ルナ
第40話:この感情の定義について
いつもよりさらに熱い手のひらが、私に熱を渡すように強く握っている。
瞳が私を真っ直ぐに見ていて、その言葉は決して熱にうなされて出た譫言ではないことがわかる。
ルナの言葉は、揶揄ってるわけでも熱に浮かされた妄言でもなく、本当の言葉だ。
その言葉に、私はなんと返せばいいのだろう。
そもそも好きって、一体なんなのだろう。
その言葉を言われたことは何度かある。軽薄に言われたこともあるし、切実に言われたこともある。その言葉に対して、私はただ相手の形に合わせてなんとなく享受してきた。本当の意味すら理解できないまま受け取れば、それはいつしか消えて、相手は去っていった。去っていった事に少しの寂しさを覚えたとて、それで終わりだった。
「無言は、ちょっとメンタルがおかしくなりそうですね」
「いや……なんて返すべきか分からなくて」
「べき、ですか」
しまった、と思った時にはもう遅い。真っ直ぐに見つめていた目が逸れて、熱い手のひらが離れていく。好きと言ってくれた人は誰一人として、隣に居続けてはくれなかった。
「分からないの」
離れた手を追いかける。握った手首に、思考を巡らせる。勘違いして欲しくない。ルナの言葉に困っている訳でも、ましてや傷つけずに断る言葉を探している訳でも無いのだ。私とルナの気持ちはピッタリと重なってはいなくとも、決して遠くはないはずだし、少なくともルナの気持ちを受け取る事にはなんの抵抗もない。キスも、体を重ねる事だってしているし、多分素面でも出来る。
私が今一番恐れているのは、ルナがいなくなってしまう事だ。
「そもそも、好きがなんなのか私はよく分かってない。 ルナは大事な人よ。 ルナが望むならなんだって応えたいと思う。 でも、それが正解なのか分からない」
私の応え方は、恐らく間違っているから。だから最後は皆んな悲しそうに去っていく。ルナに去られてしまうのは嫌だ。つまり、今まで通りただ受け入れるだけではきっとダメなのだ。
「……今まで好きになったことないんです?」
「食や趣味に限らず、何かを好きという感情にあまりピンときたことがないの」
「……ああ、だからか」
好きな食べ物や、欲しいもの、何かと聞いてきた時期があったから、ルナには心当たりがあるのだろう。
「だから、ピンときてないままルナの気持ちに応えてルナを傷つけたくない。 でも、ルナにはここにいて欲しい。 私は、あなたがいなくなることだけは嫌なの」
ルナに隣にいて欲しい。そして出来れば、居心地良く伸び伸びと笑っていてほしい。屈託なく、大きな瞳を細めて笑っていて欲しい。そのためなら、出来ることがあるのならしてあげたい。悩んでいることがあるのなら助けになりたいし、好きだというのなら応えたい。
でも好きの応え方が分からない。そんなものを教わらずに大人になってしまった。
「じゃあ……私の気持ち、嫌じゃないです?」
俯いてしまえば、ルナの表情を知ることはもう出来ない。それでも、もう一度私の手を掴むルナの両手が気持ちを伝えてくれている気がする。不思議と、嫌だとは微塵も思わない。出来ることなら応えてあげたい。ルナが喜んでくれる方法で、応えてあげられるようになりたい。
「嫌じゃない。 さっきも言ったようにルナが望むものがあるなら、それに応えたいと思う」
ゆっくりと顔を上げたルナが、そのまま倒れ込むようにこちらに体重を預けてきた。肩口に触れるルナの頬に、鎖骨辺りにあたる息が熱い。風邪を引いた子に、こんなに長時間話し込ませてきっと無理をさせてしまったのだろう。
「ごめんルナ、きついでしょう? 話は一旦置いておいて今は寝た方が」
「あはは。 そうじゃなくて、ほっとしたっていうか」
かすかに笑って揺れる振動が伝わってくる。体が辛くなったという訳ではないらしい。何度か場所を調整するように動いた後に、ルナは私の膝に頭を乗せて横になった。少し懐かしい感覚がする。けれどルナの気持ちを知っていると以前よりも落ち着かない。頭を撫でていいのかさえ分からない。そうやって宙に浮いた手をルナがまたそっと握ってくれると、なんだか安心してしまう。その手を握り返すと、私を見上げる顔が緩まって、そんな日々が続いてほしいと思う。
