第16話:居場所(3)
「好きに使っていいから。 じゃ、おやすみ」
「え?」
由紀さんの後ろについていくと、寝室のドアを前にそう言われた。服、お風呂、ソファー、キッチン、テーブル。思いつく家の中のものを羅列した由紀さんは、そのまま寝室へと入っていく。どうやら二度寝を決め込むつもりらしい。朝ごはんは、とりあえずテーブルに置いておこう。
寝室に入ると、由紀さんはもうすでにベッドで横になっていた。一応棚を開けることを独り言のように小さく宣言して、前にかりたスウェットを探す。上から三段目の引き出しを開けたところで見つかって、下着なんかを見てしまうことは避けられた。素早く着替えて、由紀さんの隣に入り込む。
「一応聞くんですけど、外に出たらベッドに入るなとかありますか」
「残念ながら残業で疲れ果てるとそのままベッドなの」
「これも一応なんですけど、ちゃんと昨日お風呂にははいってます」
由紀さんの目が開く。眠たげな眼が私を見つめたかと思えば、彼女の手が伸びて引き寄せられた。息しづらい位に抱きしめられているのは、多分、もうなんでもいいからしゃべるなってことなんだと思う。これ以上睡眠を邪魔する方が悪い気がして、そのまま大人しく目を瞑る。そういえば、由紀さんの手は全然平気だな。
由紀さんの手の感触も、温度も、やっぱり心地いい。体に馴染んできたスプリングの反発に、由紀さんの温度。夜には一向に訪れなかった睡魔が瞬く間に瞼を重たくする。なんで由紀さんは大丈夫なのかな。奈美だって何か意志をもって触れてきたわけじゃなかったし、それは今の由紀さんと同じはずなのに。
どうして、なんて本当のところはわからないけど、ここにいたいって、ただそう思う。この場所だけが、心から落ち着くことができるから。
彼女のお腹に腕を回すと、彼女の手が頭を撫でた。
***
真っ暗な闇の中、手が肩に触れる。さっきまでとは違うベッドの感触。さっきのよりも柔らかくて、体が沈むスプリング。手が肩に触れて、ゆっくりと腕を滑っていく。私の名前を呼ぶソプラノの声。あ、これあの時の夜だ。そうは分かっていても体はあの時を再現するみたいに動かない。隣にいる人は、ゆっくりと起き上がって、私のことを覗き込む。
桜がゆっくりと体を撫でていく。輪郭をなぞるように撫でて、腫れた頬にそっと触れて、私はようやく目を開ける。
頬に触れた手がゆっくりと首へと移動して、鎖骨を撫でる。ゆっくりと顔が近づいて、桜の息が熱く頬を撫でる。
唇に触れる、その瞬間だった。
「ルナ‼‼」
「っ、」
頭に直接流し込んだみたいな大きな声に飛び起きた。心臓がバクバクとして、多分寿命が十年位縮まったと思う。胸元を押さえながら寝室の入り口を見ると、由紀さんが私に駆け寄ってくる。
夢。そりゃそうだ、あんなの何度もあっちゃたまらない。肺に溜まった息を吐き出すと、べったりと額に汗が滲んでいるのに気づいた。正真正銘の悪夢だ。
「うなされてたけど大丈夫?」
「……あー、いや、はい」
「……」
変な返事になってしまった。まだ心臓が嫌な音を立てていて、喉が渇いて、うまく頭が働かない。隣にきた由紀さんが、私の前髪を撫でて、多分私が落ち着くのを待っていてくれている。
何度か深呼吸をすれば少し気持ちが落ち着いてきた。由紀さんがずっと心配そうに私を見るから、何か話題を逸らしたいな。
「今何時です?」
「今はちょうどお昼くらい」
「おー、めっちゃ寝てましたね私」
「……昨日、あんまり寝てない?」
あぁ、逸らすの失敗しちゃったな。
はいともいいえとも言えなくて情けなく笑ってみれば、由紀さんがまた心配そうな顔をする。気楽な存在でいたいのに、変な心配なんかかけたくないのに。由紀さんにとって居心地のいい存在でいたいのに。
私といるときに、そんな顔なんかしてほしくない。
「お腹すきましたね」
「……パン、ルナが買ってきたの?」
「あ、そうでした。 由紀さんはもう食べました?」
「私も起きてからルナの寝顔見てたから、ご飯はまだなの」
「あー……あはは、由紀さんも悪趣味ですね」
由紀さんの口角が緩く持ち上がると、私の心も少し持ち上がる。とりあえず起きて、ご飯を食べよう。由紀さんが入れてくれたコーヒーとかを飲んで、それでまたお互い自由に過ごして、何気ない会話をしていけば、またすぐいつもの空気が戻ってくるはずだよね。
「全然起きてこないから様子を見に来たらね、ルナが苦しそうにしてた」
「あー……あはは、掘り返します?」
なんでかな、今日は全然見逃してくれない。逸らした視線の意味を、受け取れない人じゃないはずなのに。変わらずじっと見つめてくるから、私が先に視線を戻す。見つめてくる焦げ茶色の瞳が、心配そうに揺れている。ここに来ない方がよかったかもしれない。
「……昨日の夜、ここに泊まらせればよかった」
「え」
私の考えていたことと真逆の言葉に目を丸める。由紀さんの手が、ゆっくりと私の頬を撫でる。もう腫れてもないし痛みもないのに、労わるように頬を撫でて、彼女は痛そうな顔をしている。
本当に、優しすぎる人だと思う。撫でる手のひらが柔らかくて優しくて、すり寄るように頬を押し付ける。心配してくれている。私を雁字搦めにするその視線が、どうして由紀さんだと嬉しく思うのかな。どうして、こんなに嬉しくて胸が苦しくなるのかな。何が違うのか、相変わらず答えは見つからない。
それでも、由紀さんの言葉を嬉しく思っている自分がいるのは事実だ。
「ねぇルナ」
「なに、由紀さん」
「……しばらくここにいたら?」
今、その言葉はずるい。嬉しさに嬉しさを重ねられてしまったら、本当に甘えたくなる。ここにいたいと言いたくなる。そんなの、いいわけない。何も関係ない由紀さんに甘えていい理由なんてない。
「由紀さん、高い壺とか買ったことあります?」
「そういうのは無縁のはずなんだけど……ルナが例外だから」
「私にだけお人よし?」
「そういうことね」
せっかく甘えすぎないように我慢しているのに、どうしてこの人は甘やかしてくるのかな。私だけが例外って、まるで私が特別だって言われているみたいじゃん。そんなの、甘えてもいいかもって思っちゃう。だって、私だってここにいたいって思ってる。心地よくてあったかくて、由紀さんがいるこの場所に、いていいのなら私は。
「本当に住み着いちゃいますよ」
「あんなに苦しそうなルナを見るより全然いい」
「え」
「ルナは、笑ってる顔の方が似合うと思う」
そう言って本当に優しく笑うから、不意に鼻の奥がツンとした。
あの夜、声をかけたのが由紀さんで良かった。私を拾ってくれた人が由紀さんで良かった。由紀さんが甘えてもいいって言ってくれるのなら、誰よりも居心地が良くて、あったかくて、優しい由紀さんが言ってくれるなら。
この場所を、私の居場所にさせてほしい。
「ありがとうございます、由紀さん」
「ん、決まりね」
落ち着いた由紀さんの声が、少しだけ嬉しそうに揺れている。
たったのそれだけが、またすこし泣きそうになるくらいに嬉しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます