第27話:一つ一つ(2)


 レモンの酸味と炭酸の刺激が口の中に広がる。買ってくれたレモンソーダを飲みながら、プラスチックの容器の縁を親指で撫でる桜を横目で伺う。

 

 あの日のことは、本当にもう怒ってない。夢にはもう見ないし、何かに過敏に反応することも現状なくなっている。その変化が由紀さんの隣だからなのか、時間が解決してくれたのか、私の気持ちが変わったからなのかははっきりはしないけど、きっとどれもあるんだと思う。

 だから、ごめんって言われたら、全部それで終わりにしていいと思える。


「あのね、あさひ」

「うん」

「……あの日、本当にごめん」

「うん、いーよ、もう」

「でも、酷いことした」

「まー……夜這いはまずいね」

「よっ、……ごめん」


 冗談のつもりだったんだけど、流石に無理か。また俯いてしまった桜を見つめながら、言葉を探す。こんな時くらいは、桜にだって言葉に気を付けなければいけない。もう傷つけたいわけじゃないから。とにかく、本当にもう怒ってないことを伝えなきゃ。


「桜の肩を押したとき、泣きそうな顔してたの覚えてる」

「え?」

「私が追い詰めてる部分もあったかもしれないなって話。 だからもう本当に、今回の件はいいよ」


 友達以上の感情を向けられているかもしれないって感じながら、何かある度桜を逃げ場所にしていた。あの日だって突然家に押しかけて、それなのに桜は文句を言いながらも受け入れてくれた。きっと私が少し甘えすぎていた部分もあるんだと思う。


「……どうして、殴ったりするんだろうって思って」


 桜は公園の景色を眺めながら言う。懺悔のように、あるいは独白のように。


「家に来てすぐ、あさひの頬が赤いことに気づいた。 お父さんに殴られたって言ってベッドに潜り込んだあさひを見てると悲しくなったけど、同時にすごくかっとなったの。 どうしてあさひを苦しめることばかりするのって。 だから、何かしてあげたい、拠り所になれたらいい、もっと近くに……隣にいる権利が欲しかったのかも」

「……うん」

「でも結果的に自分の我儘を押し付けてあさひを傷つけてた。 私がやってることはあさひのお父さんがやってることと変わらない」

「それは違うよ。 桜はちゃんと私を見てるから、だから間違ったって言ってくれるし、大事にしてくれる方法を私を見て決めてくれる。 でもお父さんは私を見てすらないから」


 だから桜のことは許したいって思えるのかもしれない。ずっと隣にいてくれた桜との縁はやっぱり大事にしたい。それとは逆に、親とはもう極力関わりたくないと思っている。最近少しずつ増えてきたお母さんからの連絡を鬱陶しく思っている位には、あの場所にはもういたくない。


 由紀さんが許してくれる間は、私がこの気持ちと折り合いをつけられている間は、由紀さんの隣にいたいな。

 なんて、私はまた由紀さんのことを考えている。今は桜と向き合わなきゃいけないのに。


「桜と両親は全然違う。 だから、私は桜の間違いは許すよ」

「……ありがと」


 震える声は、それでも泣き声には変わらない。切り替えるように大きく背筋を伸ばす桜は、きっとようやく前みたいに隣に立ってくれるんじゃないかな。やっぱり桜はそっちのほうがいい。眉を下げてる表情じゃなくて、自信満々に笑ってる桜の方が私の知ってる桜らしい。

 私はそれを嬉しいって思う。また前みたいに愚痴を言ったり、くだらないことで笑ったり、将来のことを真剣に語ったりしていけたらいいな。


「ね、あさひ」

「ん?」

「好き」

「っ」


 ストローで吸い込んだレモンソーダを思いっきり噴き出す。咳き込む私を見ているからなのか、隣から桜の笑い声が聞こえてくる。話題の切り替わりが唐突すぎる。ようやく咳が収まって、私は桜を無遠慮に睨みつける。そこにはもう吹っ切れたように笑う桜がいる。

