第29話:私に出来ること
最寄り駅の改札口を出ると、夏の気配がすぐそこまできている。暑さを内包した湿気が首元を撫でるのを鬱陶しく感じながら帰路を歩く。ビールが美味しい季節だけれど、家で飲むことにまだ少しの後ろめたさを感じる自分がいる。一本飲んだくらいでは愚行には走らないとはいえ、反省の姿勢はなんとか示し続けたい。
「あれ、由紀さん」
向かいの道路から声が聞こえて、視線を持ち上げるとルナがこちらに歩いてくる。相変わらずのショーパンに若さを感じる。タンクトップにシースルーの上着は涼しげだけれど、今からそれで夏本番は耐えられるのだろうか。
隣に並んだルナが「お疲れ様です」と今日一日の労働を労う。随分と膨らんだエコバッグは、きっとスーパーで買い物をしてきたのだろう。同じ言葉をルナに投げると、大きな目がくしゃりと笑う。
道路に散在する水たまりを避けながらマンションまでの道のりを歩いていく。ルナは良く鼻歌を歌う。それは今日も例外ではないらしく、隣からは最近街でよく聞くメロディーが聞こえてくる。
「知ってます? この曲」
「聞いたことなら」
昔はまだついていけていたと思うのだけれど、最近ではそのアーティストの名前すら怪しいことが増えてきた。ルナが曲名を告げて、続きのメロディーを奏でる。時折覚えている部分は歌詞付きだった。
好きな人への執着を残した失恋の歌。もう届かないと分かっているからこそ、聞く人の心を甘く切なくさせるのだろう。
隣にいる私だけに聞こえる声は、優しく鼓膜を撫でる。歌詞が曖昧になってメロディーだけに変わるのが少し可笑しくて笑うと、ルナの鼻歌が釣られるように揺れる。朝から続いた雨や、まとわりつく湿気で下がった気分が、メロディーが進むにつれ浮き上がってくる。
最後のサビ、またルナが歌詞を歌い始めた時だった。歌を遮るスマホの振動音のようなもの。一度や二度では終わらず、遂にはルナの歌が止まって振動音だけが響く。私のではないから、きっとルナのものだろう。ようやく止まったそれは、マンションに入るとまた持ち主に主張を始める。
「出たら?」
「あー……」
どちらともつかない返答に、ルナが誤魔化す様に笑う。見ずともどうやら相手の見当がついているらしい。気にならないかと言われれば嘘になるけれど、ルナからの言及がないのならそれ以上続けるべきではないだろうと判断して、視線を前に戻す。
たどり着いた玄関の鍵を開けて中に入る。後ろから聞こえるただいまの声に、なんとなく同じ言葉を繰り返す。
部屋着に着替えてリビングに戻ると、ルナが材料を冷蔵庫にしまっているのが見えてそれを覗き込む。食材で埋まった冷蔵庫は、嬉しそうに駆動音を響かせている。それにしても買い込みすぎではないだろうか、今日の料理一つ予想が出来ない。
「今日は何を作るの?」
「棒棒鶏に挑戦しようかと」
家では凡そ聞かない料理名に、へぇ、と鈍い反応を返してしまった。「嫌いですか」と投げかけられるかと思ったけれど、ルナは特に気にした様子もなく今日使う食材を台の上に並べていく。
スマホには料理動画が流れている。お肉の下処理をしていくルナを見つめていると、座っているか手伝うかどっちかにしろと怒られた。ここで座ってしまうのは不正解のような気がして、並べてある食材からきゅうりを取って切っていくことにする。
斜めに輪切りに切ってそれを薄く切っていく動画を眺めていると、不意にスマホの表示が『母』と書かれた画面に変わる。三度目の振動で横から手が伸びて、ルナの手の中で振動が止まる。
「出なくていいの?」
「後でかけ直します。 料理中なので」
ルナが教科書のような笑みを浮かべて、また動画が流れるスマホが横向きに静置される。
先ほどの連絡も、おそらく同一人物なのだろう。少しずつ気がかりな点が増えていくものの、ルナがその話を避けているような気配がある。釈然としないまま、私はきゅうりを動画通りに切ることにする。一定のリズムで切り進めながら、ルナの家族についての情報を記憶から掘り出していく。
