第28話:理性と本能


「なるほど、寝てたんですね」


 誰もいないんじゃないかってくらい静かだったから出かけてるのかと思った。ソファーの前に座って、すっかりと夕寝を堪能している寝顔を見つめる。

 お昼にはちゃんとご飯の写真が送られてきたから、それまでは起きてはいたんだろうけど、これじゃまたきっと夜更かしするんだろうな。明日仕事なの、忘れてはないと思うけど。


「……でも私も、疲れたー」


 ローテーブルに突っ伏すとひんやりとしていて気持ちいい。久々に一日中歩いていた気がする。由紀さんと一緒にいると時間が穏やかに過ぎていくのに比べて、今日はまるでジェットコースターみたいだった。


 でも、桜と仲直りできたのは良かった。前みたいに三人で笑って、何も考えずに過ごす時間がこんなにも早く取り戻せてよかった。今日のことを振り返れば、自然と笑みが漏れる。


 それも全部、由紀さんにこうして拾ってもらえたからかもしれない。帰る家もないままずっとふらふらしてたら、きっと心に余裕なんか出来なかったし、ずっと一人でぐるぐると考え続けてしまっていたと思う。偶然に偶然が重なった結果だけど、今はそれでよかったかもしれないとも思える。なんて全部由紀さんと絡めてしまうのもどうなんだろう。自分の思考の偏りに苦笑する。


「さて……ご飯作らなきゃ」


 いい日の締めくくりに手の込んだものを作りたい気持ちはあるけど、生憎体力が付いてこない。時間もいい時間だし、簡単なものにでもして、明日頑張ろうかな。

 重たい体を起こして、冷蔵庫に向かう。食材はまだそれなりにあった気がするし、パスタとかでもいいかな。ナポリタンか、ミートソースなら出来るはず。


「あれ」


 材料を確認しようと冷蔵庫を開けると、中に身に覚えのない鍋が入っていて、取り出してみると中にはシチューが入っていた。夜までには帰るって私が言ったから、由紀さんが作ってくれたってことなのかな。


 偶にこういうことしてくるのが、悔しいけど可愛いんだよなぁ。

 こういうことを嬉しく思うのは、ヒモとかに引っかかる典型的パターンな気がする。偶にやってくれただけで嬉しく思うのは甘すぎると思う。そう頭では分かっているはずなのに、好きな人が自分の為に動いてくれる、その事実で単純にも心が弾む。


「ほんと、なんでこうなっちゃったかな」


 自分のことなのに少し呆れてしまうけど、それも含めて楽しいんだからどうしようもないよね。ご飯がもう出来ているなら、先に由紀さん起こしちゃおうかな。作ってくれたお礼も早く言いたいし。

 

 ソファーで眠る由紀さんの元に戻って、由紀さんの肩を軽く叩く。

 名前を呼んでみても、由紀さんの瞼は頑なに開かない。気持ちよさそうな寝顔はついつい眺めていたくなっちゃうけど、そうしてしまうと無限に時間が吸い取られることを知っている。


「由紀さーん」


 返ってくるのは相変わらず規則正しい呼吸音だけ。キスしてやろうかな、と思うことはよくあっても、流石に思いとどまって実行したことはない。最後の手段として肩を揺らしてみれば、瞼が僅かに震える。ゆっくりと開いた瞼、眩しいのか眉を顰める由紀さんを眺めていると、瞳がゆっくりとこちらを向いた。


「……おかえり」

「ただいま、由紀さん」

「ん、何時?」

「もう十九時過ぎですよ」

「んー」


 結構がっつり寝てたのかな、寝ぼけてる。ソファーの上で器用に寝返りを打って仰向けになった由紀さんは、何度か瞬きをした後にまた目を閉じた。規則正しく、呼吸に合わせて胸が上下する。どうやらまた夢の中にいこうとしているらしい。一緒に暮らしていく中でだんだんと起こす難易度が上がっている気がするんだよなぁ。


「もう、由紀さーん!」

「うるっさ……」


 いつもより低い声。寝起きは悪いけど、怒ったりすることはないと知っているから遠慮しない。由紀さんの体を無遠慮に揺らすと、由紀さんがうめき声をあげる。


「ご飯、由紀さんが作ってくれたんですよね」

「先に食べていいから」

「一緒に食べましょう」


 由紀さんの体が私に背を向けるように回転する。


「起きないとキスしますよ」

「……じゃあそれでいい」


 予想外の言葉に言葉が詰まる。

 前みたいに罰のようなニュアンスで言ったつもりだったのに、そんな簡単に受け入れないでほしい。


「由紀さんの天秤、思いっきり壊れてますよ」


 キスされるか起きるかでキスされる方に軍配が上がるなんておかしいに決まっている。由紀さんの中でキスがその程度のものなのか、睡眠が最優先項目なのかは判断に難しいけど、少なくとも私はそれでは困るのだ。本当にしてやりたくなるから、とても困る。


