第36話
初めて恋をしたのはいつだろう。それはきっと保育園の時だろうな、と聡太は思った。
あれからもうすぐ二十年近くになる。あの時を境に聡太の人生の歯車は故障し始めた。
六歳になる歳。聡太の担任をしてくれたのは二十代の若い女性教諭だった。黒髪でおしとやかそうな人だった。
みんなに囲まれて、人気者の先生だった。嫌な顔をせず、いつも目を細めて笑う先生の顔がとても美しく見えた。
いつからか、聡太はそんな先生のことが気になってしょうがなかった。先生はどこにいるのか、何をしているのか。気になっていつも目で追っていた。
ある時、聡太は道端で綺麗なタンポポを見つけた。つい、しゃがみ込んで、見惚れてしまった。その時、ふと思ったことがあった。このタンポポを先生の元に持って行こう、と。
どんな反応をするだろうか。胸の高鳴りを感じながら、タンポポを引っこ抜いた。落とさないように、手の中で大事に持った。
「先生、これあげる」
いつものようにみんなに囲まれていた先生に、聡太は話しかけた。先生は一瞬、キョトンとした顔になった。
「タンポポ? どうしたのこれ?」先生は聡太が持つタンポポを見た。
「綺麗だったから、先生にあげようと思って」聡太は手を伸ばし、タンポポを先生に近づけた。
先生は嬉しそうに微笑んだ。そしてタンポポを受け取った。
「ありがとう! 先生嬉しい!」
その言葉と同時に、聡太は先生に抱きつかれていた。暖かくて、いい匂いがした。ずっとこのままでいたいと思った。
先生が離れると、途端に恥ずかしくなった。顔が熱くなるのを感じて、その場から走って逃げた。
けど、人生でこんなに嬉しい日はなかった。
◆ ◆ ◆
「せんせい、ばいばーい!」
左手を親と繋いでいる子供は、右手で車のワイパーのように大きく左右に振った。先生は子供が見えなくなるまで手を振り続けていた。
大体、迎えが来るのは最後の方だった。でも今しがた一人いなくなってしまい、残すは聡太一人だけとなった。
「聡太君」先生が言った。「お父さんが来るまで、先生と遊んでいよっか」
母親は看護師だった。当直の場合は父親が迎えにくることになっていた。
聡太はうん、と頷いた。先生と二人だけで遊ぶ時間は、いつも楽しみだった。
陽が沈んで空は暗くなり始めた頃。先生は外を見て、あっと声をあげた。それから聡太に言った。「お父さん。来たよ」
引き戸の向こうに父親が見えた。聡太は手を振った。父親は少し疲れた表情で手を振り返した。
「すいません。いつも遅れちゃって」父親は言った。頭をペコペコ下げている。
「大丈夫ですよ。神谷さんが来るまでの間、聡太君と二人で楽しく遊んでましたから」
「そうですか」父親は聡太を一瞥し、先生に視線を戻して微笑んだ。「ありがとうごさいます」
聡太は靴を履き、父親の横に並んだ。
「じゃあね、聡太君。また明日ね」先生は目を細めた。
「うん。また明日」聡太は小さい手を顔の前で振った。先生の元を離れるのは少し悲しかった。
「じゃあ、先生。さようなら」父親はそう言って会釈した。
「ええ。また」先生は微笑んで見送った。
出口が近づいても、聡太は振り返って先生に手を振った。先生は振り返してくれた。
「先生、良いヒトだよなあ」二人きりの車内で父親は急に言った。
「うん。先生すごく良い人」聡太は何気なく答えた。
この時の父親の発言は今になって考えれば、別の捉え方も出来た。けど子供だった聡太はそんなこと考えもしなかった。
聡太が楽しく過ごす日々の裏で、既に歯車は壊れて始めていた。
◆ ◆ ◆
先生と過ごす時間は毎日が幸せだった。小学校に入るまでずっと、先生と会えることだけが生きがいと当時は呼べただろう。
保育園を卒園するときは、悲しさのあまり先生に抱きついて泣いた。先生は頭を撫でてくれた。先生の暖かく感触をもう感じられなくなることは残念でならなかった。
小学校に上がっても、聡太の頭は先生のことばかりだった。また会えないだろうかと授業中に何度思ったことか。
先生に会いたくて、保育園の周りを意味もなく歩いたことは何度もあった。ぐるぐると周りを回って、先生が見つけてくれた時は嬉しくて表情を保つのに苦労した。
先生との関係を繋ぎ止めたい一心だった。卒園してからでも、聡太は先生と会った。毎日じゃなく、月単位でも嬉しい気持ちに変わりはなかった。
そんな日常の裏で、いつからだったか。両親の関係が変に思い始めたのは。
いつもより口数が少ない。お互い仲良く話して合っているのが減った。朝のおはようも交わさない。家の空気がどこか重いものになっていた。
一度、母親に訊いたことがあった。「お父さんと仲良くないの?」と。
「大丈夫よ。聡太は心配しないで」母親笑みを浮かべそう言った。肝心の二人の関係については、何も言わなかった。
その時は母親の言葉を信じるしかなく、うん、と頷くことしかできなかった。子供に何かできる力なんて、あるわけなかった。
一年生が終わろうとした頃だった。母親に妊娠が発覚したのは。それはいずれ妹となる葉瑠の存在だった。
聡太は喜んだ。純粋に家族が増えることは嬉しかったからだ。父と母も喜んでいた。
以前の二人の仲が冷えていたのは一時的なものだと思った。自分の勘違いだったのだ。聡太はほっと安堵した。
しかし。それは勘違いではなかった。二人の仲が悪化していたのは事実だった。
ある日、夜中に物音がして、目が覚めた。二階の部屋で寝ていた聡太は、トイレでも行こうかと扉を開けた。
一階のリビングの明かりがついているのはすぐにわかった。聡太は階段を降りようと、眠たい目を擦りながら、一歩進んだ。
「だから、知らないって言ってるだろ!!」
場違いとも言える怒号に、聡太の意識は一気に覚醒した。無意識に体は動かなくなった。
聞いたこともない父親の声だった。聡太はそう思った次の瞬間、
「知らないわけないでしょ!! 私はこの目で見たんだから!」
母親も同じように声を荒らげた。これもまた聞いたことのない声だった。
「だから! 人違いだろ!!」
聡太は怖くなって、部屋に戻った。布団にくるまって両親の声を遮断しようとした。けど、扉越しに聞こえる怒号は嫌になる程、耳に入ってきた。
その時、初めて聡太は知った。家族のカタチが壊れ始めていることに。
◆ ◆ ◆
両親は、いつもと変わらない表情で接してくれた。それが余計に聡太の心を苦しめた。
二人は大丈夫なのか。本当は問い詰めたかった。けど、触れた瞬間、家族は崩壊してしまうと思った。だから何も言わないことを心に誓った。
けど、そんなことをしなくても、家族は崩壊した。それはあの夜の一件から数週間が経った頃だった。
その日は、母親が実家に行った時だった。なにやら祖父の体調がよろしくないという知らせが入った。心配だから見に行く、と言って母親は家を出た。
聡太は家で留守番となった。一人で留守番はもう苦ではなかった。
朝は父親と二人で食事を摂り、いつものように学校に行った。家を出る際父から、今日は帰りが遅くなるから、と言われた。わかった、と聡太は頷いた。
学校に着いて、友人と会話し、普段通り授業を受けた。どこか体が重い気がしたが、気のせいだろうと思った。
二限目の体育が終わった後だった。体がとても重く、熱いのを感じた。聡太は三限を受けず、保健室に向かった。
保健室の四十代前半の女性養護教諭は、熱があるね、と口にした。体温計を見せてきた。『38.1』の数字が視界に映った。
今日は早退だね、と養護教諭に言われた。養護教諭は担任教師に連絡し、聡太の状態を伝えた。
親御さんは今日家にいるか、と担任教師は言った。聡太はいないと返した。続け様に二人の今日の予定を話した。
担任教師に養護教諭は困った顔をした。こういう時、母親を呼ぶのが一般的だからだ。二人は仕方ない顔で、父親に連絡しようと決めた。
けど聡太はそれを拒んだ。自宅には一人で帰れると言った。両親には迷惑をかけたくない。今、二人に迷惑をかければ壊れかかった家族の状態が完全に崩壊する気がした。
担任教師と女性養護教諭は難色を示した。二人は話し合った。なら私が送ります、と決まったのは一分もかからなかった。その日は四限に音楽の授業が入っていたから、担任の予定が偶然空いていた。
四限時に聡太はランドセルを持って、担任の車に乗り込んだ。車内の芳香剤の匂いはあまり好きではなかった。長時間乗っていれば酔う気がした。
家までは車で十分もかからなかった。だけどこの日は頭が重いせいか、とても長く感じた。
聡太着いたぞ、という担任教師が言った。ありがとうございます、とちゃんと礼を言って車を降りた。お大事にな、と担任教師は窓から顔覗かせて白い歯を見せた。
担任教師の車が遠くに行っていくのを確認し、門扉に手をかけた。その瞬間、目の端にあるものが見えた。
頭が重いせいで気づかなかった。父親の白い車がガレージにあるのだ。いつも見る車に間違いなかった。
聡太は目を疑った。何故なら父親は今日仕事のはずなのだ。それに夜遅く帰ってはこないとも言っていた。どういうことなのか、混乱した。
聡太は家の玄関を見た。いつも見る玄関が、今日は異様な雰囲気を纏っている気がした。この奥に、何か触れてはならないものがある。そんな予感がした。
門扉を抜け、聡太はゆっくりと玄関に近づいた。そして把手に手をかけた。静かに引くと、がちゃ、という音が鳴った。
忍び込むように家の中に入った。しかし次の瞬間、聡太の目に驚くものが映った。
玄関のたたきに、靴が置かれている。一つは父のものだった。けど、もう一つは知らなかった。それは女性の黒のヒールだった。
明らかに家にある靴じゃないことはすぐに理解できた。母親はヒールは履かないから。こんな靴は見たことがなかった。
(誰か、いる?)
頭の良い聡太はすぐ、その可能性に気づいた。自分の家族ではない誰かが今、この中にいる。
その時だった。どん、という鈍い音が、上から聞こえてきた。何かが倒れたような音だった。
聡太はランドセルを無造作に置いて、ゆっくりと二階に続く階段を登った。
胸の鼓動が異様に速くなっているのは自分でもわかった。本能的な恐怖が体を支配していることも。けど、体は無意識に操られるように動いていた。
階段を登り切って、扉の前に立った。そこは両親の寝室だった。扉の奥からは何も聞こえない。
震える手で把手を掴み、そしてゆっくりと押した。
その瞬間、何か異様な匂いが鼻腔を貫いた。たまらず聡太は顔を顰めた。把手は離さず、そのまま扉を開け切った。
目に飛び込んできたのは、二人の人間だった。一人はベットの上に寝ており、もう一人は、ベットを見下ろす形で横に立っていた。
ベットを見下ろす人物は、綺麗な黒い髪をした女性だった。聡太はその人物を知っていた。
「せ、せんせい…?」
聡太はわけがわからず、瞠目した。何故、この人が家にいるのだろうか。
彼女は微動だにしなかった。それが気味悪く感じた。
聡太はもう一度、先生と呼ぼうとした。だが、その前にベットに横たわる父親の異変に気づいた。
彼の胸、腹から何か溢れるように噴き出ている。それが血だということは、頭が一瞬真っ白になった後にわかった。
「な、なにこれ…」
震える声を絞り出した。誰に訊いたわけでもない言葉が、部屋に響いた。
先生の手を見て、聡太は息を呑んだ。彼女の右手には尖った刃物が包まれていたから。よく見れば彼女の腕、服、顔には赤い血がびっちりとついていた。
恐怖で、聡太はその場で腰を抜かした。立ちあがろうとしても、体が言うことをきかなかった。
今まで微動だにしなかった彼女が動いた。ゆっくりと顔を聡太に向けた。
