第34話:迷子(2)


 口元を拭いながら一生懸命に息を整える由紀さんを見ているだけで、押さえられない熱が奥底から湧き上がってくる。謝るのは由紀さんの方じゃなくて、こんな気持ちを抱えている私の方だ。由紀さんはお酒で過ちを犯したのかもしれないけど、それを拒絶しなかったのも、むしろ利用したのも、私だ。


 でも、それを素直に言うことは出来ない。それを言うことは、私の由紀さんへの気持ちを言う事に等しいから。

 私はずるいから、自身の気持ちを言えばこの関係が終わってしまうかもしれないのなら言わない。例えそれが由紀さんの昨夜への罪悪感を拭う言葉になるかもしれなくても、自分を優先してしまう。

 

 だからせめて、他の方法で由紀さんの罪悪感を少しでも減らしたい。謝らなくていいって伝えたい。


「落ち着きました?」

「……落ち着くと思う?」


 声に混乱の色が見えるくらい動揺している由紀さんを見るのは珍しい気がする。いつもはあまり表情を見せない瞳も、少し苦しげに見えてしまって、その声や表情が否が応でも昨夜を思い出させる。言葉は抑えられても、欲が抑えきれない。一度知ってしまった気持ちよさをもう一度手に入れたいと、私の体を乗っ取ろうとする。

 

「由紀さん」

「え、ちょっと」


 口元を押さえていた手を取って引っ張る。私よりも随分と軽くて、細い体。呼吸の度に肋骨の影が見えていて、その影をなぞれば細い腰がしなったのを覚えている。その腰を引き寄せて、ベッドの中に由紀さんを引き込む。いつもと全然違う、焦りを孕んだ声色が少し面白い。由紀さんが暴れると布団がめくれて少しだけ寒い。


「ねぇルナ、やっぱり怒ってるの?」

「言ったじゃないですか、おあいこですって」


 由紀さんを抱きしめて、布団を被る。腕の中で由紀さんが次第に大人しくなっていくのを感じながら、せり上がってくる熱を必死に抑え込む。昨日はお酒を言い訳に出来たけど、今は違う。今私が由紀さんに覆いかぶさるのは、私の感情を打ち明けるのと同じだ。拒絶されたら一貫の終わり。


 ぐっすりと眠る由紀さんの寝顔を眺めながら、これからどうすればここにいることが許されるのかって、ずっと考えてた。泣きそうな顔でごめんって謝られるまで、ずっとどうしたらいいか考えてた。本当は、もう全然寝てないんですよ、私。

 

 少しだけ距離を取って、由紀さんを見つめる。この距離だったら、多分大丈夫。


「由紀さんこそ、怒ってないです?」

「え?」

「由紀さんは酔ってて正常な判断が出来る状態じゃなかったのに、どうして止めてくれなかったんだって」


 本当は怖かった。昨夜の出来事で、由紀さんにもうここに来るなって言われるんじゃないかって。そう思うと、由紀さんが起きたと分かっても瞑った目を開けられなかった。

 

「それで私が怒ったら、責任転嫁にも程があるでしょ」

「そうなんでしょうか……送り狼がいたとして、送り狼が悪いって思いますけど」

「それは、そっちにもそういう意思があるなら非があるかもしれないけど、ルナは違うじゃない」

「おー……」


 少なくとも私の気持ちは露ほども伝わってはいないらしい。それはそれで、結構悲しいような寂しいような気もする。でもだからこそ、私は今許されているんだよね。この感情が認識されていないからこそ私の非は明るみに出ない。私の感情は色々な部分で邪魔らしい。その事実が、胸をチクリと刺す。


「由紀さんはあくまでも全部自分が悪いって言うんですね」

「事実そうだから」

「じゃあ私もこれだけは言っておきます。 私は怒ってないですし、さっきも言った通り全部許します。 だから、ここに居させてください」


 もう絶対に、間違わない。

 縋りつくみたいに、由紀さんに抱き着く。トクトクと早い心臓の音が聞こえるだけで、期待するように血液が早く巡る。私がくっつくことで由紀さんがドキドキしてくれていたら嬉しい。でも、だからといって私はもう、手を伸ばさない。絶対に、もうそんな危ないことしない。


「ルナ」

「……由紀さん?」


 後頭部を撫でる、優しい手つき。抱きしめ返されると、熱が溢れそうになる。思いが溢れそうになる。我慢って苦しい。さっき決めたばかりの決意が簡単に揺らぐのが情けない。ずっと隣に居たいのに、隣にいると苦しい。


「お願い、ここにいて」


 由紀さんの腕の力が強くなったのが分かる。切羽詰まるような懇願のようにも聞こえるその言葉は、最上級の言葉なはずなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。回した腕に力を込める。柔らかな体、太ももに触れる地肌がくすぐられるようで落ち着かない。

 どうして、なんて、分かりきってる。


 これだけ近づいても、私と由紀さんの気持ちは交差すらしない。

 それが、こんなにも苦しいんだ。

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