第17話:ここにいて


 適度な距離感を気に入っていたはずだった。

 ルナには来たい時にここに来て、帰りたい時に帰ってくれたらいいと、そう思っていたはずだった。

 

 べったりと汗をかいて、それでもへらりと笑う彼女を見た時、初めて彼女と出会った日を思い出した。悲しげな表情を隠すように笑う癖を、私はあの日もみたことがあったから。


 私は昨日ここを出ていく時の寂しそうな顔を引き留めなかったことを後悔した。張り付いた前髪をそっと撫でる。力の入った体が少しずつ弛緩していくのを見つめていると、少なくとも私は彼女の脅威ではないのだと思える。

 それと同時に、彼女をこうさせてしまうものから離れさせたいと、どうしようもなくそう思った。


 勢いに任せた言葉なのは自分でも理解していた。ルナが高い壺を買わされるなんて言うくらいには、この発言が危ういものだというのも理解していた。それでも、ルナがこんな日々を過ごすことに比べたら、騙された方がいいとさえ思ってしまった。


 ルナに、悲しい顔も寂しい顔もしてほしくない。

 ここが、あなたにとって心休まる居場所になってくれたらいい。


「どっちのパンがいいです?」

「……じゃあこっち」

「フレンチトーストですね」

「私はコーヒー飲むけど、ルナは?」

「じゃあ私も」


 ソファーに座って、二人で遅すぎる朝ごはんを食べる。コーヒーを淹れて、ルナ用に砂糖とミルクを取って戻ってくると、ルナが私を見上げて笑う。その顔を見ていると頭を撫でてしまいたくなる。両手がふさがっているお陰でできないけれど。


「ルナってコーヒー苦手?」

「え? んー、ブラックは苦手ですけど、砂糖とミルクがあれば好きです」

「なるほどね」

「あはは、無理して合わせてるって?」

「すこしだけ」


 彼女は最初こそ無茶なことを言ってきたけれど、本来はこちら側の意志をくみ取るのがうまい人だと感じるから、そういう小さな部分で何も言わず合わせてくれているかもしれない。今度からは、そういう一つ一つをできれば知りたい。ふわふわとした関係はそれはそれで居心地が良かったけれど、ちょっとの縁じゃ終わりにしないことを、どうやら私は選んでしまったから。


「由紀さんはブラックコーヒーが好きで、でも甘いものも好き」

「うーん、甘いものは好きだけど、そんなには食べないかな」


 私の意図を察したのか、ルナまで私のことを聞いてくる。それは彼女が私の考えを受け入れてくれているということだろうし、彼女もまた新しい関係を築こうとしてくれているのだろう。やっぱり、私はルナのそういうところを好ましく思う。助けるつもりもなかった野良猫に手を差し伸べてしまったのも、ルナがそういう子だからなのかもしれない。

 

「でも前ケーキ買ってました」

「あぁ、あれは誕生日だったから一応」

「え?」


 あの日はわざわざ言うことじゃないだろうと言わなかったんだっけ。


 驚いた顔をしたルナは、その後に拗ねたように口を尖らせて、何故言わなかったのかと私を責める。言うようなことじゃないと思ったことを正直に言っても、ルナの表情は変わらない。聡いくせに、子供っぽい。にゃぁと鳴いた彼女を思い出して、思わず頬を緩めると、彼女は頬まで膨らませる。


「ごめん、今度からそういうのも言う」

「そうしてください。 私だって本当は由紀さんのこともっと知りたいんですから」

「じゃぁ私ももっと根本的なことから聞いてもいい?」

「あ、そうですよね」


 そうだ、そもそも一緒にしばらく住むなら、コーヒーの嗜好性よりももっと大事なことを聞かなければいけない。


「名前は?」

「あー……でも由紀さんにはルナって呼んでほしい」

「呼び方は変えないけど、知っておきたい」


 苦い顔をされている。ルナはポケットからスマホを取り出して、何か操作をしてから私に差し出す。表示されたQRコードは、読み込め、ということだろう。テーブルに置いてあったスマホを取って読み込むと、立川あさひ、という名前と黒猫のアイコンが表示された。なるほど、まぁ一応私の質問には答えていることになる。


 質問返しで曖昧にされたあの日からは、きっと確かに進んでいる。


「じゃぁ、年齢」

「あー……」

「ちょっと、一つ一つごねられたら今日が終わるでしょ」

「……」


 ルナの右手の人差し指がピンとのびる。その後に両手を使って、九を示す。一と九は、私の勘違いで泣ければ十九を指しているのだろう。その事実に思わず頭を抱える。一応、法律的には成人になるんだっけ。いやでも、十歳年下だなんて。


「え、待って、ここに初めて来た日あなたビール飲んだでしょ」

「飲んだっていうか、試飲、みたいな?」

「馬鹿」


 ため息をこぼすと、彼女は誤魔化すみたいに笑う。頭が痛くなってきた。やっぱりうっかりと手を差し伸べるなんてするものじゃない。とはいえもう言ったものは取り消せないし、これを機に出来る限り知っておいた方が後々の為になりそうだ。


「因みに誕生日は?」

「十二月八日ですね」

「まだ結構先な訳ね……」

「由紀さんの年齢は?」

「あー……」

「あ、ごねてたら今日が終わっちゃいますよー?」


 少し前までならぎりぎり一桁差だったのに。いや、もはや誤差だろうか。ルナが私に対して敬語が残っている辺り私を年上とは思っているのだろうけど、予想以上に年上でびっくりでもされたら少し寝込むかもしれない。

 

「……」


 右手で人差し指と中指を立ててから、両手で指を九本立てる。


「二十九歳で、誕生日は四月十九日、ってことですね」

「そうね……」

「覚えました」

「忘れていいけど」


 彼女的にはそんなに気にしていないらしい。そういうものだろうか。とりあえずこの話題がこれで終わるなら一旦終わらせよう。心がズキズキとしているのも見て見ぬふりをしよう。


 後は、彼女がここにいるうえで必要な物はなんだろうか。


「ルナは普段誰かと住んでいるの?」

「基本実家ですけどあんまり帰ってないです。 それに着替えとかは取りに行ってるので、私が帰ってこないって捜索願が出されたりとかはまずないです」

「……なるほどね」


 それなら、ひとまずは大丈夫だろうか。帰っていない理由や帰ってない間どこにいるのかなんて聞きたい気持ちはあるけれど、こればっかりはルナの気持ちが優先だろう。何かを聞いて、またルナが怖がるようなことを思い出させてしまうかもしれないし、とりあえず今じゃなくていいだろう。


「じゃあ最後」

「はい」


 ソファーから立ち上がる。確か、寝室のベッドサイドテーブル下の引き出しに入れていたはずだ。少し古い記憶を辿ってそこを開けてみれば、目的のものがそこに鎮座していた。


「由紀さん?」

「ん」


 寝室を覗き込むルナの元に戻る。猫のように私の後をついてきて、私がソファーに座るとルナも座った。彼女に、それを差し出す。


「鍵、ここのね」

「……おー……」


 彼女の手のひらに鍵を置く。毎日エントランス前で待ち伏せされるのは堪らないし、ルナを信用するという証でもある。彼女の手のひらがゆっくりとそれを包み込んで、大事そうに胸元で握りしめているのを見ると、色々と大変な選択をしてしまったことも、意味があったと思える。


「ありがとうございます、由紀さん」

「ん」


 私は、この選択肢を後悔しない。

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