第30話:私に出来ること(2)


 一限目の講義を終えて、机に突っ伏す。

 木材のひんやりとした感触を頬に受け止めながら、繰り返すのは昨日のやり取り。由紀さんの口が開いて、そして何も紡がずに閉じた瞬間、言葉を飲み込ませてしまったと思った。それはつまり、私の明らかな拒絶が由紀さんに伝わってしまったということ。


 もっと上手く誤魔化せなかったのか、いや、由紀さんが心配してくれていることにどうしてもっと上手に応えられなかったのか。


「ふぅ……」


 ため息を一つ吐くと、頭の上に何かが落ちてきた。ぽす、と頭上で音がして、少しだけ顔を上げると桜が私を見下ろしていた。


「次隣の講義室だよ」

「うぃ……」


 情けない返事をして重たい心を抱えて立ち上がると、頭に落としたノートを鞄に戻しながら桜が私を見つめる。その視線の意味する通り、桜は私に何かあったのと尋ねる。

 なんだか、いつも誰かを心配させている気がする。


「はぁ。 人に優しくしたい」

「うわ、いきなり哲学?」


 ソプラノの声がアルトに変わって、桜が一歩私から遠ざかる。いっそこれ位素直な反応だったら、こっちも素直になれるのかな。そんなしょうもないことを考えながら、鞄を肩に下げて講義室を出る。奈美の姿を見つけて隣に座ると、私の隣に桜が座った。


 ノートと参考書を鞄から取り出していると教授が入ってきて、独り言の様に参考書のページ数を呟く。一通り机に並べて、教授の言葉をBGMにしていれば、また由紀さんの表情が頭の中を覆いつくす。

 

 話題を逸らしたのは、こんな話を由紀さんにしたところで面白くもないだろうと思ったからだ。余計な心配をかけたくないとも思った。もしそれが由紀さんの心を拒絶したようになっているのだとしたら、どうか昨日の夜をやり直しさせてほしい。でも、果たしてどう伝えれば由紀さんの心配を解消し、暗い空気を回避し、あの話題を終わらせることができただろう。


 深く息を吐き出すと、両隣から視線が向けられる。一つは煩いと叱責するような、もう一つは呆れながらも心配しているような、そんな視線だった。私は肩を竦めて、真っ白なノートへと視線を向ける。とにかく、一度誤解は解いておくべきじゃないかな。由紀さんに話したくないという意味ではなかったこと、由紀さんの気持ちを拒絶したわけではなかったこと。


 真っ白なノートに、シャーペンの芯を押し付ける。今日中に必ず解決、そう書いてその文字列をぐるぐるとまるで囲む。どこまで話すかはもう少し考えるべきことだけど、とにかく必ず今日、由紀さんに伝えよう。

 昨日の夜のやり直しだ。


 ***


 玄関のドアを開けると、美味しそうな匂いが私を出迎えて、それに続くようにルナが玄関まで出迎えてくれた。昨日とは打って変わって人懐こい笑顔を向けてくる。理由は良く分からないけれど、機嫌がいいのなら何よりだろう。


 リビングに入ると、テーブルに並ぶ料理の数々に目を丸める。家族四人暮らしでもしているかの量にルナを見ると、「作りすぎました」と眉を下げて笑うから、私はまたテーブルへと視線を戻す。これも機嫌が良かった、ということだろうか。


 冷めてしまうのは良くないだろう。素早く着替えてテーブルにつくと、目の前のルナがじっと私を見つめている。その頃にようやく私は、ルナの様子がどこかおかしいのではと気づく。ただ機嫌がいい、というのとは違うような気がする。ルナの視線に返す様に見つめると、ルナの顔が不自然に笑う。


「食べましょう、いただきます」

「いただきます」


 やっぱり、どこか変だ。

 箸を伸ばしながら、ルナの様子が変な理由を探る。少なくとも私が帰宅した時には既に変だったから、それ以前に何かがあったのだろうけれど、逆に朝の時点では変わりは無かったように思う。だとすれば、日中に何かがあったのだろうか。


 私の知り得ない場所が理由なら、これ以上推し量るのは難しい。昨日から思考が行き止まりにばかりたどり着く。とはいえ、それをルナに聞いてもまた躱されるかもしれない。


「あの、由紀さん」


 思考の波に揉まれながらもやしのナムルを咀嚼していると、ルナが私を呼んだ。箸を置いて、まっすぐにこちらを見るから、私も倣うように箸を置く。


「昨日はごめんなさい」

「え?」


 謝られることは完全に予想外で、私は間抜けな声を出す。昨日の指す言葉を探して、一つ思い当ってようやくルナの言葉の意味を理解する。昨日とは、昨日の夜の会話のことだろう。