彼女の目を見た時。それは聡太の知っている優しい先生の目ではなかった。殺人者の目だった。
殺される。本能的にそう察した。でも、体は金縛りにあったように動かなかった。
彼女の足が動いた。ぴちゃ、と血を踏んだ音が鳴った。
彼女は凍てつくような目を聡太に向けていた。聡太はその視線を逸らすことができなかった。
彼女が近づいてくる。熱による汗なのか、恐怖からくる汗なのかわからないが、聡太は尋常じゃない量の汗を流し、過呼吸に陥った。
ぴちゃ、と足音を立てて近づいてくる。
彼女は聡太の前に立った。依然変わらず黒く濁った目をしていた。
もうだめだ。そんな考えも浮かばなかった。恐怖で何も考えることなんてできなかった。
「はあ! はあ! はあ!」
荒い呼吸を聡太は続けていた。本当に出したい声はそんなんじゃないのに。
「はあ! はあ! はあ! はあ!……」
彼女のその目がずっと心を支配していた。
やがて気づかぬうちに意識が遠のいて行った。ぷつんと切れたような感覚が最後だった。
◆ ◆ ◆
目が覚めた時。そこは見知らぬ天井だった。自宅ではないとすぐにわかった。
体を抱きしめられる感覚があった。泣き叫ぶ声が耳を貫いた。誰の声なのか、誰から抱きしめられているのか。考えなくても理解できた。母親しかいなかった。
「聡太! 良かった…!」
母親はしばらく泣き続けた。聡太はわけがわからずに、ただじっとしていた。
聡太の意識が回復した数日後。部屋には見知らぬ男たちがやってきた。彼らは警察だった。捜査一課の誰々と名前を名乗った。
聡太は、あの日の出来事を覚えている限り警察に話した。警察はメモを取りながら、何度も首を上下に振っていた。
彼らが部屋からいなくなって、聡太はその後の出来事を母親から聞いた。父親が殺害されたこと。現場にいた女ーー先生が逮捕されたこと。
父親が先生と不倫関係にあったことも聞いた。その関係はいつからか始まったのかわからない。聡太が保育園の時から既に関係は始まっていたのかもしれない。
母親は父親の死をどう思っていたのか。聡太が大人になった時にそれはやっとわかった気がした。母はきっと複雑な思いを抱えていたのだろう、と。
不倫の末に、刺されて死ぬ。自業自得とも呼べる。しかし、愛することを誓った相手だ。何も思わないわけがない、そう感じた。
その後、聡太は母方の実家に移り住んだ。苗字も神谷に変わった。
何もかも、日常の全てが一変した。
だが、一番の変化は聡太自身だった。その症状は、ある時何の前触れもなく起こった。
人を信じることができなくなっていた。特に女性に対して。話す女全てに、裏の顔があるのではないかと疑うようになった。一言一句、発する言葉を簡単に信じられず、普通には接することができなくなっていた。
それは間違いなく、あの事件がきっかけだった。
あれが本当に好きだった先生なのか。あれが彼女の本当の姿だったのか。いつもの彼女は偽物だったのか。では、自分が心から信用し、好きだった先生は誰だったのだ。自分は一体、何を見ていたのか。何をやっていたのか…。
中学、高校、大学。そして
聡太も男だ。それなりに欲はある。好きな人と過ごし、交わりたい。好きな人の肌を全身感じたい。その思いはあった。しかし、その欲を抑え込むように、症状が邪魔をしてくる。
聡太は治すことはもう諦めていた。自分ではどうすることができないから。
別にこれでいい。普通の人より、変なモノを持っているだけで、生きていくことはできる。そう整理をつけた。
けど、時折思うことがある。
この暗いトンネルを照らすような存在に出会えたら、自分の人生に少しでも変化が起こるのではないか、と。
そんなことを、考えてしまうのだ。
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