第38話

 はあ、と重いため息をついた。今日は忙しい一日だった。ゆっくりと休憩する時間もなかった気がする。それほど仕事に追われていた。


 会社を出ると、自分と同じように疲れた人が歩いている。そう美優は感じた。視線が自然と下に向いている人ばかりだ。生き生きとした顔で歩く人は少ない。仕事終わりはいつもこんな光景を見て、帰宅するのが普通となった。


 ピロン、と鞄から音が鳴った。ラインの通知音だ。美優は歩きながら鞄の中からスマホを取った。液晶画面に映った文字を見てげんなりとした。


『今度の土曜、映画とかどう? もちろん他のことでもオッケー!』


 はあ、と仕事とは違うため息をついて、スマホを鞄に閉まった。ラインの相手は同期の男だ。二ヶ月ほど前、会社の飲み会が終わった後、二人きりで後日遊びに行かないかと誘われたのだ。美優はそれほど乗り気ではなかったが、彼が恥ずかしながらも勇気を出して誘ってくれた行為を軽々しく無下にするわけにもいかなかったので、オーケーをだした。


 それからデートをした。二回、彼とは出かけた。しかし彼のことを意識することはなかった。ただの同期としか見れなかった。


 彼の容姿は普通だった。仕事はできる。スタイルも良い。清潔感もある。同期の女性陣、会社の先輩後輩からは人気はあった。彼目当てで誘う女性も少なくなかった。彼と交際した女性も何人かいた。別に彼の変な噂は聞かないから、誠実な人なのだろうとは思っていた。しかし美優は入社してから、彼のことを気にすることはなかった。


 美優はこれまで色んな人から交際を持ちかけられた。会社の先輩。後輩。同期。その内二人と付き合った。一人目は会社の先輩だ。何度も誘いを受け、その度に断っていたが、相手の粘り勝ちで交際に至った。だが、半年も経たずに別れた。相手が自分に触れてきた時、嫌悪感を抱いたからだ。


 二人目も会社の先輩だった。しかし一年経つか経たないくらいで別れた。その男は優しく、他の男とは違う雰囲気を持っていた。美優もどことなくその男を気に入ってた部分もあった。彼とは体を交わした関係に至った。そのことに嫌悪感は抱かなかった。彼とは長く付き合っていきそうな気がした。けど、彼が急遽結婚の話を持ち出してから、関係は変わった。その時、美優は二十五歳。世間から見れば結婚適齢期だが、結婚する気はまだなかった。勘とも言うのか。彼は違うと思い、別れを告げた。


 結局、二人の男を心の底から好きになったわけではなかったのだ。好きになろうと思っても、何も変わらなかった。


 帰宅して、すぐに制服を脱いだ。ゆるっとした部屋着に着替えたら、体の重りがすっと抜けたように感じた。コンビニで買ってきた夕食を机に広げ、黙々と食事した。


 何も考えずスマホの画面をスクロールした。インスタ、Twitter。会社に入ってからほとんど見る専用になってしまった。それを夕食時に見るのが日課となった。


『結婚しましたー!』というどうでもいい報告を横にスライドした。最近、こんな報告が本当に多い。二十代後半なら、結婚する人が多い。実際、美優の友人も結婚し、子も産んだ人も多い。それに対して、羨ましいという感情はなかったが。


 チロリン、とスマホが鳴った。メールだった。ラインでもなかった。


 何だろうと、美優は指でメールボックスを開いた。そこに映った内容を見てはっとした。『抽選結果のお知らせ』と一番上に表示されている。


 そうだった、と疲れた目が一気に冴えた。今日はあるアーティストのライブの当選結果の日なのだ。完全に忘れていた。


 前回、落選してこのアーティストのライブには行けなかった。今、一番ライブチケットが取れないと言われている人達なのだ。


「お願い! 今回こそは!」


 美優は顔の前に両手を合わせ、画面に向かって祈った。


 速まる鼓動を感じながら、一番上に表示されたメールをタップした。美優は恐る恐る、文字を読んだ。


『厳選なる抽選の結果、チケットをご用意できましたーー』


「やったあ!!」


 美優は立ち上がって叫んだ。すぐにはっとして口を抑えた。隣の部屋に聞こえたら苦情が来てしまうからだ。


「えっ、本当!? 本当!? 嘘じゃないよね!?」美優はもう一度画面を見た。間違いなく、同じ内容が書かれていた。


「やったあー!」


 声量を抑えて、両手を高く突き上げた。疲れていた体はどこかに消えていた。


 美優はすぐにカレンダーに書き込んだ。約一ヶ月後の土曜日。『ライブ!!』と書いて、赤ペンでぐるぐると花丸で囲った。このライブのためなら、どんな仕事でも頑張れそうな気がした。


