第39話

 会場に行くまではおよそ一時間かかった。電車を二回乗り換えしたことや途中でコンビニによったらその時間になった。会場に行くまでの電車の中では、ライブに行くと思われる客が多く乗車していた。今回のツアーグッズであるマフラータオルを首に巻いている人や、前回のツアーで販売されたグッズやパーカーを着ている人がたくさんいた。


 ライブ会場の最寄り駅は、すでに人で埋め尽くされていた。開演までまだ二時間あるのにだ。皆、待ちきれずここに来てしまったということか。そういう自分も同じだが、と美優は心の中で思う。


 会場入り口の液晶モニターに、今回のツアータイトルが映し出されている。そこは一番人が群がっており、皆がモニターにカメラを向けて写真を撮っていた。


「先グッズ買う?」隣を歩く沙耶が言った。気温がぐっと下がったからか、彼女は黒のジャケットを着ていた。


「そうだね。そうしよ」


 美優も厚手のコートを着込んできた。会場内は暖かいが、外は寒い。まだ一時間も待たないといけないとなると、早く来たのを少し後悔した。もう少し、遅い時間に来れば良かった。


 グッズ列に並び、スムーズに売り場まで辿り着けた。美優は売り子の若い女性にマフラータオルとパーカーを一つずつ頼んだ。この二つは日常生活でも使えるから便利だ。


 沙耶も美優と同じグッズに加えて、手提げバックを購入した。それから二人は先ほどの入口液晶モニターの前で、タオルを広げ、写真を撮った。同じような行動を周りもとっていた。インスタに載せるつもりは一ミリない。


 開場まで三十分以上あった。時間までどう過ごしていいかわからず、植木の前に座ったり、駅に戻って構内のカフェで時間を潰している人が多かった。おかげで休む場所があまりない。美優達は周りを見渡し、空いていた階段の段差に腰を下ろした。


 最近仕事はどう、と沙耶と会話が始まると、二人して仕事の不満が湧き出てきた。沙耶は上司が頭悪すぎと対応の遅さを吐き出していた。彼女は信用金庫に勤めている。お金の管理は精神的にも辛くなることは美優も共感できた。


 そんな話をしていると、休んでいたの群衆が動き出した。気づけば開場時間になっていた。美優達も群衆の波に流れるように、会場に入った。


 ライブ特有のもやのかかった照明が心を躍らせた。真っ直ぐ視線を送れば、大きなステージが設置されていた。大型スクリーンには注意事項が映し出されていた。


「D列、D列はー」


 メールで、座席は『二階D列○番〜』と前もって知らせがあった。スマホ片手にその画面を見ながら、席を探した。


「あっ、美優。ここだよ!」


 沙耶の声が美優の耳を貫いた。彼女がこっちこっち、と手招きしていた。


「結構良い席じゃない? よくステージが見えるし」


「うん。当たり席かも」


 美優達の席は、ステージから見て左側。客席から見て右側。いわゆる上手の位置だ。ステージから真正面の位置ではないが、ステージ全体がよく見える。


「席わかったから、今のうちにトイレ行こ!」


「うん、そうだね! 行こ行こ!」


 ライブ時のお手洗いは大行列になる。女性にとってこの時は特に苦痛だ。早いうちに行ったほうが良いことは美優も知っていた。


 十五分ほど順番を待ち、お手洗いを済ませた美優と沙耶は席に戻った。会場内は十五分前と比べて、席がほとんど埋め尽くされていた。


 開演まで三十分を切った。美優は今か今かと開演を待ちわびた。


 今回のライブは、八月に発売されたアルバムを引っ提げての全国アリーナツアーだった。美優も今回のアルバムはスマホで購入した。アルバムの曲はどれも美優の好みだった。いや、このバンドが作る曲はほぼ全ての曲が美優の好みだ。


 これほどまで好きになった歌手は今までいない。ライブは過去に友人の付き添いで行ったことがあるが、その時の感情とは比べ物にならないほど、楽しみとドキドキが胸を占めている。彼らのライブを見るのは、大学祭以来、およそ五年振りとなる。


