第6話:懐く


 寝不足なのもあったけれど、今日は定時に会社を出たかった。

 理由は、最寄駅近くにあるケーキ屋さんが十九時に閉店してしまうから。自分の誕生日位、残業せずに帰ってケーキ位食べてもいいだろう。


 当初の予定通りに仕事を片付けて、ケーキを買って帰路につく。昨日とは真逆の、全てが想定通りに進む日。


 そのはずだった。


「おー」

「おー、じゃない。 待ち伏せ?」

「はい」

「はい、じゃない」


 マンションのエントランス前に彼女はいた。


 昨日とは違う服、クリーム色のセットアップに黒のTシャツはシンプルなのにオーラがある。それに、手にはスマホを持っている。

 一度家に帰った、ということなのだろう。


 だったらどうして、私を待ち伏せする必要があるのだろう。今日は家に帰れない理由はないのに。


「流石に怖い」

「怪しい者じゃないです」

「優しさにつけこもうとしてる?」

「それも私に気をつけろって言ったわけじゃなかったんです」


 彼女を通り過ぎて、エントランスの鍵を開ける。中に入ると、隣に彼女が並ぶ。私が本気で嫌がっているわけじゃないことを、この猫は理解してついてきている。


 とはいっても流石に住み着かれるのは困るし、線引きをしっかりするために、一度叱った方がいいのだろうか。


 猫ってしつけ、できるんだっけ。


 もう一度横目で彼女を見ると、彼女が大きな鞄とエコバックらしきものを持っているのに気づいた。


「ところでその荷物、何?」

「一泊お泊まりセットと、夜ご飯の食材です」

「怖い」

「あはは」


 確かにまた来てもいいとは言ったけれど、連日来ていいという意味ではないし、きっとそれは賢い彼女なら理解しているはず。わざわざそんな準備までして隣で楽しそうに笑っている彼女は確信犯に違いない。


 私は叱ることを諦めて、ため息を吐きながらエレベーターを降りる。


「由紀さんのその紙袋はなんです?」

「……なんだと思う?」

「あ、質問返しだ」


 そう言って彼女が目を細めて笑うのを横目に玄関の鍵を開ける。相変わらず、好きな笑顔をする。家の中に入ると、彼女は律儀に「お邪魔します」と言ってついてきた。


「あ、その紙袋の名前、駅前にあるケーキ屋さんだ」

「あーあ、正解」

「残念そうですね……甘いものが好きなのもギャップあっていいと思います」

「私、ギャップありすぎじゃない?」

「あはは、私的にはラッキーです」


 中身のない会話だなと思う。普段はあまりしないし、好きでもない。それなのに、彼女とするこんな会話は嫌いじゃない。彼女は一体どんな会話術を使っているのだろう。


「残念だけど、ルナの分はないから」

「大丈夫です。 一口だけで」

「フフ」


 本当に、どうしていらだちではなく可愛さが先行してしまうのだろう。


「それで、夜の食材を買ったってことは何か作ってくれるんでしょ?」

「由紀さんが料理あまりしないだろうなっていうのは昨日分かったので」

「賢い猫ね」

「猫の恩返しってやつです」


 子気味いい会話。予想外な出来事は嫌いな方なのに、彼女なら許してしまう。大きな瞳が細まって笑う顔はしばらくは飽きそうにない。


 少しだけゆっくりな、けれど規則正しい包丁のリズムを聞きながら、私の頬はいつの間にか緩んでしまっていた。

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