第31話:進みたい場所


 向き合っても意味のない物事が、この世にはあるんだと思う。

 中学の頃に私の髪を掴みながら怒っていたあの子の事や、何度レッスンを受けても私を見てつまらなそうにしていた監督や、幾度となく同じ事を繰り返す両親の事は、きっとそれに当てはまる。そんな無意味な事に時間を割くより、友達と遊んだり、恋愛ごっこに身を委ねてみたりした方が楽しいに決まっていた。


 隣から聞こえる、静かな呼吸音。耳を澄ませていないと部屋の中に溶けてしまいそうなその小さな音を聞きながら、由紀さんの寝顔を眺める。緩く閉じられた唇が昨日奏でた言葉を、頭の中で反芻する。

 向き合っても意味のない物事はあっても、こんなにも向き合いたいと思う物事は、今まで無かったと思う。自分だけではどうにも出来ないことはこの世には多いと、手を離すことばかりしていた。


 由紀さんの手に、そっと手のひらを重ねる。私よりも小さい手のひらは、いつだって私より低い温度を灯している。何時触れても、この手はこの温度だ。私はその手を由紀さんが起きない様に緩く握る。私は初めて、手放したくないものを手にしている。自分の気持ちをいくら我慢してもいい。無意味な物に向き合うことになるとしても、例えまた殴られてもいい。この手だけは、絶対に放したくない。


「ん……?」


 しまった、手に力が篭ってしまった。

 閉じていた瞼が僅かに震えて、ゆっくりと開いていく。手を引こうとすると、由紀さんの手が私の手を握って逃げられない。重たい瞼を何度か瞬きさせて、ようやく由紀さんの瞳が私を捉える。


「おはよう、ございます」

「……おはよ……」


 少し掠れた声。まだ半分夢の中で、夢と現実の狭間からなんとか私の言葉に応えてくれている。そんな姿が、可愛いんだからどうしようもない。私の手を握ったまま、猫が眠る前のように、静かに何度も瞬きをしている由紀さんを見て苦笑する。少しだけ手に力を込めると、ようやく手を握っていることに由紀さんが気づいた。赤ちゃんが握り返すみたいに、弱く由紀さんが私の手を握り返す。


 我慢しなければ。そう自分に言い聞かせるタイミングが増えていると思うのは、きっと気のせいなんかじゃない。自分でも驚くような些細な事で、いとも簡単に私の心臓は跳ねる。まるで由紀さんがペースメーカーのように、私の心臓は由紀さんに左右され始めている。


 微睡の中で、私の手を握っては緩む由紀さんの指先。手の甲を滑る指の腹の感触は、それだけで私の心臓を揺らす。指を絡めるように握り返せば、応えるように由紀さんの指が絡まる。人差し指の爪が手の甲を軽く引っ掻いて、そしてまた指の腹が撫でる。まるで前戯のような戯れに、私の理性の輪郭が歪む。

 

 例えまだ寝ぼけてるとしても、好意のない人にこんなことしないんじゃないかな。そんな都合の良い事を考えそうになって、由紀さんは酔っ払うとキス魔になることを思い出す。大切にされているけど、そこに私と同じ感情があるのかは分からない。でも、もしかしたら、そんな風に期待してしまいそうになっては、それを否定する。

 我慢、我慢。


「私、先に起きますね」

「ん」


 今度は簡単に手のひらが離れたことに、自分でそう決めたのに寂しく感じている。由紀さんを見下ろすと瞼がまた閉じようとしていて、私がこんな気持ちでいるなんて露ほども思っていないんじゃないかな。先ほどの甘い期待は、やっぱり一人勝手に勘違いしているだけらしい。酔っ払うと厄介だけど、寝ぼけているのも同じくらい振り回されてしまうから厄介だと思う。私は小さくため息を吐いて、ベッドから降りる。


 顔を洗って、歯を磨いて、まだ起きてこない由紀さんの分まで朝ごはんを作る。何を考えずとも、そう動くようになってしまった。それだけの時を、由紀さんと重ねている。その重なりをこれからも積み上げていけるように、そこを邪魔する問題はなんとかしなくちゃいけない。賞味期限間近の食パンを卵液に浸しながら、これからのことを考える。


 なんとかしようと決めたものの、どう向き合えばこの問題が解決できるのか見当もつかない。類稀な才能もなければ、没頭できるほどの熱意もない私に、これ以上演技の道は歩けない。そう何度伝えたって、まだ時間がある、もっと勉強すれば大丈夫、そう出来るように支援する、返ってくるのはそればかりだった。押し付けるなと叫べば、手のひらが飛んできた。


