第58話

 二人だけの空間に響いた声は間違いなく彼女には聞こえていたはずだ。


 聡太は自分が何を言ったのか、一瞬理解できなかった。けど、ほんの数秒後に、


(俺、今とんでもないこと言ったよな…?)


 自身の言動を思い返していた。


 何故自分はそんな言葉は言った? 酔っていたとしても今までこんな過ちはしたことはなかった。


 浮き足立つ感情に、自分の想いが留めることができなくなったということか? いや、それにしても今の発言は中々アウトなはずーー。


「あのっ、今のは!」


 聡太はガタッと音を立てて、声を張り上げた。こんなに戸惑うのはいつ振りだろうか。


 彼女は驚いたらしく、びくりと肩を震わせた。けど、彼女は視線を逸らさず聡太の顔をじっと見ていた。先の言葉の真意が気になっているように見えた。


 聡太はそんな彼女の顔を見てどきりとしたが、ぐっと拳を握りしめた。逃げちゃダメだと自分に言い聞かせるように。


 一度、深呼吸してから落ち着きを取り戻した後に聡太は言った。


「こんな感情初めてだから」服の上から心臓を右手で押さえた。


「俺、恋愛なんて全くしたことなかったから。新谷さんの顔を見て、話すだけですごくドキドキするんだ。たぶんだけどこれが好きって感情なのかなって」


 聡太は少し恥ずかしそうにこめかみをかいた。美優の顔を見るのに、初めて激しく緊張した。


「俺はあなたのことが好きになっている。でも、さっきのは酔っていて、まさか口から出るなんて思っていなくて、自分でもびっくりしてるんだ。いきなりこんなこと言われて新谷さんもびっくりしてると思うけど。でも、この気持ちには嘘はなくて、えっとーー」

 

 わけわからず聡太は言葉を羅列していると、不意に言葉を切った。その理由は彼女がけらけらと笑っていたから。


「新谷さん…、どうして笑ってるの?」


 戸惑いながら彼女に尋ねた。


「いや、そんなに焦ってる神谷君見たの、初めてだから、新鮮で」


 美優は目元を拭った。笑い泣きをするほど面白かったのだろう。


「こんなの誰だって混乱するよ…」


 聡太は恥ずかしさで顔を紅潮させた。こんな思いに駆られるのも初めてだった。

 

 美優は目を赤くして、涙を何度も拭って、「そう…。そっか…」と口にした。


「新谷さん?」聡太は彼女に尋ねた。


 美優は、柔らかく微笑んで言った。


「嬉しい…。私も好き。神谷君のこと、好きです」


 どくんも鼓動が跳ね上がった。聡太は目を見開き、彼女の視線を受け止めた。


 嬉しくて、何と言葉に表していいかわからない。嬉しくて。感情が爆発しそうだった。きっとこれが恋なのだろう。


「ありがとう…。それでその、これからどうしよっか?」


 聡太が困ったのは二人の今後の話だ。晴れて両思いになれたのだから、一緒にいるのか、それともーー。


「そうだね。どうしよっか…」


 美優も同じように言った。お互いの事情を知っているからこそ、二人ともそう口にするのだ。


 聡太は自身の思いを整理した。晴れて両思いになって、自分がどうしたいのか。彼女とはどういう関係でいたいのか。


(俺はーー)


 覚悟を決めて、聡太は自身の思いをぶつけた。


「俺は、新谷さんと一緒にいたい、かな」


 そう口にすると、美優は「えっ」と驚いた。


「でも、神谷君は…」そこで彼女は言葉を切った。聡太の立場を考えて本当にいいのだろうかと頭に浮かんだから。


「うん。俺は東京に住んでるから、今は別々だけど、いずれはもっと近い距離でいたいのが、本心かな」


「それって、結婚を前提にってこと…?」


 美優は恐る恐る訊いた。無論嬉しいのは山々だ。


「えっ? あ、まあ、それはその…」


 聡太は自身の言葉を顧みて、戸惑った。視線を下げて、胸の内に抱えているものを吐き出した。


「新谷さんも知ってると思うけど、俺はまだ誰ともお付き合いをしたことがない。だから何もわからなくて、頼りないところだらけだと思う。それでも、そんな俺でも良いのなら、ゆくゆくは結婚を見据えた交際ができたらなって、思ってます」


 聡太は美優の反応をうかがった。女性経験がないことがコンプレックスな彼にとって、それを受け入れてくれる人でなければ、交際は難しい。


 果たして、美優の答えはーー。


「わかりました。じゃあ、これからお願いします」


 柔らかく微笑んで、彼女はぺこりと頭を下げた。


 あまりにも素直なので、聡太は目を見開いた。


「えっ」


「ん? 何かおかしかった?」


「いや、あまりにもすぐに決めたから…」


 大丈夫だろうか、と聡太が不安になってしまう。


「大丈夫。私は覚悟できてるから」


「そう…。俺でもいいの?」


 美優は息を吐き、目を細めた。


「神谷君だからだよ。神谷君は、女性経験がないことが不安?」


「そう、だね。不安かな…」


「私は全然気にしないよ。そんなこと」


「そう?」


「うん。だって女性経験がなくても、神谷君が素敵な人だって知ってるから。それに私的には元カノが誰もいなくて、自分が一番なのがすごく嬉しい」


 心に溜まっていたものが、一気に晴れた気がした。自分が何でそんなことを気にかけていたのか、わからないほどに。


「これが理由じゃダメかな?」


「ううん。ありがとう。おかげですごくスッキリしたよ」


「そう? 良かった」


 美優は嬉しそうに微笑んだ。そんな彼女の顔を見ると、聡太も顔を綻ばせてしまいそうだった。


「じゃあ…、これからよろしくお願いします」


 聡太は頭を少し下げて、微笑んだ。


「はい。よろしくお願いします」


 彼女も笑った。それだけなのに、聡太の心はまた揺さぶられた。


 今、この瞬間、ようやく聡太と美優は恋人関係に至ることになった。



◆◆◆



 

 聡太と美優の関係は一部の者にだけ伝えられた。聡太側は海斗だけ。美優側は、沙耶と先輩社員の美来にだけ伝えられた。海斗に伝えた時は、「そうか。良かったな」とそこまで大きな反応はなかったが、美優の側は違った。沙耶と美来は揃って驚き、喜んだ。


 付き合って月日が立ち、聡太と美優はなんだかんだで上手くやっていた。聡太が忙しすぎて、二人で会うことなんてめったになく、会話は電話かメールばかりだった。それでも美優は彼の状況を理解してたから、文句の一つも言うことはなかった。電話とメールだけの遠距離恋愛でも十分幸せだった。


 けど、それがいつまでもというわけにはいかない。美優は今の仕事を辞めるという、一つの決心を固めていた。


 将来的なことを考えて、やっぱり聡太の側にいたい。大人気アーティストの彼を一番近くで支えたいという思いがあったからだ。


 聡太に電話で相談すると、彼はあっさりと受け入れてくれた。同棲となると今の生活環境が一変し、ストレスを感じるかもしれないから難色を示すと思ったが、意外だった。美優は本当に大丈夫かと彼に尋ねると、


『やっぱり、俺も美優ちゃんとは一緒にいたいから』


 そう彼は答えた。それを聞いて美優は顔を真っ赤にした。誰かに見せられる顔ではないほどに。ちなみに付き合って半年以上経って、美優ちゃん、と聡太から呼ばれるようになった。美優は、聡太君、と呼んでいる。


 ほどなくして、美優は会社を退職した。仲の良かった美来と離れるのは寂しいが、帰省した時にお茶会でもしようと彼女と約束した。


 そして美優は上京した。聡太が住む都内マンションで彼と一緒に生活をすることとなった。


 東京に来て仕事は一から探さなければならない。まだ聡太と結婚していない以上、働かないのはダメだし、もし結婚するとなっても専業主婦の道は今のところ考えてはいない。聡太の貯金だけでも裕福な暮らしはできるだろうが、無理のない範囲で仕事はしたかった。そのことに聡太はもちろんいいと言っている。


「何か、不思議…」


「なにが?」


 聡太がいつも眠るベットの上に、二人並んで寝ていた。お互いの顔は数センチの距離にあった。


 美優は寝返り、彼の方を向いた。彼とはとうに体の関係を済ませていても、こうして彼の顔を至近距離で見ると、まだ胸の高まりは収まることはなかった。


「聡太君と出会って、こうして一緒に暮らしていることが。これまで色んなことがあったけど、こんな人生になるとは思っていなかったから」


「そうだね。まさかこうして美優ちゃんと暮らすとは思わなかったな」


 聡太はふっと柔らかく笑った。彼も美優と同じ気持ちだった。


「ありがとう。美優ちゃん」


「ん? 何が?」


 美優は目を丸くした。礼を言われる覚えはなかったから。


 聡太は美優の方を向いて、優しく微笑んだ。


「俺のこと、ずっと好きでいてくれて。俺、美優ちゃんとこうして一緒にいれて良かったよ」


 その言葉に美優は目を潤ませた。


 聡太がそっと近づいて、体を抱きしめてくる。美優も彼の体をぎゅっと抱きしめた。彼の体温が伝わってきて、心地よかった。


 こんな幸せがいつまでも続きますように。そう美優は心の底から願った。




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