第24話:白黒


 朝、目が覚めるとベッドに由紀さんはいなかった。昨日は結局ソファーに放置してしまったけど、もしかしてまだソファーで寝てるのかな。

 時刻を確認すれば、もうすぐ九時を指す時刻に随分と寝てしまったなと思う。昨日の夜あんまり眠れなかったせいかもしれない。また目を瞑れば、飽きもせずに昨日の光景がフラッシュバックするから、寝返りを打って天井を見つめる。


 思い返すのも、意味を考えるのも意味のない行為なのに、昨日の夜から一向に止まらない。夢に見なくてよかった。一つため息を吐いて、ベッドから降りた。


 リビングに行くと、由紀さんがキッチンにいて目が合うとあからさまに視線を逸らされた。どうやら昨日のことを忘れてはいないらしい。私より早く起きてるのも珍しい。まぁ、この人は家に着いてすぐ寝落ちたから睡眠時間としてはたっぷりあったんだろうけど。


「おはようございます」

「おはよう」


 声が少し強張っている気がする。キッチンに向かうと、由紀さんが朝ごはんを作っていた。トマトと卵がフライパンの中で炒められていて、おいしそうな匂いがする。それにしても、由紀さんが朝ごはんをわざわざ作るなんて珍しい。


「朝ごはん準備してるから食べましょう」

「いきなり普段しないことをしだすのって、大体理由がありますよね」

「……」

「覚えてるんだ」

「……そうね、ごめんなさい」


 昨日の夜とは大違い。合わない視線に、引き攣った頬。普段しないことまでするくらいには、反省してるらしい。許すかどうかは別として、由紀さんが作った料理には興味がある。お腹も減っているし、話はご飯をたべながらたっぷりと出来るだろう。


「顔洗ってきます」

「いくらでも待ってるから」


 言葉のおかしさを突っ込もうか迷ったけど、何も言わずに洗面台に向かった。鏡に映る自分の顔にはうっすらと隈がある。あんなことをされたせいで酷い顔だけど、由紀さんがあれだけ動揺しているなら少しは気が晴れる気もする。あれで一人だけいつも通りだったら本当に一回位蹴ってやろうかと思っていた。


 リビングに戻ってくると、さっきの炒め物とサラダがテーブルに準備されていた。しかも、ツナとコーンのサラダだ。オーブンレンジが完了の音を鳴らして、お皿を準備しようとしたら由紀さんに座っているように言われた。どうやら遂に主従は入れ替わってしまったらしい。


 テーブルにトーストが置かれて、準備が整う。何か声をかけようかとも思ったけど、あえて無言を貫いてみることにする。トーストを齧って、卵とトマトを掬った時だった。


「あの、ルナ」


 フォークから滑り落ちた卵たちを見送ってから、由紀さんへと視線を向ける。畏まる様に背筋を伸ばして、多分両手は膝の上に置かれている。「ごめん」と、そう言って由紀さんは深く頭を下げる。何がですか、と言いそうになるのを喉元に抑えながらその旋毛を眺める。昨日も見たな、由紀さんの旋毛。


「酔っ払ってたからじゃ言い訳にもならないけど、今度からルナの前では絶対にお酒飲まないし、もう絶対あんなことしないから」


 つまりあれは酔っ払ってたからで、特に深い意味は無い訳か。予想していた通りだけど、そうすると由紀さんは酔うとキス魔というやつになるってことになる。


 それに加えて、普段からそこそこお酒を飲んでいる姿は目にするからお酒自体は好きなんだと思う。

 とどのつまり、私の前で飲まないならきっとどこかで飲むんだろう。 


 だったらその言葉は、私の知らない場所で飲んで知らない人にでもキスしますってことじゃん。


「由紀さんは酔うとキス魔になるって自覚あるんだ」

「えっと……そうね、経験上……でも本当に若い頃で、飲み方や許容範囲を覚えてからは本当になかったの」

「でも昨日は許容範囲超えたんですよね」

「……おっしゃる通りで」


 どうしようもなく腹が立つ。

 でもそれは、キスをされたからじゃない。酔っ払った勢いでキスをされたから怒ってる訳じゃなくて、私以外にも同じことをやってることの方がむかつく。さらに言えば、私にするくらいなら他所でする危険をとってるとこも腹が立つ。記憶を飛ばされていた方がマシだったかもしれない。それもむかついたと思うけど、今よりはずっとマシだったんじゃないかな。


「はぁ……」

「う……本当にごめんなさい」


 この人は、キスされたから私が怒ってるって思ってるんだろうな。

 本当に、どうして私は違うことで怒ってるんだろう。キスされたことに怒るのが普通で、こんなのに腹を立てることの方がおかしい。由紀さんがどこの誰とキスしたって、そんなの私には関係ないはずなのに。  