確か実家に住んでいたはずで、同時に極力帰りたくないと言っていたことは覚えている。逆に、その他にルナが家族の話をしたことはない。最近では大学のことも良く話すようになったけれど、家族に関することは全くだ。
何度もかかってくる電話に、それを無視するルナの情報を合わせて推理するならば、ルナと家族の関係は決して良いものとはいえないのだろう。
それと同時に些か矛盾を感じるのは、ルナから感じる品の良さだ。出会った時も思ったけれど、他人への配慮が行き届いている。それだけならば本人の資質とも言えるかもしれないけれど、掃除の頻度、食事管理、生活リズム、着ている服、そのどれからも、育ちの良さを感じ取れる。
そこも加味すると少なくともこの電話は心配からきているのではないだろうか。
知らない荷物が時折増えているから、定期的に帰ってはいるのだろうけれど、もう二カ月近くふらふらとしている娘を大学生とはいえ心配するのは当然のことのように思う。
家に全然帰ってこない娘に電話をかける母親という構図は、とても自然なものに感じる。ルナを殴ったり、苦しめているものとは少なくとも関りが無いように思う。
「ルナ」
「なんです?」
だから、今までは踏み込まない様にしていたけれど、これ位なら問題ないのではないだろうか。
「後は私が準備しておくから、とりあえず1回かけ直した方がいいんじゃない?」
茹でたむね肉をトレイに移した手が、ぴたりと止まる。ルナの視線がこちらを見つめて、言葉未満の声がルナから漏れる。ゆっくりと視線を手元に戻しながら、ルナが静かに準備を再開する。
意図的な無視なのか、言葉を探しているのか、長い沈黙が重くのしかかる。ルナが大きな問題を抱えているのは想像に難くないけれど、どこまで踏み込んでいいのかが一向に分からない。今のは踏み込みすぎただろうか。
「きっとまた怒られちゃいますから」
「……」
言葉に迷う、というよりは、どこまで踏み込んでもいいのかに迷う自分がいる。
「心配、じゃなくて?」
「あー……本人は至って普通に心配してるんだと思います」
測るような会話。どこまで踏み込んでいいのか、どこまで伝えてもいいのか、測りかねているような間の悪さ。それでも、質問で躱されることも、笑って誤魔化されることもないだけ、おそらく私は許されている。私は続きを待っていることの意思を乗せて、ルナを見つめる。
「でも結局最後はこう言われるんです。 時間がないのだからもっと真剣に頑張りなさいって」
「え?」
「叶わなかった自分たちの夢を、私に託してるんです」
困ったように、寂しそうに笑う顔。ルナが食器棚からお皿を取り出して、そこに準備したきゅうりを並べていく。その上に切ったむね肉を乗せて、先ほど準備したたれをかけて、完成ですと笑う。その顔に、この会話は終わってしまったことを知る。少なくともルナにこれ以上話す気はないらしい。
散りばめられたパズルの数ピースが、大きすぎる枠組みの中に散らばっている。もう少しピースが無ければ手のつけようがない、そのもどかしさが気持ちを急かす。もう少しだけしつこく聞けば、今なら言ってくれるのではないだろうか。
家に帰りたくない理由、あんな表情をする理由が、恐らくあと少しで知ることができる。
「食べましょう、由紀さん」
せり上がった言葉が、喉奥で止まる。
この会話は終わりだとルナが言っているのに、無理に続けて良いのだろうか。ルナがここにいるならば、聞く権利はあるのかもしれない。それでも、ルナにとって嫌だと感じることをしていい理由には、きっとならない。
「そうね」
膨れ上がる追及の言葉を押し留めて、ルナの言葉に頷いた。
聞く機会はきっとこれからもたくさんあるだろう。ルナがここに来てまだ二ヵ月程しか経っていないのだ。私に出来る最大のことは、この場所がルナにとって心地のいい場所で在り続けるよう努力することだろう。ルナがもうあんな表情にならなくて済むように、私はこの場所にルナを招き入れたのだということを忘れてはいけない。
私は、この場所を大切にするための選択をしよう。
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