彼女に応えたい。彼女の気持ちに、応えてあげたい。
そんな風に思った事は今まであっただろうか。一緒に居て楽しい、居心地がいい、だから断る理由がなかった。今までのは全部そんなものだった気がする。去る前から去ってしまうかもしれない日を恐れることなんてなかった気がする。こんな風にかけがえのない存在だと思ったことは無かった。
「ねぇ由紀さん」
「なに?」
「キスしてください」
え。
その言葉に嫌が応もなく心臓が跳ねる。なんでも応えたいと言った手前嫌だとは言えないし。嫌かと言われると、そうでもない。けれど、本当にしていいのだろうか。けれど、彼女は私を好きだと言うのならしてもいいのかもしれない。けれど。けれど。
絡まる思考は、いつだって正解を見いだせない。私の頭はいつのまにこんなに馬鹿になってしまったのだろう。のらりくらりと正解と思う道を適当に選べていたはずなのに、ルナ相手だと一向に分からない。
「いいのね?」
「あはは。 デジャヴだ」
いいですよ、という声に自然と引き寄せられるようだった。どうするのが一番いいのかは分からない。でもそれはきっと、それだけルナが大切だからだ。適当ではいけない存在だから、きっとこんなに頭を悩ませている。
落ちてきた髪を耳にかけて、そっと唇に触れる。相変わらず熱くて、いつもより少し乾燥している。ゆっくりと感触を確かめるように触れて、そっと離す。私もきっと明日には風邪を引いていることだろう。そんなことは、些細な事だけれど。
ゆっくりと目を開けると、長いまつ毛が見える。ゆっくりと瞼が持ち上がって、瞳が私を映す。心臓が随分と早い。それに、不思議と離れがたい。もう一度角度を変えて触れると、自分の体温が上がるように熱い。どうにも止まらなくなってしまいそうで、ゆっくりと離す。
「二回とは、言ってないです」
「……ごめん、つい」
ルナの視線が逸れて、その言葉が照れ隠しなのだとすぐに分かる。どうやら、キスされたいと思ったあの日も勘違いなどでは無かったらしい。ルナの視線や仕草一つに、引き寄せられるような心地になる。拗ねたルナの頬にもう一度キスをすれば、ルナの手が私のおでこを押すから、渋々離れた。
「由紀さんって、私の事、その……離れがたくて、隣に居てほしくて、どんなことにも応えたいって思ってるんですよね」
「改めてそう言われると恥ずかしいけど……そうね、そうだと思う」
きっと何よりも大切だと思う。ルナの言葉に心の中でそう付け足す。
「今、ドキドキしてます?」
「……多少は」
「……それって、」
開いた口が、もごもごとした後に閉じる。何を言いかけたか聞けば、なんでもないと返ってきてしまう。なんでもなくは、無かったのだと思うけれど、じっと見つめてもクスクスと笑うだけで一向に答えは聞けそうにない。
「こればっかりは自分で気づいてほしいので」
ルナにはもう答える気はないらしい。それでも今日一番のご機嫌そうな表情をしているから、とりあえずはいいのだろうか。繋いでいない方の手で、そっと前髪に触れる。目にかからない様に流してから、頭を撫でてみる。気持ちよさそうに目を細める姿は、やっぱり猫みたいだなと思う。穏やかな時間がずっと続いていけばいい。ずっと、こんな風にルナと過ごしていきたい。
ずっと、隣に居てほしい。
「由紀さん」
「ん?」
「私は由紀さんが好きです。 だから由紀さんが私の事を大切にしてくれてるのが嬉しいし、由紀さんの隣にいれるのが嬉しい。 だから、これからも隣にいてください」
ああ、こんなに気持ちが重なることがあるのか。
まっすぐな瞳も、つないだ手も、伝わってくる熱も何もかもが、共有しているかのような幸福を感じる。人の言葉で、こんなにも満たされるのは初めてかもしれない。ルナの手を強く握り返す。どうか私の気持ちも伝わっていますように、そう願って。
「もちろん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます