第32話:進みたい場所(2)
『今日遅くなる。 ご飯は外で食べます』
そう書かれた文面を眺め続ける。
二時間程前に送られてきた文面には、わかりましたという一文とスタンプで既に返信をしている。それらには既読がついているけど、それだけ。
仕事が忙しいのか、何かの付き合いがあるのかは分からないけど、この部屋に一人でいるのは随分と久しぶりな気がする。先月に一度出かけていたけど、その時は私も外に出てたから、じっと由紀さんを待っているのは初めてかもしれない。
ソファーに寝転がってみても、お風呂に入ってみても、なんだか落ち着かない。なんとか時間をやり過ごしては、この携帯の画面を開いてしまう。
重症らしい。
好きな人と一緒に過ごすと、楽しいというよりは沼に落ちていくみたいだ。いや、楽しさももちろんあるけど、落ちていくほど由紀さんのことで頭が一杯になる。我慢が難しくなっている。
早く、帰ってきてほしい。
そんな風に思いながら携帯を眺めていると、スマホが不意に振動を始めて、画面には今一番考えたくない人の名前が表示される。通話に出ようかとも思うけど、どうにも手が動かない。しばらくの間眺めて、結局それをテーブルに置く。帰る気はない意思表示を伝え続けるとして、その後どうするのが正解なのかは未だに思いつかない。
一度振動を止めたスマホが、また震え始めた。私は寝返りを打って、健気に連絡を伝えようとしているスマホを眺める。そして、不意にそのスマホに表示されている名前に気づく。
「え、由紀さん」
飛び起きて携帯を掴む。そこには先程とは違う名前、由紀さんの名前が表示されていた。慌てて緑の受話器のボタンを押して耳に当てる。
「もしもし、由紀さん?」
『あー……すみません、由紀の友達なんですけど、ルナさんですか?」
「え、あー。 はい……えっと……?」
機械越しの音だから声が違う訳じゃない。電話の向こうにいる人は、由紀さんじゃなかった。どういうことだろうと耳を傾けると、どうやら由紀さんが酔っ払って寝てしまったのだという。私は思わず顔を手で覆う。この人は寝てしまった由紀さんを家に送るために由紀さんの家の場所を聞こうとしたところ、私の名前が出てきたのだと説明した。
大体の出来事を理解した頃には、私はそれはもう地の底まで落ちてぺちゃんこになっていた。
「今から住所送るので。 はい、マンションの下で待ってます。 はい、すみません」
人間っていうものはどうしてこう愚かなんだろう。反省してると言ったことを繰り返すなんて。しかも友達と飲みに行っている時に。私がいない場所でも平然とああなっているなんて、ムカつく。
近くになったらまた連絡をすると言われたけど、居ても立っても居られなかった。その場に何人いたかなんて知らないし、どれくらい酔ってるのか、酔っぱらってどんな事を仕出かしたかなんて何も知らないけど、最悪な状況はいくらでも想像できた。上着を羽織って家を出る。電話の内容を反芻して、由紀さんが酔っ払って色んな人に絡んでいる姿を想像しているとどんどんお腹の辺りがぐるぐるしてくる。
私の前以外では飲まないでって、言ったのに。私の前ではお酒を控えて、外で飲むとか最悪。
外に出ると、もうほとんど夏のような湿気た生ぬるい風が足を撫でる。その居酒屋からここまではどれくらいかかるのかな。その間に、その友人に変なことしてないかな。私以外にキスなんかしないでほしい、お願いだから。
腹立たしいのに、悲しい。勝手に嫉妬して、そのくせ勝手に期待してたぶんだけ落胆してる。身勝手な感情なのは分かっていても、抑えられそうにもない。