 違う方向を向いた私を、両親は認めない。でも、もう同じ方向を見続けることは苦しい。


 ダメだな、思い出すと気分が沈む。考えに耽る間十分に浸かっていた食パンをバターを広げたフライパンで焼いていく。休日の朝に漂う甘い香りは幸せと形容したっていいはずなのに、気分は全く上がらない。

 もういっそ、見限ってもらえたらいいのに。才能なんかないって気づいてくれたらいいのに。私は希望を運ぶ朝日なんかじゃないって手放してくれたら楽なのに。


「いい匂い」

「うわっ」

 

 突然聞こえた声に肩が跳ねる。いつもならまだ寝てるはずの由紀さんがいつの間にか隣に来ていて、彼女もまた目を丸めて驚いていた。考え事に夢中で気づかなかった。トーストをひっくり返すと、少しだけ焦げている箇所もあったけど概ねセーフだった。由紀さんがいなかったら焦がしていたに違いない。


「びっくりした……」

「す、すみません……今日は早いですね」

「んー……いい匂いがしたから」


 好きなのかな、フレンチトースト。好きなのか確認してみれば、「そうかも」というなんとも曖昧な言葉が返ってきた。とりあえず好きな物リストに加えておこう。


 焼き目を確認して、少し火を弱める。隣では由紀さんがコーヒーを準備していて、甘い香りとコーヒーの香りが漂う。肺一杯にその匂いを吸い込むと、次はちゃんと幸せな香りがした。


***


「散歩に行ってきますね」

「ん」


 スマホをポケットに入れて、キーケースを持って由紀さんの家を出る。由紀さんと一緒にいると、思考が由紀さんに奪われる。遂にはコーヒーを片手にスマホを操作している由紀さんさえ視線を奪うから末期である。

 余計なことを考える時間がなくなるのは幸せなことだけど、今は向き合わなくてはいけない。


 今日は、まだ一件も連絡が来てない。

 着信履歴をスクロールして、同じ名前が並ぶ異様さにため息を吐く。


 近くの公園では、小学低学年位の男の子たちがサッカーボールを蹴って遊んでいる。端にあるベンチに腰掛けて、少しの間それを眺める。好きな事をするということが、私にとってはとても難しい。

 説得するよりは、諦めてもらう方がまだ可能性がある気がする。言葉を尽くして本心を伝えることが意味を成さないのなら、突き放してもらえるような言葉ならどうだろう。予め決めた言葉をそれらしく紡ぐのは、おかげさまで人よりは得意だった。


 例えば、私はもうオーディションは受けないし、伝手で貰ってきた仕事も受けない。それを承諾してもらうまでは家には帰らない。そう宣言するのはどうかな。頭の中で映像を流してみる。イメージをしたところで、円満に終わりそうな図は一向に頭には浮かばなくて、今日何度目かも分からないため息を吐く。

 遠くで子供たちの笑い声が響いている。無邪気で楽しそうな声が、少しだけ心を紛らわせてくれる。


 その時だった。ポケットの中で振動するスマホに、そのタイミングの良さに思わず笑いが漏れる。取り出せば、そこには予想通りの人物の名前。手の中で震えるスマホをしばらく見つめた後に、通話ボタンをタップする。


「……もしもし」

『あさひ、いい加減にしなさい』


 あー、切っていいかな、もう。

 声を聞いて、まず最初にそんなことを思う。対話なんてまず成り立たない、そんな声色に小さく息を吐く。


 頭の中に、あったかいあの家を浮かべる。アイボリーの色を基調にした優しい装飾は暖かくて優しい。ソファーに座る由紀さんの隣に座ると、少しだけ由紀さんが私を見て、そして視線をテレビに戻す。私を受け入れて、けれど変わらずそこにいてくれる。コーヒーの香り、幸せな日々。あの場所の為に、今から私が頑張るのだ。


『ママもパパも心配しているの。 早く帰ってきなさい』

「心配しなくても大丈夫。 友達の家でお世話になってるから」

『二ヶ月も人様に迷惑かけて、恥ずかしい』


 心配してたんじゃないのかよ。ヤスリで削る様に心を逆なでされて、感情が波立つ。細かな傷を何度も何度も無数につけて、この人はそれを愛だと言い張る。せり上がる感情を、深呼吸で落ち着かせる。