「もうすぐ始まるね!」隣の沙耶が言った。「楽しみー!」


 その時、会場内でアナウンスが響いた。それは開演を知らせる合図だった。


『まもなく、開演でございます。お席を離れている方はーー』


 そのアナウンスが終わった、数秒後。会場内が一気に暗転した。男性の野太い声と女性の黄色い声が混ざり合って、歓声が沸き起こった。


 その演出に美優は息を呑んだ。はじまった、と鼓動がさらに加速していった。


 正面ステージの大型スクリーンに、映像が流れ始めた。一人称視点の映像だ。ベットから目覚めて、起き上がると、そこは誰かの部屋だった。冷蔵庫、本棚、壁に貼られた写真。そしてピアノが置かれている。どこにでもありそうな部屋だ。


 視点が動き、飲み物を取りに行く。カランカランと冷蔵庫を開けた時の音が心地よく響いた。視点は部屋を見渡し、壁に飾られた無数の写真達に目を止めた。壁に近づくと、何の写真かはっきりとわかるようになった。写真は、これまでバンドが行ったライブの一瞬を撮ったものだった。燃え上がる炎の演出の中で歌う聡太。メンバーが手を繋ぎ、両手を高々と上げている時。これまでのライブの歴史が、写真に収められていた。


 視点が動いた。窓に近づいて、窓の鍵を開けた。窓を開けると、ヒュウという音を立て夜風が部屋に入った。視点の先は、東京と思われる、無数の高層ビルを照らす夜景が広がっていた。


 窓を閉めて、視点が変わる。視点はピアノを注視していた。そのままピアノに近づくと、両手が鍵盤に置かれた。滑らかな指の動きで、鍵盤が押されていく。何て綺麗な動きだと美優は思う。


 完全に美優は油断していた。次の瞬間、どおん!とピアノの音が会場に響いた。全身に鳥肌が駆け巡った。


 スクリーンが真っ白になり、ピアノの演奏とともに、上がっていく。ギター、ベース、ドラム。そしてサポートメンバーが鳴らす楽器の音が会場に轟かす。


 スクリーンが上まで上がると、ステージに照明が当たった。その瞬間、ツアータイトルがスクリーンに大々と映されるのと同時に、メンバー達の姿が照らされた。歓声が沸き起こった。


 美優の肉眼でもはっきりと見えた。ステージの上で、ピアノを弾く聡太の姿を。その姿を見て、目が熱くなってきた。久しぶりに見る彼は前よりも一段とかっこよくなって、遥か遠い存在になっていた。胸がきゅうと締め付けられるこの恋の感情を久しぶりに感じた。


(やっぱり、かっこいいなあ)