見知らぬ車のライトに視線を映しては、その車が過ぎ去っていく。それをもう五回は繰り返した頃、駅の方からまた一台、車が近づいてくる。車の上にタクシーだと分かる行灯が見えて、私は一歩道路へ出る。ゆっくりと走行するタクシーが近づいてきた頃、手に持っていたスマホが震えてすぐに電話に出た。
「もしもし」
『お疲れ様です。 もう少しで着くみたいなんですけど、って、あれ。 もう出てらっしゃいますか?』
「はい」
目の前でタクシーが止まると、助手席の窓が開いて、電話の相手が私に会釈をする。スマホをポケットに仕舞いながら後部座席を見ると、なんとも穏やかな顔で寝ている由紀さんがいた。私はまた助手席へと視線を戻して頭を下げる。
「あの、わざわざすみません」
「いえいえ、久々に職場の飲み会にきたから色々な人に絡まれちゃって。 彼女人気者だから」
人気者。途端に興味をそそる話題に喉が鳴る。職場での様子なんて由紀さんからは話してくれないし、そもそも由紀さんは自分の話はほとんどしてくれない。同じ職場で友人と名乗るなら、どんな風に過ごしているのか彼女は知ってるんだよね。知りたいけど、もう夜も遅くてこれ以上彼女を引き留めるわけにもいかないし、いつ由紀さんが起きてとんでもないことを仕出かすか分からない。
喉元までせり上がる興味をなんとか飲み下して、代わりにお礼を言う。財布から今持っている全部のお札を差し出すと、由紀さん自身からしっかり受け取ると断られてしまった。幾らでも持って行ってくださいと言えば、彼女は楽しそうに笑ってくれる。
もう一度お礼を言って、後部座席のドアを開けて由紀さんの肩を揺らす。彼女がバックミラー越しに視線を寄こしながら手伝おうかと提案するけど、触れてほしくなくて断った。
寝ぼけた酔っ払いの由紀さんなら、もう経験済みだしなんとかできる。
「由紀さん、起きて」
「ん……るな……?」
寝ぼけた甘ったるい声。ぼうっとした表情は何を考えているか分からないけど、とにかく今は家に連れて帰らないと。両手を掴んで、タクシーの外へと引っ張る。
「お家帰りますよ」
「なんでここに?」
「はいはい、それも後にしてください」
タクシーから降りた由紀さんの足取りは予想通り覚束なくて、私は由紀さんの腰に手を回す。由紀さんは遠慮なんて知らないみたいに私に全体重を乗せるから重たくて仕方ないのに、この役割が私に回ってきていることは嬉しい。
「ルナ」
由紀さんの両腕が首に巻き付いて、耳元で名前を呼ばれる。跳ね上がった心臓を更に驚かせるように、由紀さんの唇が頬に触れて堪らず夜の道で叫び声を短く上げる。
「ちょ、っと、由紀さん!」
「んー……」
「あー……その癖まだあったんだ」
助手席で私たちを眺めていたその人が、楽しげに笑っていた。まだ、という言葉が引っかかって、由紀さんの頭を引きはがしながら視線で続きを求めると、彼女は何かを懐かしむみたいに頬を緩ませる。
「由紀と同期なんだけどね。 一年目にお世話になってた上司の送別会だったかな。 その懐いてた上司に今みたいにくっついてたなーって。 でもそれからは見なかったし、今日も大人しかったからその癖なくなったと思ってた」
「今日はなかったんですか?」
「色んな人に絡まれて隣に逃げてきてからは、うとうとしてたくらいかな」
この人が今嘘を吐く意味はないだろうから、きっとこの言葉通りなんだと思う。そう考えると、少なくとも誰にでもこうなる訳じゃなくて、心を許している相手にしかしないってことなのかな。でも目の前のこの人は友人って言うくらいには仲がいいはずだし、心を許しているからってこうなる訳じゃないってこと?
