≠猫
第33話:迷子
寒い。
その感覚に目を覚ますと、頭が鋭く痛んだ。頭を押さえながら寝返りを打つ。
うっすらと明るい部屋の中で締め付けるような痛みに耐えながら、ふと自分がベッドで寝ていることに気づく。けれど、いつベッドにたどり着いたのか覚えていない。靄がかかったように思い出せない時間に、嫌な予感がする。
大きな仕事が一段落着いたのも、最近全然来てくれないと後輩にせっつかれたのもあって、少しだけ顔を出そうと思ったまでは悪くなかったはずだけれど、チーム長にお酒を注がれて断れなかったのはまずかった。そこからは入れ替わりに人が来て、とにかくたくさん話をした。ルナの言葉を何度も何度も反芻して、このままではまずいと優の隣に逃げ込んだけれど、どうやら手遅れだったらしい。
そこからの記憶が継ぎ接ぎされたように断片的になっている。
寒い。
もう夏と言ってもいい季節なのにどうしてだろう。シーツを捲り上げると、違和感が体に走った。布が直接触れているような感覚がして、見てみると服を着ていない。着ていない?
起き上がると、ベッドの傍に服が落ちている。それを見て、服を脱いだ瞬間が断片的な映像で思い出されて口元を押さえた。何かの間違いか、夢か、にわかには信じがたい。けれど、一度だけ同じ経験が過去にあった。心臓がうるさく音を立てる。信じたくはない、けれど頭の中に断片的な映像が次々に浮かび上がってくる。夢にしては繊細で生々しく、温度や柔らかさ、声まで脳に焼き付いている。
酷い動悸の中、ゆっくりと隣を見る。お願いだから、いつものように服を着て、いつものように寝ていて。
「……」
シーツから覗く肩も背中も、美しくそこにあった。規則正しく呼吸を繰り返すその姿を見ながら、鳥肌が立った。このまま二日酔いで消えて無くなることはできないだろうか。いっそ出頭でもするか。
痛みが酷くなってきた。鎮痛剤をとりあえず飲みたい。それどころでは無いのは分かっているが、思考が鈍って進まない。
床に散らばる服は昨日着ていた服。ルナを起こさないようにゆっくりとベッドを降りて、とりあえずTシャツを棚から引っ張り出して寝室を抜け出す。玄関とリビングをつなぐドアが開きっぱなしになっている。
『背中痛いです?』
そう言ってフローリングから起こしてくれたルナの姿が頭にフラッシュバックして心臓が跳ねる。どうしてルナは、あんなに優しく触れてくれたんだろう。いや、そうじゃない。
頭を押さえる。鎮痛剤を取り出して、グラスに水を注いで飲み込む。自分でも笑える位、分かりやすく混乱している。この歳になって、こんなことで、こんなにも動揺するとは。もう一杯水を飲み干して、息を吐く。
空になったグラスを見つめる。ズキズキと頭が痛む中で必死に状況を整理していく。思い出した断片を時系列順に並べて繋ぎ合わせていく。玄関でキスをした事も、ルナの服を脱がしたのも、ベッドに移動して触れられたのも、夢や幻覚ではない音や温度、感触が体や頭に深く残っている。
「立派なクズね、私も」
思わず自嘲する。けれど、そうしたところで現実はどうやら変わってはくれないらしい。寝室のドアを呆然と見つめる。
さて、どうするか。
いや、ルナはどうしたいだろうか。怒っているだろうか。もうここには居たくはないかもしれないし、前のように許してくれるかもしれない。いや、流石に無理か。心安らぐ場所でないのなら、ここにいる意味もない。
ここから、ルナがいなくなる。部屋を見渡せば、ルナが持ってきたクッションに、新しく買った棚、テーブルのティッシュケースも、至る所にルナの存在を感じる。この場所から、ルナがいなくなる。私がバカなことをしたばかりに、ルナを失う。
そう気づいた瞬間、胸が苦しくなった。握り潰されているかのような痛みに、呼吸がし辛くなった。台に手をつきながら、ゆっくりと呼吸する。人生、一度くらいはやり直しがきけばいいのに。そうしたら、昨夜をやり直して、ルナにずっとこの場所でくつろいでもらうことが出来るのに。それはもうきっと、出来なくなってしまうのだろう。
「……ごめん、ルナ……」
謝ったところで、到底許されることじゃないのは分かっている。寝室に戻って、ベッドの前にしゃがみ込む。先ほどよりも強く差し込む光が、部屋をぼんやりと照らして、ルナの寝顔を映し出す。その寝顔を見つめながら、もう一度同じ言葉を呟く。最悪なことをした。それなのに、どうにかして許されたいと願っている。隣に居てほしいと、浅ましくも思い続けてしまう。そんな自分に呆れて項垂れる。
ルナがこんなに大切な存在になっているだなんて、全然認識できていなかった。
「……由紀さん?」
「っ」
掠れた様な声に視線を上げると、ルナの目が私を捉えていた。その声が後何度私を呼ぶのかなんて考えて、また胸が痛くなる。
「どうしました?」
「あの……私」
どう言葉を尽くしても、償える気がしない。まだ鈍く痛む頭を必死に働かせたとして、月並みな言葉でしか謝罪は出来ず、そして月並みな言葉では到底許されない。まっすぐに見つめてくる瞳から、逃げるように視線を下げる。
その時、そっと頬に何かが触れた。私よりも高い体温が、壊れ物に触れるみたいに、慎重に頬を撫でる。昨日みたいに優しい手つきに、怒りや嫌悪の感情は感じない。ゆっくりと視線を上げると、微睡の中確かに笑うルナがいた。
「泣きそうな顔なんてしないでください」
「で、でも」
「酷いことしたって?」
「……うん」
「いいですよ、由紀さんなら」
信じられない言葉に、耳を疑った。どんな言葉を尽くしても許される訳が無いのに。それどころか、私はまだまともに謝罪すらしていないのだ、許されていい訳がない。きっと幻聴だ。そう思うのに、目の前の表情があまりにも柔らかくて、穏やかで、思考がぐちゃぐちゃにかき回されていく。
「私は、由紀さんになら何されてもいいですよ」
「……ダメに決まってるでしょ」
そんなの、ダメに決まっている。確かに困っているところを私が助けたのかもしれないけれど、それとこれを繋げるのは違う。私が恩人だからといって、私がルナに何でもしていい理由にはならない。なってはいけない。
「由紀さん」
ルナの手が頬を撫でる。滑って、耳に触れて、首へと流れていく。まるで昨日の夜を思い出させるような触れ方に、喉奥がぐっと締まる。項に触れた手が、ゆっくりと私を引き寄せる。まん丸の瞳が、獲物を狙うようにまっすぐにこちらを見据えている。逃げるという選択肢は、選べない。
「っ」
唇が触れた瞬間に、昨日の夜の熱がぶり返す様に体に広がっていく。こんがらがった思考全てを焼き尽くす様にそれは燃え広がって、思わず舌に応えるように薄く口を開く。息継ぎの合間に熱が注ぎ込まれていく。水音が口内で響くと、痺れるような快楽が脊髄を走っていく。
「っ、はぁ……はぁ……」
「これでおあいこ」
頭が回らない。体中を駆け巡る熱が外に出てしまわない様に、ただ息を整えることしかできない。
無理やり過ぎるでしょ、何とか出てきたその言葉に、ルナはまた優しく笑うだけだった。
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