第49話

 ボタンを押すと、車内が軽く振動した。エンジンがついた証拠だ。今の車は鍵をささなくてもいいから、非常に便利だと思う。大学生の時、親のお下がりで使っていた車は鍵をさすタイプだった。古いし、ちゃんとエンジンがかかったのかと、不安になる時がしょっちゅうあった。本当、自分で車を買って良かったと思っている。


 コインパーキングから道路に出た。しかし、すぐ赤信号に捕まり、リズムが悪いな、と感じた。


「ねえ、松浦」


 助手席に座る沙耶が、いつになく落ち着いた声でそう発した。海斗も彼女に合わせたかのように、なんだ、と落ち着いた声で返した。


「ちょっと聞きたいんだけどさ」


「ああ」


「神谷君ってさ、いつからああいう感じなの」


 信号が青になり、アクセルを踏んだ。緩い速度からすぐに六十キロ近く速度が上がった。


「ああいう感じって?」


「なんかその、どこか女性に対して一線を引いているっていうのかな。完全に信用していないっていうのか…。言葉にすると難しいんだけど」


 海斗は黙って前を見据えた。


「神谷君ってさ、これまですごいモテてきたけどさ、交際してるって話は一度も聞いたことないんだよね。昔はシャイなのかなって思ってたけど、今考えると違うよね」


「……」


「そう思ってるのは私だけじゃない。私以上に思っているのは、たぶん美優。あの子、ずっと神谷君のこと好きだったから」


 海斗はウインカーを出し、ハンドルを右に回した。車は右折し、道幅の広い国道に出た。


「神谷君のことについて、松浦は何か知ってるんじゃないかと思って…」


 沙耶の言葉はそこで途切れた。彼女はこちらに視線を送っているが、海斗は知らぬふりをして前を見据えた。


「一つ、俺からも訊いていいか?」


 海斗が言うと、なに、と沙耶は返事した。


「聡太のことが知りたいのは何でだ。それも急に」


「単純に聞くタイミングがなかったから」


「だとしても、珍しいな。カキサヤが聡太のこと気にかけるなんて」


 すぐに沙耶からの返事はなかった。耳には車が次々と追い抜いていく音が聞こえるだけだった。


 数秒経って沙耶は、「あんまり干渉する気はなかったんだけどね。けど、やっぱり付き合いがあれば、気になるから」と口にした。


 彼女は続けた。

 

「神谷君と知り合って友人になれたことで、もっと彼のことを知って仲良くなりたいなと思った。それにもし、彼が闇を抱えてるなら、友人として救ってやりたいって思うから」


 黙って彼女の言葉を聞いた。学生時代から彼女を見てきたが、明るく、お人好しで、他人が困っていたら助ける、そういう性格の奴だった。今もその性格は何一つ変わっていない。


 彼女の気持ちは、海斗もよく共感できた。


「はあーー」海斗は長いため息をついた。「本当、カキサヤって良い人だな」


「えっ、なに急に」沙耶は変な目でこちらを見ている。


「別に、思ったことをそのまま言っただけだ」


 信号が赤になり、ゆっくり減速して車は止まった。


「聡太のことなら、前に一度、葉瑠ちゃんに訊いたことがある。俺もあいつのことかなり前から心配してたからな」


「そうだったの?」


「ああ」海斗は窓枠に肘を置いた。「そりゃ、高校生からもうずっと一緒だからな。さすがに変に思う」


 海斗も聡太の女性に対する異変は前々から感じ取っていた。だからこそ、妹に訊いたのだ。


「葉瑠ちゃんがな、もし他人に言うなら信頼できる人だけに話してって、言ったんだ。カキサヤは信頼できるから話しても大丈夫だろうけど、今から話すことは、他言しないでくれ」