「あの、」
「一緒に住んでる辺りも気になるんだけど、また今度の機会に」
「あ、そうですね……すみません、引き留めちゃって」
「ううん。 由紀のこと宜しくね」
「はい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
由紀さんを掴んで、一歩下がる。窓が閉まって、向こうから手を振られるから会釈で返す。ゆっくりと発進し遠ざかっていくタクシーを見送る。情報が津波のように押し寄せていた気がする。今になって、懐いていた上司の話なんかもすごい気になる。
でも、それよりも。
隣でうとうとと頭を揺らしている由紀さんを見つめる。酔うとキス魔になるとは言っていたけど、本当は少し違うのかもしれない。由紀さんは自覚がないのかもしれないけど、特定の条件が由紀さんの中にはあって。懐いている、心を許している、甘えられる、どういう条件なのかは分からないけど、少なくとも悪いものではない気がする。むしろ、好意的な条件のような。
「……期待しそう」
さっきまでイライラして落ち込んでたのに、今は少し、いやかなり浮かれている。本当に、私はもう由紀さんに操られている。私に頼り切って目を瞑るのだって、前はもう少しムカついてたはずなのに、今は普通に嬉しい。私が由紀さんに操られてるように、由紀さんも私がいないと困る様になっちゃえばいいのに。
揺れていた頭が私の肩に置かれて、器用に眠りに着こうとしている由紀さんを見て苦笑する。今はとりあえず。
「帰りますよ、由紀さん」
「ん」
腰をしっかり支えて、マンションの中に入る。エレベーターに乗り込んだ頃、由紀さんの腕が私をぎゅっと抱きしめた。体にかかる由紀さんの重みに、シャツ一枚下の腰の細さを改めて認識してしまうと、さっきされた頬の感触を思い出して、体を流れる血流が熱く早くなっていくのを自覚する。流石に酔っ払いにお手付きするのはダメだと自分に言い聞かせる。邪な心を頭を振って振り払いながら玄関のドアを開ける。
「おかえりなさい、由紀さん」
腰に添えた手で何度か軽く叩くと、沈んでいた頭が持ち上がってその眠たげな眼がぼうっと前を見つめている。サンダルを脱いで、由紀さんを座らせてからヒールを脱がす。手首も細ければ、足首も細い。この前は、ここに放り出したんだっけ。
お酒の席でちゃんと出来たご褒美に、今日はちゃんと着替えさせてベッドまで運んであげよう。
「立ちますよ」
由紀さんの両手を取った、その時だった。
思いがけず手を引かれて、重心がずれる。倒れ込むように由紀さんに突っ込むと、待っていたかのように由紀さんの腕が首に巻き付いた。耳元で、由紀さんの声が私の名前を呼んで、眩暈がするくらいに血流が早くなる。まずい、酔っ払った由紀さんにキスでもされたら次は我慢できるかわからない。
由紀さんの肩を掴んで引きはがすと、目の前に由紀さんの顔が見えて、焦げ茶色の丸い瞳が重たげな瞼に少し隠れながら私を見上げている。頭がくらくらする。そんな煽情的な目で見ないでほしい、私の名前をそんなに甘く呼ばないでほしい。首に回った腕、由紀さんの手が撫でるように頭を滑る。理性の壁があっけなく崩壊していく音がする。
ゆっくりと近づく距離に、由紀さんの息が触れる。お酒臭い。酔っ払ってる。そんなの分かってるけど、それでもいい。
触れる唇が柔らかい。心臓が破れそう。頭を撫でる手のひらも、触れている唇も、気持ちいい。離れた唇を追いかけると、受け入れるみたいに、隙間を無くすみたいに角度を変えて触れてくれる。由紀さんの手が、掠めるように耳に触れると、背筋が震えるような痺れが響く。
「っ」
漏れた吐息の隙間に、舌が差し込まれる。お酒の味がする柔らかさは、由紀さんのとは思えない位に熱い。息も、舌も、全部が触れてくる。頭の片隅で、なけなしの理性が叫び声をあげている。我慢、しなきゃいけなかったのにな。回した腕で背中をなぞると、由紀さんの体がピクリと跳ねる。もうそれだけで、私の体はおかしくなっていく。
我慢は結構したと思う。今まで何度も何度も、触れたくても我慢した。それなのに先に触れたのは由紀さんだし、酔っ払って帰ってきたのも由紀さんだ。
そんな言い訳をいくつも用意しながら、ゆっくりと由紀さんに覆いかぶさる。頬を撫でる由紀さんの手は、いつもよりずっと熱い。頬を撫でて、誘うように腕が私を引き寄せる。その腕に抗う理性は、もう残ってはいなかった。
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