「友達はいていいって言ってくれてるよ」

『そうやって逃げてばかりいると、周りにどんどん置いていかれるのよ』

「いい、それでいいって言ってるじゃん」

『いい加減にしなさい』


 根本的に話が通じない。家に帰って、レッスンを受けて、名前もない配役を演じ続ければこの人は納得するのかな。自分が諦めきれない夢を、私が追いかければ気が済むのかな。朝日なんて呪いでいつまで縛れば、この人は満足するのかな。


「もう放っておいてよ、お願いだから」

『あさひ』


 通話終了ボタンを押していることに数秒経ってから気づいて、思わず頭を抱える。ついつい感情的になったしまった。これじゃ今までと何も変わらない。明日からきっとまた何度も何度も電話がかかってきて、由紀さんに心配をかけてしまう。

 でも、会話が出来ない。ずっと平行線を辿っては傷つけられるのは耐え難い。


「……どうしたらいいですかね、由紀さん」


 零れた声は、聞かせられない程に情けない。自分でやってみると言ったのは私なのにな。もう一回電話、かけ直してみようかな。


「いや、無理」


 打開策がないと同じ事を繰り返すに決まっている。遠くからまた笑い声が響いて、地面から視線を持ち上げると、楽しそうな子供たちが走っている。昔はよくあの光景を羨ましく思っていたことを思い出す。あの頃に比べたら、少しは自由を取り戻せているんだろうか。


「……一旦撤収しようかな」


 まずは一歩、帰る気がないことは伝えられた訳だしきっと無駄じゃない。こうなったらもう、どっちが先に折れるかの勝負に持ち込んだっていい。耐え難い苦痛も、由紀さんの隣にいるためだと思えば、頑張れる気がする。


 未だ渦巻くもやもやとした感情を払拭するように立ち上がる。昨日決意した事が、昨日の今日で上手くいくというのはむしろ都合の良い話なのだ。そうやって自分を励ましながら、マンションまでの道を引き返す。これは長期戦、一々心を乱したってしょうがない。心を宥めて、由紀さんにおかえりと言われるまでには、いつもの私にならなくちゃ。


 玄関の前、最後に一つ深呼吸をする。頭の中で、柔らかく笑う由紀さんを思い浮かべる。優しい声で、きっとおかえりって笑ってくれる。


「よし」


 鍵を開けて、中に入る。リビングのドアを開けると、ソファーから由紀さんが顔を覗かせて、おかえりと笑う。想像よりも柔らかくて、ほっとする。


「ただいま、由紀さん」


 隣に座って、由紀さんを見つめる。ギザギザとしていた心が、丸みを帯びていくのが分かる。どんなに嫌なことが起きたって、由紀さんが隣にいてくれたら大丈夫な気がしてくる。心が休まる。


「……どうかした?」


 ずっと見つめていたのがバレてしまったらしい。でも、まだもう少しだけ見ていたくて、ぐずる様に曖昧な返事をしてみる。首を傾げた由紀さんは、諦めたのかまたテレビへと視線を戻した。

 手のひら一つ分だけ近づいて座り直す。背もたれに背中を預けて、由紀さんの肩に頭を預けると、由紀さんの肩が少し跳ねて、そして緩まる。細いせいか、肩の骨が少し痛いかもしれない。


「んー……」

「さっきから何?」


 頭を離して、肩から膝へと場所を変える。始終訳が分からないというような表情をしていた由紀さんは、結局諦めて私を受け入れる。由紀さんは本当に、なんだって受け入れますね。

 由紀さんの手のひらが、突然私の頬に触れる。ぺたぺたと何度か触れて、私は少し心臓の音を速めながら由紀さんを見上げる。


「いつもより熱い。 外、暑かった?」

「……あはは、少しだけ」


 いつもより熱い。由紀さんの言葉を頭の中で繰り返す。私が由紀さんの手のひらの体温を知っているように、由紀さんも私の体温を知っているという事実が、なんだかくすぐったい。他人の体温なんて、普通知らない。少なくとも私は由紀さんの体温しか知らないし、由紀さんもそうであったらいいと思う。

 それは、少しだけ特別な気がするから。

 

 私の頬に触れている手に手を重ねる。その手は、いつも通りの体温。朝にしたように指を絡めると、頭上からクスリと小さく笑う声が聞こえる。

 私は、少しくらい由紀さんの特別になれているのかな。だって今、由紀さんは酔っ払っても、寝ぼけてもいないのに、私に付き合ってくれて、それで楽しそうにしてくれている。こんな恋人同士みたいな戯れに、付き合ってくれている。


 私がもっと頑張ったら、私は由紀さんの特別になれるのかな。

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