第3話:あなたの名前


 シャワーを浴びてソファーに座る。缶ビールを片手に、適当な映画を流しながら過ごす時間が好きだった。


 けれど、今日はそんな気分にはなれなかった。その理由は明確で、うっかりと手を伸ばしてしまった彼女がこの空間に一泊することになったからだ。


 私はいつもとは真逆の憂鬱な気持ちで缶ビールを開ける。


 喉を通る苦味と炭酸。喉を通っていく冷たい感触が空っぽの胃に落ちて、そういえばまだ夜ご飯を食べていなかったことを思い出す。いや、もうそんな気力もないし、今日はもうこれを飲んだら寝てしまおうか。


 寝て起きれば、次こそ彼女との縁も切れることだろう。


「シャワーありがとうございました。 それに、パジャマも」

 

 声に振りかえると、私の部屋着を着た彼女が立っていた。持っている中で一番大きいサイズのものを用意したけれど、少し小さくて手首や足首が少しはみ出ている。


「いえ……部屋着、ちょっと小さかったですね」

「全然大丈夫です。それに、綺麗なお姉さんが家だとこういうスウェット着てるってギャップあっていいと思います」

「それはどうも」

「あはは、今度は不発か」


 そう言って彼女が隣に座る。少しこの部屋に慣れてきたのか、隣であくびがもれている。ころころと変わる気分、気ままなあくび、本当に猫みたい。


「あ、髪乾かしてないままソファーとか嫌です?」

「え? いや、気にしたことないかも」

「良かった。 あー、ビールいいなぁ」

「えぇっと……」

「あ、催促じゃないですよ。 ……いや、嘘かも。 一口だけ欲しい」


 そう言って、彼女の大きな瞳がじっと私を見る。濡れた髪に、奇麗な顔立ち。もしかしたらこの人は、私が思っている以上に自分の武器を理解しているのかもしれない。空きっ腹に入れたアルコールで少しだけ頭がふわふわとしている。まぁ、一口位ならいいだろう。欲しがるということは飲める年齢なのだろうし。


「一口だけね」

「おー」


 差し出した缶を受け取って、彼女が一口飲み込む。首、細いなぁ。彼女はおじさんのような声を上げてから、缶をこちらに差し出した。楽しげに笑っている顔をみていると、まぁ今日限りの縁であればこんな日も悪くないのかもしれないなんて、先ほどとは真逆のことを思う。


 こんな出来事人生に一度あるかないかだろうし、隣でにこにことしている子を見ながらビールを飲む日があってもいいのかもしれない。なんてことを思うのは、少し酔っているのかもしれない。


「由紀さんはお酒すきなんです?」

「まぁそれなりに……ねぇ」

「はいなんでしょう」

「……あなたの名前は?」

「え?」


 私だけフルネームを知られているのはフェアじゃない。それに、少しだけ、彼女のことを知りたくなった。これも、きっと酔っているせい。


「……私の名前、なんだと思います?」

「そこも問題なの?」

「あはは、嫌ですか?」

「いいけど……イメージで言うから怒らないでね」

「怒らないですよ……由紀さんが私に抱いてるイメージ、めっちゃ気になる」


 丸く大きな目がまっすぐにこちらを見ている。そこには純粋な興味が映っていて、本当に何を言っても笑ってくれそうな雰囲気を纏っている。とりあえず適当によく聞く苗字に適当な名前を組み合わせて言っていくけれど、そのどれも一瞬で否定されてしまう。


 さすがにあまりに分が悪い。何かヒントをくれないとこのまま夜が明けてしまいそう。


「ねぇ、なにかヒントくれない?」

「ヒントかー……」


 例えば有名人に同じ名前がいるとか、この漢字が入るとか、そういったことでいい。すぐに分からないけれど、すこしだけ絞れる、それくらいのヒントがほしい。


「じゃぁ……次のが正解でいいです」

「え?」


 次が正解、というのはどういう意味だろうか。何かのなぞなぞ形式?

 彼女を見ると、彼女は変わらずまっすぐに私を見ていた。けれど、その目を見ているとなんとなくわかった気がする。これはヒントでもなんでもなく、また彼女の突発的な提案だ。


 彼女は、次に私が出した名前を自分の名前にすると言っている。


「由紀さんが私につけてください。 名前」

「あなたって何もかも突然って言われない?」

「あはは」


 楽しげに笑う顔は、いつまでもつかめないと思わせる。けれどそれを不快には思わなくて、むしろ彼女との会話をどこか心地よく感じている自分がいる。確かに一日だけ呼ぶ名前なんて、本名じゃなくてもいいのかもしれない。


 私が彼女を呼ぶとするなら何になるだろう。彼女の特徴を浮かべていると、名前も知らない彼女をよく猫のようだと思っていたことを思い出す。


「私、あなたのこと猫みたいだなって」

「猫ですか……じゃぁミケとか?」

「綺麗な目をしているし、スタイルもいいから……黒猫とか、ロシアンブルーとかなイメージかな」

「言い始めたのは私だけど、まさかそう返ってくるとは」


 彼女につける名前を浮かべては違うものを考える。それも四つほど浮かべればネタは尽きる。今日一日呼ぶのにちょうどいい、読みやすい名前にしよう。四つの中で、一番呼びやすいものは。


「ルナ」


 猫の名前としてはメジャーで、呼びやすい名前。人だけど。


「月……あはは、すごいですね」

「え?」

「いいですね、ルナ。 私もそれがいい」


 そう言って彼女が嬉しそうに笑うから、私もおかしくなって笑う。今日会った人に名前を付けてもらおうだなんて、それにその名前にそんなに笑うなんて、やっぱりこの人は、この猫は、面白い。

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