猫の縄張り

第11話:居場所


 財布もスマホもない人間というのは非力だと実感しながら、たどり着いた家で太ももやふくらはぎをマッサージする。朝から昼過ぎまで歩き続けた足は棒のように硬くなっていて重たい。電車で数駅だからいけると思ったんだけど、大人しくお姉さんにタクシー代貸してもらえばよかったかな。


 そのままベッドに寝転がると、昨日の夜とは違うスプリングの感触。


 本当に、不思議な人だった。

 出会ったばかりの人間を泊めるなんてよっぽどのバカかお人よしだと思う。まぁ、私の頬が腫れてたおかげなのかもしれないけど、それなら殴られたのもほんの少しはラッキーだったかもしれない。目を瞑って、あの人がルナと呼ぶ声を頭の中で再生してみる。高すぎない落ち着いた響きを再生していると、自然と彼女の柔らかな目尻を思い出す。


 お父さんに殴られてなかったら出会っていなかったし、桜とあんなことになっていなかったら、やっぱり出会ってなかった。まぁ、そのどれもないのが一番良かったのは間違いない。本当に、一日で色んな事が起こったと思う。暗い部屋の中伸びてきた手が由紀さんの顔を握りつぶして、咄嗟に目を開ける。

 あぁ、余計なことまで思い出してしまった。


 寝返りを打って、ベッドサイドテーブルに手を伸ばす。いつもそこにあるはずのスマホがなくて、桜の部屋に置きっぱなしにしてしまったことを思い出す。忘れていたことが、次々と降ってくる。


「最悪……大学も初めてさぼっちゃったし」


 立ち上がるだけで足が痛いけど、シャワーでも浴びよう。両親が帰ってくる前にここを出て、誰か友達の家……って、だからスマホがないんだ。


 桜の家は由紀さんの家にも近いけど、スマホを取りに行く気にはなれないし、もういっそ新しいスマホでも買いに行こうかな。いや、友達の連絡先なんて頭の中にはストックされていないからどちらにしても一緒か。あー、詰み。


「足いってー……」


 ブリキのおもちゃのような足取りで浴室に向かう。まだ親が帰ってくるまでには時間があるし、それまでにどうするか決めよう。ゆっくりと階段を下りていると、それを待っていたかのようにインターホンが鳴った。痛い足をなんとか急がせてドアホンを確認すれば、奇麗な黒の長髪に、不安げな顔。桜だった。


 いや、私の家、よく覚えてたなこいつ。一回だけ遊びにきたことがあるけど、あれだって高校生の頃だったはずだし普通は覚えていないと思う。


 応答ボタンを押した方がいいのか、このまま無視してしまおうかと考えていると、二回目のインターホンが鳴った。


 要件だけ聞いた方がいいか。ムカつく内容なら、ドアを開けなければいい。もう一度ボタンを押して、拒絶してしまえばいい。応答ボタンを押すと、外の音が聞こえてくる。


「……なに?」

『あ、あさひ、あの……謝りたくて』


 しおらしい態度が逆にムカつく。本当に反省してるなら、1週間くらいは顔を見せないんじゃない?

 おかげでこっちは目を瞑るだけでトラウマみたいにフィードバックしてるのに。頭の中に溢れてくる悪態を吐き出す代わりに、一つ舌打ちをする。


『あ、ごめん……顔も見たくないよね。 あの、スマホ、持ってきたからポストに入れておくね』


 泣き出しそうな顔。いつも私の世話を焼いてくれる明るくて溌剌とした彼女とは真逆の表情に、ほんの少しだけ罪悪感が募る。昨日までは誰といるより気楽で、落ち着いて、相手がどう考えて感じるかなんて考えなくて済む会話が心地よかったはずなのに。


 振り返って帰ろうとする彼女の名前を呼ぶ。


「謝るなら……なんであんなことしたの」


 彼女がこちらを振り返って、気まずそうに俯く。前髪が落ちて彼女の顔に影をつくる。舌打ちもこの質問も、私は本当に性格が悪いな。真っ直ぐには言わず回りくどく彼女を責めている。長い沈黙のなか、彼女への怒りと罪悪感とが混ざり合っていく。


『あさひのこと好きなの』


 機械音に変換されて、彼女の言葉が私の元へと届く。


 持ち上がった顔は、カメラの向こうにいる私をまっすぐに見ていて、私はその視線から目を逸らした。本当はそうなのかなって思ってたって言ったら、彼女はどうするんだろう。


 なんて、本当に最悪な性格してる。でも、好きだからってしていい訳じゃない。それなのに、なんで私がこんなに苦しくならなきゃいけないんだ。


『本当にごめんね』


 そのごめんねは、どれに謝ってるの。どろどろに混ざり合った思考がうまくまとまらないまま、画面から彼女の姿が見えなくなる。私は桜の、なにを見てたんだ。何を、見ないままにしようとしてたんだ。


 ぐちゃぐちゃに混ざった思考が膨らんで体を圧迫するみたいで、その苦しさにしゃがみこむ。何も考えたくない。親の言葉も、桜の言葉も全部なかったことになってほしい。全部私の中から消えてくれたらいい。


 ――――ルナ


 頭の中で、彼女が私を呼んだ。

 いや、無意識的に彼女にすがろうとしているんだな、これ。


 でもこんな時くらい逃げさせてほしい。私のこの全部を捨てて、太陽ではなく月の名前で呼ばれる心地よさに身を委ねたって罰は当たらないはずだ。私を時々しか見ない目が安心する。起伏の少ない時間が安心する。彼女の隣だと、目を瞑っても怖くはなかった。私を猫位に思っていて、何も干渉してこようとはしない人。今の状況では唯一落ち着ける場所。


「……もう一回行ったら、また困った顔するだろうな」


 私が提案する度に僅かに眉をしかめていたのを思い出す。それでも不思議と、絶対にダメだとは言われない確信がある。幸いスマホは帰ってきたし、財布も家にある。昨日と、後今日の分も合わせて何か手土産でも買っていこう。そんなことを考えているだけで、ほんの少しだけ気分が紛れる。


 ほんの少しだけ、居場所にすることを許してほしい。

 

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