「やっと、会える…!」


 彼とは大学を卒業してから、会っていない。ライブでこっちに来ることはあったが、仕事の都合で行けないことがあった。


 彼が東京に行ってから、美優は彼のことはあまり考えないように努めた。いつまでも彼のことばかり想っていてもダメだと思ったから。


 彼が上京して三年程経った頃。テレビで彼らの曲が流れた。確かあるドラマの主題歌だったはずだ。それから彼らの曲はCMとかでよく流れるようになった。少しずつ有名になっていく彼らのことを、美優は自分のことのように喜んだ。


 美優は元々大学の時からそのバンドのファンだった。だからほぼ、彼らの曲は知っていた。今も毎日、彼らの曲はスマホを通して聴いている。


 上京して五年が過ぎた頃。今や彼らは大人気バンドに成長している。彼と学生時代、あんなにも近くにいれたことが嘘みたいだ。神谷聡太とネットで検索すれば、かっこよすぎるボーカル、とすぐに出てくる。美優だけじゃなく、日本全国の女性を虜にしている。


「今頃、どうしてるんだろうなあ…」美優はぽつりと呟いた。


 聡太のことだ。きっと芸能界の綺麗な女性からも言い寄られているに違いない。そのうちの誰かと、もう一緒住んでいるのかもしれない。自分とはもう住む世界が違う人間に、彼はなったのだ。そう思うと、今も胸がチクリとする。


「あ、そうだった。沙耶に言っとかないと」


 美優は沙耶に当選したことをラインで伝えた。沙耶も彼らのファンでもあったから、今度行こうと美優が誘ったのだ。


 メールを送信して数秒で、沙耶からの返信があった。


『マジ!? やったあー!』


 そのメッセージの後に、両手を上げて喜ぶクマのスタンプが送られてきた。美優はその内容にくすりと笑ってしまった。彼女もきっと自分と同じように喜んでいるのだろう。


「早く、来月にならないかな」


 ライブの日を、待ち遠しく思った。




◇ ◇ ◇


 

 仕事終わりに帰宅すると、着替えもせずにソファに倒れ込んだ。疲れた体を優しく受け止めてくれるこの快感がたまらなく好きだった。一日、仕事頑張ったなと思える。


 春奈はしばらくソファの上で動けずにいると、手に持っていたスマホからふと通知音が鳴った。チロチロリン、というライン特有の音だ。


 スマホの画面を見ると、凌、という送信者の名前が出た。平野凌ひらのりょうが彼の名前だ。彼は、春奈が今付き合っている恋人だ。付き合って四ヶ月となる。


 春奈は仰向けのまま、メールを見た。メールはこんな内容だった。


『ライブ当たったよ! びっくり!』


 このメッセージに春奈も、うそっ、と声に出して驚いた。取れるとは思っていなかったからだ。


 あるバンドのライブに行かないか、と彼から誘われたのは先月だった。そのバンドの名を聞いた時、春奈は、いく、とすぐに了承した。彼女が一番好きな歌手だったからだ。毎日通勤時にそのバンドの曲を聴いており、心を動かす原動力である。


 そのバンドのボーカルは、高校と大学が同じで、先輩だった。そして春奈が心から好きだった想い人でもあった。残念ながらその恋は叶うことはなかった。


 最後に彼と会ったのは、彼の大学卒業式の時だ。それから五年以上彼とは会っていない。連絡も取っていなかった。


 彼に振られてからは春奈はずいぶんと落ち込んだ。胸が苦しくて、痛くて、涙を何度も流した。他の男に遊びに誘われたことはあったが、彼以外の男なんて心底どうでもよかった。それぐらい辛い経験だった。


 でも、今は良い思い出だと思っている。あの経験があったからこそ、素敵な人が恋人としている。


 凌は大学四年次のゼミが一緒だった。彼はいつも明るく、優しい人だった。最初は彼のことなんて何とも思っていなかったが、卒業後に彼のアプローチをきっかけに何度か二人で出かけるようになった。そうして次第に彼の人柄に春奈は惹かれていった。


 凌のことは好きだ。その想いに嘘はない。けど、初恋で狂おしいほど好きになった人に、また会える喜びがあることも嘘ではない。でも、この想いはあの時の想いとは少し違うはずだと、春奈は思った。憧れ、尊敬。そういう想いに近いはずだ。


 スマホのカレンダーを開き、『ライブ!』と打ち込んだ。


 ライブは約一ヶ月後。テレビやスマホでしか見なくなった彼と、生で会うのが楽しみだ。

 

 

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