第23話:お出かけ(3)


 離れた顔は、いつもより随分とだらしない。ふにゃりとほっぺを綻ばせて、由紀さんは私に抱きつくと無遠慮に体重を乗せてきた。ずれた重心を一歩足を下げてなんとか堪えて、由紀さんを支える。心臓がドキドキと煩くて、由紀さんの体温が熱くて、私は由紀さんの名前を呼ぶ。

 由紀さんは私の声に反応することなく、更に体重を私に委ねていくから思わず腰に手を回して支える。顔を覗き込むとすっかりと瞼は閉じられていて、どうやらまた眠りにつこうとしているらしい。


 目の前にいるのは地球外生命体?


 よくもまあ人の唇を奪っておきながら寝られるものだ。酔っ払ってるからって許していいのかな。もうこのままここら辺に放り出してしまおうか。自業自得だと思う。でもどこぞの誰かに絡んだりしたらその人が可哀想だし、お持ち帰りでもされたらたまらない。腕の中で動かなくなった由紀さんの旋毛を見ながらため息を吐く。


 結局また腰を支えて、エントランスが見えてきたマンションへと歩き出す。エントランスのロックを解除して、エレベーターに乗り込んで、なんとか玄関まで運ぶと由紀さんを床に転がした。唸るような声の後に、ゆっくりと由紀さんの体が起き上がる。


「着きましたよ」

「ん……おかえり」

「……」


 腹が立つような、なんかもう呆れを通り越して許しちゃいそうな、おおよそ十も歳上の人に抱く感情ではない気がする。深くため息を吐いて、由紀さんを放ってリビングへと向かう。私を癒してくれるのはもうこのソファーだけだ。


「疲れたー……」


 思わず倒れ込んで仰向けになる。真っ白な照明が眩しくて手の甲で目元を隠す。真っ暗な視界の中、唇に触れた感触を思い出すみたいに自身の唇に触れる。勝手に盛り上げといて、何勝手に寝てんだ。最悪。思い出せば簡単に体に熱が篭る。人をこんな風にしておいて、明日には記憶まで飛ばしていたら許さない。一週間はご飯を作らないでおこう。


「るなー」


 遠くから私の名前を呼ぶ声。手をおろすと、眩しい照明に眉を顰める。また呼ぶ声が聞こえてソファーから上体を起こすと、赤ちゃんのように四つん這いでリビングに入ってくる由紀さんが見えて軽く引く。今日ずっと見惚れてた人と同一人物だと信じたくない。


「なにやってんですか」


 ソファーの背もたれをよじ登るように掴んで立ち上がった由紀さんが私を見下ろす。次は一体何をしでかすつもりなのか、表情や今までの経験からでは予想もつかなくて、身構えていると由紀さんが隣に座った。意外とまともだと安心していると、彼女がじっとこちらを見る。次の瞬間、由紀さんがこちらに倒れ込んできて、視界はまた照明で眩しくなった。なんなの、この人。もういっそ床で寝ててくれたらよかったのに。


「重いです、由紀さん」

「ねぇ」


 呼ぶ声に視線を運んで、その顔の近さに呼吸が詰まる。手で上体を支えながら見下ろす由紀さんの顔が、目と鼻の先にある。まだ赤いままの頬、私の耳に落ちるチョコレート色の髪、さっき触れた唇。こんなの、狂わない人なんているのかな。


「おやすみ」

「……」


 猫がお腹の上で眠るように、由紀さんが私の体の上で目を閉じる。数秒をそれを見つめて、私は肺に溜まった息を全部吐き出す。もう本当になんなの、この人。一体どっちが飼い主だというのか、お願いだからしっかりしてほしい。私の大事な由紀さんを返してほしい。

 どくどくと煩い心臓の音も、体をめぐる血流も、出し場のないこの情欲も、全部由紀さんのせいなのに。一体どうやって責任をとってくれるの。


***


 頭を叩きつけられるような痛みと、暑苦しさと、喉の渇き。目が覚めてまずその三つが私を襲う。思わず頭を押さえながら起き上がると、どうやらソファーで寝ていたらしかった。


 締め付けるような痛みを堪えながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。グラスに注いで飲んだ頃、少しずつ意識がはっきりしてきた。棚から鎮痛剤を取り出して、もう一口水を飲む。

 カーテンの向こうはまだ真っ暗で、日も出ていない時間らしい。二日酔いでこんな時間に起きたのは久々かもしれない。というか、どうやって家まで帰ってきたのか記憶がない。


 自分の格好を見てみればワンピースのままだった。自分のいい加減さに今更落ち込みもしないけれど、記憶が曖昧なのはいけない。過去の苦い思い出を思い出しそうになって思わず顔を振る。


 イタリアンのお店に行ったことは覚えているし、美味しかったのも覚えている。特にサングリアが甘くて飲みやすくて美味しかった。それを何杯か飲んだあたりから、少しずつ記憶の中の時間が飛び飛びになっていて眉間を押さえる。

 信号が赤だった時に変な人にルナが絡まれていて、気づいたら最寄り駅の風景になっている。半分寝ていたのだろう。次はもうマンションの前まで来ている。どうやらルナにお店から家までお世話させてしまったらしい。ルナが起きたらお礼をしよう。


「…………ん?」


 目を瞑って眉間を押さえる。二日酔いとはまた違う意味で頭が痛くなってきた。どうか夢であってはくれないだろうか。この映像を現実だとは認識したくない。認識はしたくないけれど、過去にこういった事がないかと言われれば、答えはノーだ。


 どうして、マンションの前でルナとキスしているのだろう。

 前後の記憶がほとんどない。ただルナを見上げて、その後にはもうキスをしている。全くもって訳が分からないけれど、少なくともルナが悪くないことは分かる。過去と同様、酔っ払った私の奇行なのだろう。


 明日、私は一体何度ルナに謝れば許されるだろうか。

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