「……本当にしますよ?」

「んー」


 寝ぼけている由紀さんが悪いのか、寝ぼけていることに付け込もうとしている私が悪いのか。背もたれの方に向いてしまった顔を覗き込むように上体を傾けると、私の影が由紀さんを覆う。頬位なら、ペットの戯れとして問題なかったりしないかな。いや、これだけ心臓をバクバクと拍動させて卑しい気持ちを抱えてる時点でダメなのは分かっている。


 でも、していいって由紀さんが言った。頬にかかる髪の毛、代わりに髪の隙間から形のいい耳が覗いている。


「後五秒で起きないと、耳にキスしますからね」

「……」


 頭の中で秒数を数えていく。一つ一つカウントする毎に、ゆっくりと由紀さんに顔を近づける。垂れてきた髪を耳にかけると、五秒なんてあっという間に経ってしまって、目の前にある耳をまじまじと眺めてしまう。軟骨の曲線の先にある薄くて柔らかな耳朶には、ピアスホールが一つある。いつ頃に開けたんだろう。

 今、何秒くらい経ったかな。


 触れた耳朶はひんやりとして冷たい。滑らせていくと、軟骨の硬さを皮膚の奥に感じて、更に上に滑ると由紀さんの髪が唇に触れた。


「っ」


 沈黙の中、自分の心臓の音だけがスピーカーを通してるみたいに大きく鳴り響く。体中に拍動が響いていて、項にじんわりと汗が滲む。一瞬僅かに聞こえた声は、私のものじゃなかったと思う。

 耳をかばう様に手のひらで隠しながら、由紀さんが私を見る。やっと起きましたねと笑うのが正解なのか、由紀さんが起きないからですと自分の行動の正当性を言い張るのが正解なのか、さすがにやりすぎだったと謝った方がいいのか、頭では忙しく思考をめぐらすけど、そのどれも声にはなってくれない。


「もう少し普通に起こしてくれない?」

「すみません……でも普通に起こそうとはしたんです」

「それは……そうね」

 

 どちらが悪いともつかず、顔を洗ってくると言って由紀さんが洗面所へと歩いていく後姿を眺める。由紀さんの頬が少し赤い気がしたのは気のせいかな。気のせいじゃなかったら、その赤い頬の意味って――――。


 ドアが閉まって数秒、私は深く息を吐き出す。


 何を考えてるんだろう。そりゃいきなり耳にキスされたら驚いて声だって出るし、恥ずかしくて頬だって赤くなるかもしれない。自己肯定感が高いのは良いことだけど、他人からの評価を間違ってはいけない。


 先ほどまでの高揚感はいつのまにか姿をくらまして、今は流石にやりすぎだと後悔が私を責めたてる。場合によっては、私と桜のようになっていたかもしれないことを、私は今してしまったんじゃないかな。


 寝ぼけた由紀さんの言葉を鵜吞みにするのは私がずるいだけだろう。一瞬の隙をついて本能が理性を出し抜いたと言ってもいい。とにかく、気を付けなきゃいけない。

 ここにいるためには、私のこの感情は些か厄介すぎる。私はここの同居人で、ペットで、年下の懐っこい世話焼き以上になってはいけない。


 今回は由紀さんが寝ぼけていたとはいえ言質があるし、元々スキンシップは多い方だから多分私の感情なんて気にも留めてないだろうけど、これからは気を引き締めていこう。


「とにかくまずは、なんでもない素振りで料理を温める」


 立ち上がってキッチンへ向かう。由紀さんがリビングに戻ってきたら、私はいつもどおりに接しなければ。この大切な場所を失いたくないし、私はこの場所を守れるなら、いくらだって我慢する。いや、我慢しなきゃいけない。


 長い年月の絆や繋がりがあれば、そう簡単にその繋がりは切れたりはしないだろうけど、私と由紀さんは違う。ただの偶然が重なって、奇跡的に一緒に住んでいるけど、その繋がりはまだ細くてか弱い。何かきっかけがあれば、私と由紀さんの繋がりはきっと簡単に切れてしまう。


 今は由紀さんと特別な関係になるよりも、この場所を守りたい。


 取り出したシチューを温める。その間にお皿を取り出して、テーブルにグラスとお茶を準備していると由紀さんがリビングに戻ってきた。


「さっき言えてなかったんですけど、夜ご飯作ってくれてありがとうございます」

「今日は私の方が時間があったから」

「遊びすぎてお腹ペコペコだったので助かりました」

「楽しかった?」

「はい」

 

 私が笑うと、由紀さんが優しく笑う。それから二人で準備して、一緒にご飯を食べればいつも通りの時間が流れていく。穏やかであったかくて、安心する場所。穏やかに迎え入れてくれる目尻も、無防備なあくび姿も、無表情にスマホを触る姿も、今の関係だから見ることを許されている。

 だから、壊れないように大切にしていかなきゃいけない。

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