す様に体が震える。本当に、手放し難い。


「私としては、ルナがこの家にいてくれることを優先してくれると嬉しいのだけど」

「……こういう時に、そういう事言います?」


 頭に触れた重みが無くなって、黒の双眼が私を覗き込む。息を殺さなければいけない程の近さで見つめられると、更にあの夜を想起してしまう。いや、これは。うるさい心臓に、離すことの出来ない視線、脈打つ体に、熱くなっていく。

 もしかして、望んでいるのだろうか、私は。


「我慢ってどれくらい体に毒なんでしょうか」

「へ?」

「なんでもないです」


 離れていったルナは、大げさにため息を吐いた。ドクドクと煩い心臓に胸を撫でる。キス、するかと思った。されたいと、思った?

 いや、きっとまだ熱が残っているのだろう。目を瞑って、息を吸い込んで、吐き出す。混乱していると感情はよく錯綜する。今回もそれに決まっている。ルナは大切な存在だけれど、そんな場所にいる訳じゃない。ゆっくりと目を開ければ、ソファーに座ってコーヒーを飲むルナがいる。

 大丈夫、何も変わっていない。


「確かに役者が嫌いな訳じゃないですし、他に絶対にやりたいことがある訳でもない。 両親は私が役者を目指してることを何よりも望んでいます。 だから、由紀さんの案は結構いける気がします」

「そ、そう?」

「どれくらいの間通用するかはわかりませんけど、その間にどうしたらいいか、どうしたいか、もっと考えてみます」


 そう言って笑うルナに、場違いにも心臓が跳ねる。私はその事実を誤魔化す様に、冷めたコーヒーに手を伸ばした。

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