第35話
軽音部の部室では珍しいことに、二人だけの空間だった。海斗から呼び出された時は不思議に思った。彼から呼び出しをくらうのはそうないからだ。
「話って?」聡太は椅子に座って切り出した。
海斗は真剣な面持ちだった。「なあ、聡太」
「なに」聡太は視線を海斗に向けたまま答えた。
海斗が息を少し吸ったのがわかった。自分がこれからする発言に躊躇いがあるのだなと、聡太は感じた。
やがて彼は言った。
「俺と、プロの世界でバンドやらないか?」
聡太は表情崩さずに、その言葉を受け止めた。驚きはした。けどどこか準備ができていた。こうなることが、何故か予期していた自分がいた。
「プロの世界か…。てことは、大学出た後はーー」
「ああ」聡太が言う前に、海斗が言った。「東京に行くつもりだ」
「すぐ行くつもりか? ここで何年かやるんじゃなく?れ
「ああ。それも考えたが、やっぱりすぐに行きたい思いの方が強い」
「そうか」聡太は頷いた。それから気になったことを訊いた。
「俺以外には、誰か声をかけているのか?」
バンドを組むなら三人から四人。もしくは五人が一般的だ。
「ああ、それなら声かけたよ」海斗は言った。「誠也や勇太。それから軽音部だと大成や翔とか」
誠也と勇太は高校時代に文化祭でバンドを組んだ。彼らが今どうしているのか聡太は知らなかった。海斗は交流を取っていたのかも知れない。
「誰か、一緒にやる人はいるのか」
「そうだな。誠也と勇太は保留。翔と大成は賛同してくれたよ」
そう、と聡太は呟いた。
「俺は、聡太にボーカルをやってもらいたい」海斗の自信のこもった声が室内に響いた。「聡太の才能は絶対通用すると、俺は思ってる。だがもちろん強制じゃない。聡太がやりたくないって言ったら諦める。諦めて他の人を探すよ」
海斗がここまで自分を評価してくれることに、聡太は驚いた。まるで彼には将来が見えているかのようだ。聡太には見えないものが、海斗には見えるのかもしれない。
「とりあえず、今のところはわからない、ってのが答えだよ」聡太は言った。
「わかった」海斗は頷いた。「聡太のペースで良い。答えが出たら教えてほしい」
聡太は、わかった、と言った。そうしてその話は終わった。
五月の時点で聡太は複数の会社にエントリーシートを提出し、就職活動を行っていた。金融系を主に受けていた。就活情報サイトで職業診断をした際に、金融系が合っていると診断結果が出たからだ。家族にそのことを教えると、良いんじゃない、と答えが返ってきた。
就活は思ったよりも順調だった。落ちた企業も当然あったが、六月の上旬には内定を貰った。最終的には、三つの企業から内定を貰った。そしてその内の一つの企業に行くことが決定した。
就活を終えてほっとしたのが正直だ。しかし、心に引っかかっていることがある。もちろん海斗の話だ。
聡太はまだ家族に話していなかった。しかし内定を貰い、就活を終えた今が話すタイミングだと思えた。
九月のある日。夕飯を終え、聡太は母親に話があると言って、切り出した。海斗からの受けた提案を、母親に要点良く説明した。
話を黙って聞き終えた母親は何を言うか。聡太は不安だった。
母親は口を開いた。
「聡太は、どうなの?」
「えっ」聡太は目を見開いた。「どうって?」
「会社に就くか、バンドするかだよ。で、今のところどうなの」
「どうって、言っても…」聡太は困惑した。
「母親の立場からはね。やっぱりちゃんと職に就いて、安定した暮らしを続けて欲しいのが本音。バンドなんて博打だからね。すぐに売れて出てくる人もいるし、何年経っても売れない人だっているんだから」
「うん」
「けどね」母親はふぅと息を吐いた後に続けた。「親の意見が全てじゃないから。親の立場を利用して、ああしなさい、こうしなさいって子供の将来を縛るのも良くないと思ってる。本当に大事なのは本人の意思。だから聡太。あんたの意思はどうなの? バンドをやりたい? やりたくない?」
ずっと胸の中にはあった。頭の中に、そんな将来もあるかもと少しは描いていた。けどそれには蓋をしていた。不安から目を背けていたのだ。
「俺はーー」聡太は拳を強く握った。「バンド、やってみたい。海斗達と一緒に、挑戦してみたい」
そう、と母親は微笑んだ。
「なら、そうしなさい。例えダメだとしても、何かの仕事に就いて頑張ればいいだけだから。人生は一回きりなんだから、やれることをやってみなさい」
「ありがとう。母さん」聡太は頭を下げた。
「えっ。じゃあ、お兄ちゃん家出てくの?」今までリビングのソファで、黙って聞いていた妹の葉瑠が口を開いた。今にも泣き出しそうな、とても寂しい表情を浮かべていた。
「そうだな」聡太は言った。「東京に行くつもり」
「でも、音楽活動ならここでもできるんじゃないの?」
「できるよ。でも、遅かれ早かれ、いずれは上京することは確定してる。それなら早くに行って、できる限りのことを挑戦したいんだ」
「そう…」葉瑠は声を落とし、眉尻を下げた。
「だけど」聡太は続けた。「5年間、東京で何も成果が出なかったら、諦めて帰ってくる」
「え、5年?」葉瑠は訊き返した。
「成果なしに何十年もやるわけにいかないから。定職就かずに何年もやれるわけがない。金もかかる。だから期間を決めておくんだ」
「もし、ダメだったら音楽以外の仕事するの?」
「それはわからない。なんとも言えないな」
