第8話:懐く(3)
シャワーを済ませてリビングに戻ると、今日は着替えを持ってきているルナが交代で浴室へと行ってしまった。
閉まった扉を少しの間見つめる。少しだけ話したルナはいつもどおりだった。
やっぱり、あの表情に特段意味はないのだろう。
怒った訳ではないだろうし、泡を取ることに真剣になっただけかもしれないし、本当に特に意味はないのかもしれない。どちらにしても、気にするだけ無駄だ。
キッチンへと移動して、冷蔵庫からケーキを取り出す。
せっかくだしとお皿に飾り付けて、コーヒーも用意してテーブルに並べると、ルナがシャワーから帰ってきた。タオルで髪を拭きながら、ケーキを見て目を輝かせる。
「ようやくデザートタイムですね」
「コーヒー、ルナも飲む?」
「飲みます」
マグカップにもう一人分コーヒーを注いでいると、ルナがこちらにきた。珍しくもないだろうにじっと私の方を見ている。
「あの、砂糖とミルクってあったりします?」
「あぁ、その視線はそういうこと。 後ろの棚の上の段にあるから」
「おー」
後ろで物音がする。
マグカップを持って移動すると、ルナもついてきた。向かいの席にマグカップを置くと、その隣にスティックシュガーが二つに、ミルクが一つ置かれた。コーヒーはあんまり飲まないのかもしれない。覚えておこう。
「それにしても、一人だけケーキがあるテーブルを見ると罪悪感があるんだけど」
「あはは、じゃぁ私ソファーの方いってますよ」
「食べないの?」
「え?」
あ、と思った頃には遅かった。
一口だけ食べると言っていたのは冗談だったのか。驚いたように目を丸めたルナが、ゆっくりと目を細める。なんとなく視線を逸らして椅子に座ると、前の席に彼女が座った。
「由紀さんって優しいですよね」
「十人いたら八人位同じこと言うと思う」
「私の主観の話です」
買ってきたケーキを食べる。少し酸味のきいたチーズケーキは、確か去年のクリスマス以来だけれど相変わらず美味しい。一口掬って、彼女の方に差し出す。
「ん」
「……あはは」
彼女があけた口の中にケーキを放り込む。彼女の顔が綻ぶのを見ていると、本当に猫を飼いたくなってきた。ペットと見つめあうだけで幸せホルモンが出るみたいなネットニュースを以前見たけれど、どうやらあれは本当らしい。この家はかなり気に入っているから引っ越しは嫌だけれど、こういう癒しはかなり魅力的に思う。
「なんか……」
「ん?」
「……溶けそうですね」
「え? あぁ、頬がってこと?」
頬がとろける、とかほっぺがおちる、みたいなニュアンスだろうか。ケーキを気に入ってくれたということだろう。もう一口掬って彼女に差し出すと、彼女が声を出して笑い始めた。
「あはは、あー……そう、ケーキがおいしいって話です」
「違った?」
「どっちだと思います?」
綺麗な歯列を覗かせて彼女が笑う。からかうような笑みは、きっと私の受け取り方が違うという意味なのだろう。そうなのだとしたら、一体何が溶けそうだというのか。
彼女の手がスプーンを持つ私の手を包む。そのままスプーンに近づいて、彼女の口がスプーンを咥える。
「うん……溶けそうですね」
「からかってるでしょ」
「あはは」
彼女が楽しそうに笑っているのを睨みながら、ケーキを一口食べる。彼女は会話をぼやかして楽しむのが好きらしい。彼女のことを知っていけば、ぼやかした言葉を見つけることができるようになるのだろうか。いつか、そうなったら楽しそうだとは思う。
どちらにしても、今は到底探り出せそうにもないけれど。
「悪い子にはもうあげない」
「もう二口ももらったので、後は全部由紀さんが食べてください」
残りわずかなケーキを頬張っている間にも、何故だかルナは始終楽しそうな顔をしていた。からかうことは好きな部類に入るのだろう。もし次にペットを飼うことになったら、もっと素直な子にしようと心に決めて、最後の一口を彼女に差し出せば、彼女はまた目を細めて笑った。
「あげないって言ってたのに」
「いいでしょ別に」
「本当に猫になって由紀さんに飼われたいですね」
「もう少し素直な猫になったらね」
彼女が笑って、最後の一口を食べる。
美味しいと笑う彼女の表情はチーズケーキよりも甘くて、私は堪らず一口コーヒーを飲み込んだ。
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