 喜ばしいことではあるけど、吹っ切れ方が潔すぎるとも思う。


「ごめんごめん、別にタイミングを見計らってた訳じゃなくて偶々だから」

「にしたって、急すぎるから」

「ちゃんと言えてなかったなーって」

「……」


 そういえば、前は機械越しだったっけ。差し出されたティッシュを受け取って口元を拭う。あの時は何もかもムカついてて、桜の気持ちになんて向き合ってなかったな。ずっと見ないふりをしてきた桜の気持ち。仲直りの次にする話題としては、難しすぎる話題だと思うけど、いずれは向き合わなきゃいけないとも思う。


「好きよ、あさひ」

「……あー、うん。 ありがとう」

「なにその棒演技」

「棒って……感情が迷子なんですー」

「……私の気持ち、バレてると思ってた。 バレてる気がするのに隣にいてくれるから、期待もしてた」


 私の表情を見て、桜は寂しげに笑う。やっぱり私は少し甘えすぎちゃってたんだな。居心地が良かったのは、桜がそうしてくれてたからなんだ。でも、桜は向き合おうとしているから、私もちゃんと向き合わなきゃいけない。


 私には今、好きな人がいるから。


 でも、もし、由紀さんに出会う前に桜からまっすぐに伝えられていたら、私はどうしてたのかな。


「なんとなく、桜はそうなのかなって思ってた」

「やっぱり」

「ごめん」

「謝ることじゃないでしょ。 私だってそれでも隠してたんだし」

「そうなのかな」

「そうよ。 それに、欲しいのは謝罪じゃない」


 ぶれない視線が私を射抜く。弱々しい桜なんて私が見ていた幻覚だったんじゃないかなって思うくらい、溌溂として、まっすぐで、だからこそ彼女に遠慮なんかいらないと思わされる。もうすっかり元通りだね。


「桜にだけ正直に言うね」

「……うん」


 もしかしたら、桜の気持ちに応えている未来だってあったのかもしれない。

 でも今、私の心には由紀さんがいる。お人好しだと思うくらい優しくて、でも気が利かない時もあって、結構抜けた人でお酒に飲まれることだってあって、物事にあまり頓着が無くて、私のことをルナって呼ぶ声が優しくて、私を撫でる手のひらが少し冷たくて気持ちよくて、もっとたくさん知りたくて、もっと一緒にいたい人。


「今ね、好きな人がいる。 多分、ていうか絶対叶わないけど、それでも今はその人のこと見てたい」

「……あさひがそんな風に言うの初めて聞いた」

「あー、あはは。 うん、多分初めてみたいなもんだしね」

 

 こんな風に思うのは初めてだと思う。何気ないことからその人のことを思い出すなんて、漫画やドラマだけのフィクションの世界だと思ってた。その人の仕草一つ一つに自分が左右されることなんてありえないって思ってた。むかつくことだって、呆れることだってあるのに、彼女がルナって呼ぶだけで私の感情は百八十度ひっくり返る。

 それを恋と呼ぶなんて、初めて知った。


「そっか」

「うん。 だから桜の気持ちには応えられない、かな」

「……うん。 ありがと、隠さず言ってくれて」


 桜が徐に立ち上がって、私はその後姿を見つめる。ほんの少しだけ、肩が震えている気がする。

 そっか、幻覚なんかじゃないんだ。人には必ず、強くあれる時も、弱くなってしまう時もある。桜は、弱い姿をみせないようにしてるだけなんだ。

 どっちが本当の正解かわかんないけど、私は見せないようにしてる姿を尊重しよう。弱い姿を支えたいとも思うけど、今の私にはそれは不正解だと思うから。


「あ、でもこの話、奈美には内緒だからね」

「あ、そういえば奈美のこと忘れてた」

「あはは!」


 炭酸の抜けたレモンソーダを一気に飲み込んで、私も立ち上がる。私を見る桜の表情に、もう陰りは見えない。私も、ただ今まで通りに桜の隣に立っていよう。

 奈美から送られてきた住所に向かって歩き出す。公園を出る頃には、私たちはまたかけがえのない友人になる。

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