葉瑠の表情は晴れなかった。聡太は妹のことをよく知っているからその顔はどんなことを思っているのか何となく理解できた。
「葉瑠」母親が言った。「寂しくなるけど、お兄ちゃんを応援してあげよ」
「うん…」葉瑠は小さく呟いた。まだ聡太に何か言いたそうな顔をしていたが、リビングを出て自室に行ってしまった。
「それで、これからどうするか決めてるの?」
聡太は、母親に視線を向けた。
「まあ、それはこれから皆と話し合うよ」
「そう」
聡太の心境は、楽しみよりも不安の方が強かった。それでも、この選択をしなければ必ず後悔すると思った。
これから大変になりそうだ。けど皆となら、やっていけそうな気がする。そんな不確かな自信があった。
近日中に、聡太は海斗に報告した。彼は、飛んで喜んでくれた。他の二人も同じだった。
企業にも内定を辞去する旨を伝えた。電話に出た担当者はもちろん理由を尋ねてきた。聡太は隠さずに答えた。担当者は驚いた声を上げた。
申し訳ありません、と聡太は何度も謝罪した。きっときつい言葉が返ってくるだろうと、心構えをした。
しかし耳に返ってきた言葉は意外なものだった。『夢を諦めず、必死に追いかけてください。辛いこともあるけど、諦めなかったら必ず道は開きます。いつか君がスターになって、大きな舞台に立つことを祈っています』
その言葉は強く胸に響いた。聡太はありがとうございます、と拳を強く握って言った。心の中で、燃え上がるものがあった。
卒業論文と並行で聡太は曲作りを開始した。海斗に頼まれたからだ。頭の中に浮かぶメロディーをピアノで弾いたり、ボイスメモにして忘れないように録音した。曲作りはやったことはあるが、まさか夢のために真剣に作る日が来るとは思わなかった。
自分の作る曲が、いつか日本全国に届くことを祈って、聡太は曲作りにのめり込んだ。
◆ ◆ ◆
曲作りは順調だった。海斗にできた曲を聴かせると大絶賛だった。聡太自身、曲が完成した時は手応えを感じていた。
だが、まだやらなければならないことがあった。あの二人にはきちんと話さなければならない。
最後の大学祭。軽音部の活動を終えて、聡太は美優と二人きりになる機会があった。彼女が出店を回ろうと誘ってきたのだ。
彼女には以前、企業に就職すると話していた。しかし、それを蹴ったことは話していなかった。
二人並んでベンチに座ると、卒論の進捗や近況を話し出した。「卒論がやばいよー」なんてことを彼女は口にした。聡太も同じ状況だから話が進んだ。彼女はよく笑った。
彼女は県内の企業に就職することを前に話してくれた。確かそれなりに名のある企業だったのを覚えている。
いい具合に話が終わったタイミングで、聡太は切り出した。「新谷さん、実は話したいことがあるんだ」
なに、と彼女は一瞬困惑したが、すぐに真剣な表情になった。
聡太は少し躊躇った後、「実はーー」と話し出した。
「と、東京…」彼女が漏らした言葉だった。
聡太は上京するに至った経緯を詳細に伝えた。彼女の呆然とした表情を見て、ちゃんと言う必要があると思ったのだ。
「そう、なんだ…」彼女は、苦しそうに言った。
聡太は次に言う言葉を悩んだ。言えばきっと彼女は悲しむから。
彼女に対する想いは、これまで会う女性の中でも違っていた。けどそれは恋ではなかった。かけがえのない友人に対しての想いだった。
けど、彼女がこれまで伝えたくれた好きという気持ちから、逃げてはいけないと思った。
「だからごめん。俺は新谷さんの気持ちには答えられない。本当、ごめん」
聡太はこれまで色んな人に告白されて、断りを入れてきた。しかし今回は特段に違った。胸の痛みがこれまでと比べ物にならなかった。
「仕方、ないよね」美優の声は震えていた。次の瞬間には鼻を啜る音が聞こえてきた。
「新谷さん…」聡太は美優を見た。彼女の目からは涙が溢れていた。
「神谷君は、悪くないよ。夢のために、がんばってね」
ズキズキと胸が痛むのを感じながら、聡太は口を閉ざした。彼女が泣き止むまで、何も言わず黙っていた。
◆ ◆ ◆
「東京、ですか」
美優と同じように、呆然とした表情を春奈は見せた。
美優に話してから数日後に、春奈にも自分の将来のことを話した。
「だから、ごめん。乾さんの気持ちには答えられない」
聡太の言葉に春奈は黙って聞いた後、
「それは、上京するからですか? それともも、好きって気持ちがないってことですか…?」
と訊いてきた。
「上京も理由としてはあるけど、やっぱり一番の理由は、そうだね…」聡太は次に出す言葉を言っていいかわからず、下を向いて飲み込んだ。
春奈はどう受け取ったのか。彼女を見るのが怖かった。
「それなら、仕方ないですよね…」
小さく、震えた声が聞こえた。ごめん、と聡太は呟いた。
「いいんです。先輩は、ちゃんと答えてくれたから」
聡太は彼女に視線を向けた。涙が頬に伝っていた。
「東京かあ。今度はさすがに追いかけられないや」春奈は笑った。けど、我慢できなかったのか、また泣き始めた。
聡太はじっと彼女の泣き叫ぶ声を聞いた。
こうして聡太は二人の関係に決着をつけた。卒業後は、もう彼女達とは会うことはないだろう。
しかし。何が聡太の周りに働いているのか、彼女達とは出会う運命だった。当然、この時の聡太はそんなことを考えていなかった。
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