第25話:白黒(2)
誰にだって一目で分かるくらいに、ルナは怒っていた。心のどこかで笑って許してくれる優しいルナを期待してしまっていたけれど、そんなに都合のいいことなど起こるはずもなかった。
纏う空気や言葉の鋭さが雄弁に語りかけてくるから、お詫びの印として作った豪華な朝ごはんもなかなか喉を通らなくて、とにかくなんとか謝罪をしなければと思った。全面的に私が悪かったこと、他意はなかったこと、次は絶対にしないための改善策を告げると、ルナの眼光はより鋭くなって私は背中に汗をかいた。
長い沈黙、ルナの視線がテーブルへと落ちる。罪人が裁判官からの判決を待つような心地でルナの言葉を待っていると、ルナの口から予想外の言葉が飛び出して、私は一瞬自身を疑う。キスをしてくださいと、言われた気がする。その言葉を頭の中で修正してみたものの、他の意味で成立しそうになくて、私はルナにもう一度確認する。どうやら間違ってはいないようで、私の言葉にルナは更に言葉を鋭くする。
はっきり言ってしまえば意味が分からない。
それでも、それをすればルナは許すのだと言うのなら、するしかないのだろう。いや、本当にいいのだろうか。心は決まらないまま、ルナの前に立つ。これはルナを傷つけたりしないだろうか。本当にこれで昨日のことを許してもらえるのだろうか。分からない、恐らく分かるはずもない。
ルナの顔が近くにある。奇麗な大きな瞳、すっと流れる鼻筋、形のいい唇。昨日の夜も、確かに奇麗だと思ったことを覚えている。その瞳が私をまっすぐに見つめ返すから、嫌でも心臓が跳ねる。どうやらルナは本気らしく、もう引き返すことは叶わないらしい。
ゆっくりと近づくと、受け入れるように目を閉じるから私も目を閉じる。
触れる柔らかさに、柄にもなくドキドキする。キス位でこんなに緊張するのはいつぶりだろう。いや、そうじゃなくてどうして私は今ルナとキスしているんだろう。どれくらいしていればいいのか、もう離れた方がいいのか。
柔らかい。いや、考えてはいけない。これは愛の営みではない。
ゆっくりと離れる。どうかまた怒っていたりしませんように。気持ち悪いと泣かれませんように。ルナの気が済むのならもうなんだっていい。目を開けると、まだ目を瞑ったルナがいてその表情さえも美しいと思う。そんなことを考えていると、ルナの瞼がゆっくりと開いていく。
「え……?」
どうして、そんな表情をするのだろう。
初めて会った時に見たような、困ったように笑う顔。私の選択は間違ったのだろうか。じゃなければ、こんな表情にはならないはずだ。
普段の明るいルナを知っているからもう分かる、その表情は貴女が普段見せるものではないこと。
「じゃーこれでチャラですね」
「え」
まるでスイッチを切りかえる様に明るい声でそう言うと、ルナはまたご飯を食べ始めた。私はもう自分の選択が正解なのか不正解なのか分からなくなる。トーストを齧るルナを見つめていると、食べないのかと聞かれるから、とりあえず席につく。
いいのだろうか、これで。
確かに私の行いは許されているように思う。私に話しかける声色も、その言葉の鋭さもすっかりと元に戻っている。それでも、やはり私の選択は間違いだったのではないかという疑念が拭えない。ルナにまたあんな表情をさせてしまう選択なんて、正解とはどうしても思えない。
尋ねてみてもいいのだろうか。本当にこれで良かったのかと。経験上一度打ち上げられた話題を蒸し返すのは良くないことのように思う。それでもルナにそんな表情をさせてしまった理由が知りたい。そうじゃなければ防ぎようがない。
「そんなに怖い顔しないでくれます?」
「え、怖い顔?」
「あー、深刻そうな顔? 納得いってない顔? どれでもいいですけど、それ以上その顔してると次は私からキスしますよ」
「一旦ストップ」
そろそろ消化不良の事柄で頭がパンクしそうだ。一体どういう理屈でそんな言葉が出てくるのか。もしかして今もまだ怒っているのだろうか。遠回りに責められている? それとも私とルナの中で認識の歪みでも出来ているのだろうか。
「今回の件に関して由紀さんが悪いことしたから叱った、それだけです」
「しかっ……そうね」
反論の余地がない。
「それで私にキスするととても罰が悪そうな顔をするから、それなら罰として使ってみようかなって」
「抑止としてキスを使われるのは初めてね」
つまりもうこの件は蒸し返すな考えるな、ということだろうか。全面的に私が悪い手前、反論もしずらい。どうやら確かに、私は押しに弱いのかもしれない。今回の件は十分に反省して、今後はルナをそんな表情にさせないよう努めることが、私にできる最大のことなのかもしれない。居心地がいいからとだらけきってしまわないようにしよう。
「わかった。 この件はこれでおしまい」
「賢い飼い主ですね」
「……」
最大の皮肉かと心臓が縮んだ。私が肝を冷やしている傍ら、ルナは私を見て楽しそうに笑っている。飼い主とは言うものの、もう完全に立場は逆転してしまった気がする。元々しっかりとした性格ではないし変に頼られるよりはいいけれど、なんとも言えない引っ掛かりのようなものも感じる。とにかく、ルナは怒らせると怖いという事は肝に銘じておかなければならない。
フォークでトマトを掬う。すっかりと冷えてしまったトマトの酸味を感じながら、これからの在り方を考えることにした。
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