「由紀さん心配してくれてたのに、無下にするようなことしちゃったなって思って」

「あれは、私も踏み込みすぎたと思うから」

「違うんです。 それが嫌だった訳じゃないんです。 ただ、巻き込むのも申し訳ない気がしたし、面白くない話だし、それで言わなかっただけで由紀さんを拒絶したかった訳じゃない」


 嫌だった訳ではなかったのか。距離を測り間違えた訳では無かったことに、安心している自分がいる。ルナを傷つけていなかったのなら何よりだろう。私は一つ息を吐いて、肩の力を抜く。

 ルナは、今日一日そのことを考えてくれていたのだろうか。私を傷つけたかもしれないと不安になって、その誤解を解こうと頑張ってくれたのだろうか。そう思うと、目の前の一生懸命な子を愛おしく思う。


「もしかして、この料理の量もお詫びの印?」

「……あの」


 ルナの視線が分かりやすく揺れる。


「どう謝ろうか考えてたら、作りすぎました」

「……馬鹿ね」


 そんなこと一つに、そんなに考え込まなくてもいいのに。それでも、そうやって私の事で精いっぱいになっている姿を見るのは悪くない。笑い声が漏れれば、ルナはそれを咎めるように私を睨む。そんな姿を見られるのなら、少しくらい間違いがあってもいいのかもしれない。


「私は、ルナがしたいようにしてくれればいいから」

「……今、それ言いますか」

「いつだってそう思ってる」


 話したいと思ってくれるなら何よりだし、巻き込みたくないと思うならそれでもいい。私は私の出来る限りで、ルナにとって居心地のいい場所であり続けるだけだ。ただ、ルナもまたこの場所を大切にしようとしてくれていることが嬉しい。


「じゃあ、もっと我儘になっても許してくれます?」

「許容範囲なら」

「あ、いきなり現実的」


 本当は、きっとルナの我儘なら何でも許してしまうのだと思う。そんな浮かれた事を考えながら笑って、ルナが作ってくれた食べきれない量の料理にまた箸を伸ばす。ルナがどこまでが許容範囲なのかを色々な角度から攻めてくる。また出かけるのはいいのか、一緒にゲームをするのはいいのか、更にはキスはいいのかなんて聞いてくるから、適当に答える。したいならすればいい、したいかは知らないけれど。


 冗談とも本気とも分からない質問が止んで、場の空気が時間を止めたように静かになる。考え込むように目を伏せたルナは、ゆっくりと瞳を持ち上げて、硬くなった口角をゆっくりと上げた。


「明日、お母さんに連絡してみます」

「……うん」


 そう言って無理に笑うルナを見つめる。踏み込まれることを嫌じゃないとは言うものの、ルナにとって一等触れられたくないものであることは確かなように感じる。それでも、私にならいいと思ってくれるのなら、その気持ちを受け取りたい。受け取って、少しでも私が担うことが出来るなら、そうしてあげたいとさえ思う。


「あんまり話が通じない人なんです。 昔から、自分の思い通りに私が動かないと気が済まなくて、昔はそれに応えられるように頑張ってたんですけど、最近はそこに意味も見出せなくて。 でも、私もここにいられるように、頑張ってみます」

「……私からも話してみる?」

「大丈夫です。 逆効果なので」


 断定的な言葉遣いに、溝の深さを垣間見る。


「……分かった」

「ごめんなさい」

「馬鹿ね、それは謝ることじゃないでしょ」


 何も出来ないことをもどかしいと感じるのは何時ぶりだろう。神様を信じてもいない私は、神様に願ってみようと思うことさえ叶わない。それでも、何かしてあげたいと願って止まない。

 他人にこんな風に思うのは、初めてかもしれない。


「明日、ケーキ買って帰ってくるから」

「……あはは!」


 緊張していた顔が一気に綻ぶ。それだけで、私が彼女の隣にいる意味があるように思う。

 そして意味があることを、嬉しく思う。彼女にとって私が意味のある居場所になってくれていることが、彼女に負けない位に頬を緩ませてしまう程に、嬉しく思うのだ。

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