 海斗は彼女を見て、強めの口調で言った。


「わ、わかった。他の人には言わないでおく」沙耶はこちらを見返して頷いた。


「サンキュー。まあ、結構な話だったからな」


「えっ、そんなに…?」


「ああ。予想の斜め上。いや、それ以上だったわ」


 信号が青になり、車を発進させた。同時、海斗は葉瑠から聞いた話を、覚えている限り詳細に話し始めた。


 話を終えた後、海斗は、


「想像以上だろ?」と言った。


「うん…。想像以上だね」


 どういう顔をしていいのかわからない、沙耶はそんな様子だった。


「そりゃ、トラウマにもなるわな」


「そうね。立場が逆だったら、たぶんね」


 聡太は自分の知らない時でも、ずっとトラウマを抱えて生きてきた。海斗は初めてそのことを知った時、言葉が出てこなかった。


「過去のトラウマってのはいつまでもずっと続くよな」


「うん」


「しかも、自分で乗り越えない限り、消えることはない」


「うん、そうだね」


「もしくは、本人が抱えている闇を消し去ってくれるほど、強い光を持った人物が現れれば、乗り越えられる、とか」


 沙耶が、くすっと笑った。


「なにそれ。誰かが言ってた?」


「ああ。前に、知人が言ってた」


「それなら、私的には強い光を持った人は、美優以外いないと思うけどな」


「どうだろうな。まあ、いずれにせよ、いつか乗り越えてくれることを願うしかないだろ」


 海斗はハンドルを握りしめ、乗り越えてくれることを祈った。




◆◆◆


「神谷君のことについて教えてほしいの」


 目の前の彼女は、そう言った。聡太は彼女の強い瞳を素直に受け止めた。


「教えて欲しい、ってどういうことかな」


 美優は一旦、目線を逸らして、またこちらを見てきた。


「神谷君の女性に対する振る舞いについてだよ」


「…」


 特に驚きもせず、聡太は黙って彼女の続きを待った。


「神谷君、私のこと…、ううん、女性が怖い? 信じられない?」


 聡太は黙ったままだ。何も言わず、視線を下に落とした。


「昨日橋本君に訊いたんだ。神谷君のこと。けど、教えてくれなかった。絶対に教えないって言われちゃったから、諦めたよ。だからこうして自分で訊くことにしたんだ」


 渉のことを脳裏に浮かべた。彼は聡太の友人で、良き理解者だった。優しい彼は今でも自分を守ろうとしてくれている。


「学生時代から、何となく感じてた。女性がもしかして苦手なのかなって。それはたぶん、今もだよね。どこか、怯えているていうか、完全に信用しきれていないというのか。そんな表情が時折見えるんだよ」


 女性にはやはりわかるのだろうか。


「そんな顔をしているのを見ると、私もなんかすごく辛く、苦しく感じるの」


 聡太は顔を上げた。彼女はいつの間にかしゃがんでおり、同じ高さで目線を向けていた。真正面に整った彼女の顔があり、少し驚いた。


「やっぱり、わかるもの?」


 苦笑いを浮かべ、彼女に尋ねた。


「わかるよ。だって、ずっと神谷君のこと見てきたんだから」


 美優は優しく微笑んだ。


「そう…」


 彼女はすごい人だ。まだ自分のことを想ってくれているなんて。


「私に、教えてくれないかな。こんな私でよければ、力になるから」


 その言葉に、その強い瞳に、胸を揺さぶられた。


 彼女なら、自分のことを曝け出せる、そんな思いを聡太は抱いた。


「一つ訊いてもいいかな」


「なに?」


「どうして、俺のことなんかが良いの?」


 それは学生時代から、思っていたことだ。


 予想していない言葉に、美優は目を大きくした。


「どうしてって、言われても…」


 彼女の視線が揺れている。動揺しているのがよくわかった。


「そんなに俺、大した男じゃないよ」


 自嘲めいた笑みを彼女に向けた。すると、彼女は首を振っていた。


「そんなことないよ」彼女はそう言って一蹴した。「たくさん良いところがある」


「そうかな」


「そうだよ」美優は強く肯定した。「だからあなたのことを好きになった。いっぱい良いところがあって、語れないよ」


 彼女のその微笑む顔は、とても胸を温かくさせた。寒さに冷えていた体が、一転して変わった。

  

 不思議な女性だ。何故、今でも彼女には胸が躍る感覚が湧き上がってくるのだろうか。


 聡太は、体の力を抜いた。溜まっていた重りが一気にと落ちた感覚だった。


「もう、随分前のことだよ。長くなる話だけど、いい?」


 聡太は決心した。彼女に自分のことを話すと。


「うん。いいよ」


 目の前の人は、自分の話を聞いてどう思うだろうか。呆れるだろうか、情けないと思うだろうか。


 いや、たぶんどちらでもない。彼女なら、たぶん。


 聡太は真っ暗な空を見上げた。ゆっくりと、あの日の出来事を話し始めた。







 

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