 思考の渦がまた襲ってきて、私は頭を抱える。

 

 昨日からずっと考えてた。

 どうして桜はダメで、由紀さんは平気だったんだろうって。


 そもそも状況が違うから比べようもないけど、それでもずっとそのことが頭から離れなかった。何度も何度も寝返りを打つ位そのことはべったりと頭の中にこびりついていて、嫌でも考えさせられた。結局桜にはそういう意思があったからこそ怖かったけど、由紀さんは酔ってるって分かってたから呆れが先行して、だから平気だったんだって結論づけた。


 でも、じゃあなんであんなにドキドキしたのかとか、仮に桜が酔っ払ってたら平気だったのかとか考えると、思考は行き止まりだった。いや、それ以上は進まないようにしてた。


 知らない誰かに、あるかもわからない未来のことで嫉妬してる今の状況が、立ち止まった私の背中を思い切り蹴とばす。進みたくない一つの結論にまた一歩近づいて、私は思考の最後の一歩手前で立ち止まる。


 親愛だったりしてくれないかな、これ。


「あの……ルナ?」


 だって、恋ってもっと自分で認識しながら歩いていくものだと思ってた。好意をお互いに少しずつ提示して、認識を分かち合って、そうして来るべき時に相手の手を取る。今までそういうものだったはずなのに、由紀さんのはこれまでと全然違っていて、自分の意思からかけ離れている。自分の意思からかけ離れすぎていて、だからできればそんなの抱えたくない。でも、もうこれ以上これに振り回されるのも嫌だ。


「……私のお願い一つ聞いてくれるなら許します」

「え?」

「今まで通り家で缶ビール飲んでくれてもいいですし、昨日のことは全部水に流します」

「……わかった。 なんでも聞く」


 そんなに軽率に頷かないでほしい。もっと慎重に動いた方がいいと思う。なんて、私をここに迎えている時点で手遅れなのかもしれないけど。


「今、私にキスしてください」

「え?」


 由紀さんの目が今までで一番丸く見開く。そうなるのは無理ないよね。こっちはキスされて怒ってるはずなのに、キスをしろだなんておかしなことを言い始めるんだから。

 でも、これで多分はっきりする。視線が由紀さんに引き付けられたのも、由紀さんが笑うだけで心臓が跳ねたのも、キスされても嫌じゃなかったのも、その先を期待してしまった理由も。まさかそんなわけないと最初に笑い飛ばしたはずの結論が、合っているかどうかがきっと。


「本気?」

「はい」

「……どういう理屈?」

「素面の状態で、自分がどんなことをしたのか認識してもらおうかなって」

「なるほど。 一理はあるかもしれないけど、ルナにかける迷惑が大きすぎない?」

「嫌なら嫌って言ってくれます?」

「そうじゃなくて……。 ああもう……いいのね?」


 こっちから提案しているのに、ダメもなにもない。

 頷くと、由紀さんはゆっくりと立ち上がる。戸惑いを表すように、本当にゆっくりとテーブルを回って、私の隣に立つ。化粧を落とした由紀さんの顔は見慣れたそれで、やたらと視線を奪った昨日の由紀さんとは違う。テーブルと背もたれに片方ずつ手を乗せて、由紀さんが屈みながら顔を近づけてくる。


 ダメだな、ドキドキしてる。


 昨日まではこんなことなかったはずなんだけどな。確かに一緒にいる時間は楽しくて、もっと由紀さんのこと知りたいとは思ってたけど、こんな感情からきてはなかった。きてなかったと思う。いや、どうだったかな。それもずっと無自覚なだけだったのかな。今までと違いすぎて分からない。

 

 優しい目尻、焦げ茶色の瞳が私をまっすぐに見つめている。まるで最後の承諾を待ってるみたい。息が当たってしまわないように、ゆっくりと細く息を吐き出して、その瞳をまっすぐに見つめ返す。ここで止めるなら、最初から言ってないですよ由紀さん。

 またゆっくりと近づく距離に、そっと目を閉じる。閉じて数秒、唇に柔らかな由紀さんのそれが触れると、心臓が胸を破いて出てきそうなくらいに飛び跳ねる。柔らかくて、私のより低い温度。由紀さんの唇。もっと、触れててほしい。やっぱり、気持ちいい。


 言い逃れなんて、もう出来ないよね。なんで由紀さんは平気なのか、酔ってるからとか関係ない。答えは由紀さんだから。


 私が、由紀さんのことを好きだからだ。

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