 スクリーンに映る彼を見て、美優は思う。彼の歌声が会場に響くと、歓声があがる。笑顔になる。彼の作る曲がこれだけの人の心を支えている。やっぱりすごい。


 美優は、止めることができなかった涙を流して、最高のひと時を楽しんだ。



◆◆◆


「やっぱり、地元でライブすると、なにか特別な思いがありますね」


 ライブ終盤。本編が終わり、アンコールを一曲歌ったところでMCが入った。彼らのライブでは何回もこうした休憩時間があった。本編中も三回あった。


「ね! やっぱり地元は最高だよ!」聡太の言葉に反応したのは、ベースを担当する武田大成だ。


「どの公演も最高に楽しいですけど、やはり地元だと、なにか違うよね」


「そうだね」


 聡太の言葉に、ドラムの海斗が返した。彼も美優と高校から同級生だ。彼を見たのも、久しぶりだった。


「地元だからかな。今日のお客さんの中で、知り合い何人か見たよ」ギターの毛利翔が言った。


 観客達が、ええっー、と声をあげた。どこどこ、と周囲を見渡す人が何人も現れた。


「今ここで、友達の名前は言いませんよ。さすがに」


 翔が観客の反応を見て笑った。観客からも笑いが起こった。


「俺も見たよ」ドラムの海斗が言った。「ほら、あそこに」


「絶対嘘だ。適当なこと言うなよ」大成がつっこんだ。その瞬間、また観客から笑いが生まれた。


「聡太はどう? 誰か知り合いいた?」大成が尋ねた。


 この質問に何故か美優はどきりとした。


 聡太は腰に手を当てて、答えた。「うん、いたよ」


「本当? 嘘じゃない?」翔が訊いた。


「嘘じゃない、嘘じゃない。本当」聡太は笑って言った。


「えっ、どこどこ?」大成が聡太に近づいた。二人は観客席を見渡した。


 美優の席は二階だ。ステージからは結構な距離がある位置だ。


 でも、一瞬だった。美優は聡太と目が合った。心臓がどくんと跳ねた。


「ねえ! 今、聡太と目が合った!」


「私も! たいちゃんともあった!」


 近くに座る、女性達から甲高い声が聞こえた。美優はその声で、はっと我に返った。


(そうだね。勘違いに決まってるか)


 急に鼓動の速さが収まっていった。ステージの二人を見れば、アリーナ席を見ていた。


「こっち見てたね。私たちのこと気づいたかな」


 沙耶が隣で言った。


「さすがにないんじゃない? 結構距離あるもん」


「だね。さすがに無理があるか」


 沙耶は笑って答えた。でも残念そうな顔をしていた。気づいてほしいのは彼女も同じだった。


「すごい人たちになっちゃったよね。ほんと」


 沙耶がステージを見たままぽつりとこぼした。


「うん。そうだね」


 嬉しい気持ちとは逆に、寂しい思いもある。彼らと近くにいたからこそ生まれる思いだ。その思いは自分だけじゃない。美優はそのことに気づかされた。


 紙吹雪がステージに舞う。アンコール三曲歌い切り、ライブは終幕した。約二時間半。最高の時間を美優と沙耶は過ごした。


 観客に手を振ってステージを後にする聡太らを、美優は手を振って応えた。彼らがステージを去った後も、美優は名残惜しそうに、ステージを見つめ続けた。


 今度、会える日はいつになるだろうか。また彼らのライブを聴きに行くことはできるだろうか。終幕して、すぐにそんな感情が押し寄せてきた。


 ステージに立つスタッフの指示で、美優と沙耶は会場を出た。観客達が仲間同士で感想を言い合っているのが、あちらこちらで聞こえる。皆、余韻に浸っているのだ。


 会場から駅まで行く道は人でいっぱいで、すぐに電車に乗れる可能性は低いと思えた。それに夜飯も食べていなかった。美優達は近くのファミレスで軽く食べてから、電車に乗ることを決めた。


 五分ほど閑散とした道を歩き、ファミレスに入った。空いていた席につくと、二人とも、はあ、と声を漏らした。人が多いところは不思議と疲れが溜まるのだ。


 メニュー表を見て、美優は軽いものを注文した。夜九時を過ぎているから、ガッツリ食べるのはやめた。体重が増えるのは勘弁だ。


「ん、なんか来てる」


 沙耶がスマホを手に、ぼそっと言った。美優はちらりと視線を向けたが、すぐに自分のスマホに目を向けた。


「うわ、同窓会だって」沙耶が言った。視線を美優に向けて、話を続けた。「美優、どうする? 行く?」


「同窓会って、高校の?」


「うん、そう。高校の」沙耶は首を縦に動かした。「でも、めんどくさいよねえ」


「いつ、やるの?」美優は訊いた。


「年明けにやるって。まだ日にち決まってないけど」


 ふーん、と美優は考え込む顔つきになった。もう三年前になるが、高校の同窓会に行ったことがあった。皆、どこかしらに就職していて、結婚をしている者も数人いた。高校以来会っていなかった友人と会えて、楽しい時間を過ごしたのを覚えている。もちろん、その時聡太は来なかった。


「気が合ったら行こうかな。まあ今は保留で」


「そう。じゃあ私も保留で」沙耶はスマホに何かを打ち込む仕草をした。


(有名人だし。来るわけないか)


 少し期待した自分がいたが、すぐにやめた。その時、頼んだ料理がテーブルに運ばれた。料理を食べながら、今日のライブの感想を沙耶と語り合った。


 


 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る