第2話:突然足元にすり寄るから(2)


 この家に人が訪れたのは初めてかもしれないと、食器棚にある少ない食器を眺めながら思う。コーヒー、よりはお茶の方がいい気がする。グラスを取って、冷蔵庫から取り出した麦茶を注いでリビングに戻ると、彼女がラグに体育座りで座っていた。


 流石に知らない家のソファーに座る度胸はないらしい。


 それでも、人がいる光景自体が落ち着かなくて、何よりそれが名前も知らない人なことに頭が痛む。


 なぜ、招き入れてしまったのだろう。


「……どうぞ」

「ありがとうございます」


 グラスを差し出して、ソファーに座る。彼女の身長は私より大きく、パーカーを着ていても体の細さが分かる。髪は茶色のボブ。目鼻立ちもくっきりとしていて、容姿は驚くほどにいい。後は、赤く腫れた頬。そのほかに彼女自身から得られる情報はない。


 状況から辿るなら、例えばDVとかだろうか。それなら家に帰れない状況も、鍵を持たず家を飛び出したのも説明がつく。けれど、そんな事情を聞くのは憚られる。


 結局何も聞けないまま、麦茶を一口飲み込む。


「すみませんでした、突然家に入れてくださいなんて」

「あぁ……えっと……」


  そうですね、とは言いづらく、かといってどうぞくつろいで、と言えるほど優しくもない。そんな私の心情を察してか、彼女は困ったように笑う。


 さっきからその顔ばかりしているのが気になる。雨に濡れた野良猫を見ているような気分になってしまう。傘を差して、拾い上げてしまいたくなるような気持ちになる。


「えっと……よりた? ゆき、さん」

「え?」

「テーブルの上に、これ」


 彼女が置きっぱなしにしてあった郵便物を指さす。そこには依田由紀という名前が書かれていて、決して私の名前を事前に知っていた、というわけではないらしい。


「最近忙しくて」

「綺麗なお姉さんの部屋がちょっと汚いの、ギャップあっていいと思います」

「……」


 皮肉なのか天然なのか、リアクションに困っていると彼女が可笑しそうに笑いだして、大きな目が細まる。どうやらからかわれていたらしいけれど、その楽しげな表情を見ていると悪い気はしなかった。


 その表情を横目にテーブルに置きっぱなしにしていたチラシや郵便物を回収する。後で確認して捨てておこう。この部屋の状態は比較的綺麗な方であることも、今は黙っておいた方がいいかもしれない。


「それで、由紀さん」

「なに?」

「私の事情、気になってます?」

「……そりゃ、名前も知らない人にいきなり家に入れてくださいなんて言われたら、どうしたんだろうって思うでしょ?」

「あはは、そりゃ思いますね」


 彼女が突然立ち上がって、私の前を横切って隣に座る。座った振動がソファーから伝わってくる。


「由紀さんは、私に何があったって思ってます?」

「え?」

「由紀さん的推測」


 なんだか変な想像をしていることを全部見透かされている気がする。

 彼女は少しだけからかうような表情でじっと私を見ていて、彼女に気を遣うのもだんだん馬鹿らしくなってきた。彼女もずいぶんと自由にやり始めているし、もうここは率直に言ってしまってもいいのかもしれない。


「同棲相手にDVを受けてて、帰れないとか」

「おー」


 そのおー、はどういう感情のおー、なのか。

 私の言葉に彼女からの答えは返ってこない。素直に言ってはみたものの、やはり少し下世話だっただろうか。少しの気まずさに、グラスへと手を伸ばす。


「由紀さん」

「ん、なに?」

「……今日一日、泊めてくれませんか」

「え?」


 私の言葉に対する答えでもなければ、話の内容すら繋がっていない。更にはおおよそ想像もつかない言葉に、私の頭はいよいよ混乱し始めた。


 一体なにがどうなったらそういう話になるのだろう。会話を遡ったところで彼女の意図はまったく分からない。そもそも推し量る材料がすくなすぎる。


 またからかわれているのかもしれない、そう思って彼女を見れば、彼女はまた悲しそうな顔をしていた。さっきとは別人のような表情に、私は更に混乱を深めていく。さっきのからかうように笑う彼女と、今の彼女は一体どちらが本当なのだろう。そもそもどうして、こんなことになっているのか。


「なんて、冗談です」


 そう言って彼女の目が逸れた。俯いた目、丸まった背中。彼女がゆっくりと立ち上がる。


「すみません、お邪魔しました」

「ま、待って」


 頭の中で警報がなる。何を言おうとしているのか。どうして私は彼女の手を掴んでいるのか。このまま帰ってもらう方がいいに決まっている。野良猫に餌を与えてはいけない。このマンションはペット可ではない。いや、人間だけれど。


 頭が混乱していて、頭の中で紡いだ言葉が声になってくれない。代わりに、私から飛び出した言葉は、選択肢の中でも最悪なものだった。

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