第33話

 なんてこった。美優はあの光景を見て、部屋に帰った後にそう思った。


「あ、おかえりー」なんて沙耶の酔っ払った声に反応する気もなかった。


 海斗、大成、舞、沙耶はまだ飲んでいた。一体いつまでこの二人は飲み続けるのだろうか。時刻は十二時を回ろうとしていた。


 結局、宴が終わったのは一時を過ぎた辺りだった。美優が終わるように促したのだ。三人はまだ飲み足りないとばかりに、何か言っていたが、美優はダメ、と押し切った。沙耶と舞を引き連れて自分の部屋に戻った。


 部屋に戻るなり二人は爆睡だ。こっちなんて眠気も起きない。さっきまでは眠くて仕方なかったのに。


 眠りについたのは二時過ぎてからだった。おかげで翌朝は目覚めも悪かった。


「おはよう…、うっ、頭痛たあ」


「もう、飲み過ぎだよ」

 

 髪ボサボサの沙耶は起きて額を押さえた。完全に二日酔い状態だった。


「おはよー。二人とも」


 欠伸しながら言った舞は平気なようだった。どれだけ酒に強いのだこの女は、と美優は呆れて言葉が出なかった。


 髪を整え、化粧して朝食を摂ると次第に眠気もなくなった。これなら二日目も楽しめそうだった。


「おはよー」と全員がロビー前で集合したのは十時前だった。酒を飲んでいた海斗と大成は眠そうに何度も欠伸していた。


 だが、なぜか乾春奈も眠そうだった。明らかに寝不足だと思える様相だった。酒は飲めない彼女がなぜと、不思議に思った。


 聡太は特に変わっていなかった。いつも通り、落ち着いていた。それが逆に彼の心が見えない。彼は昨日の一件をどう思っているのだろうか。


 二日目は夕方前には海を出る予定だ。それまでは遊び放題だ。昨日同様、水着に着替えて、美優は砂浜に降り立った。


「おっしゃ! 遊ぶぞー!!」


 先陣切って大成が海に走って行った。今朝のアレは何だったのだろうか、と美優は口を半開きにした。疲れ知らずとはこういうことか。


 男子は次々と海に走って行った。聡太だけは砂浜に残るかと思いきや、彼は引っ張られて、強引に連れてかれていた。でも嫌そうな顔はしていなかった。


「美優もほら、行こ!」


 舞に言われ、美優はうんと返事した。最後だから昨夜の一件は一旦忘れて、今は思いっきり楽しもうと思った。


 

◆ ◆ ◆



(まいったなあ)


春奈は海を見て(正確には聡太だけを)、膝に額をこつんとぶつけた。うー、と言葉にならない声を上げた。


「なに、昨夜のことまだ気にしてるの?」


「そりゃあ、気にするよお」


 沙希の言葉に、顔を上げずに反応した。あんなことをしておいて気にしないわけがない。


 今朝から聡太を前にすると、昨夜のことが頭に浮かぶのだ。だから聡太の顔がまともに見れない。挨拶すら出来なかった。


「変な奴って思われたかなあ。いきなりキスなんて」


 戻れるなら昨夜に戻りたい。聡太と二人で海で語るところからやり直したい。


「大丈夫でしょ。いきなりキスするって別に変じゃないじゃん」


「それは恋人同士だったらの話じゃん」


 顔を上げて、沙希の横顔を見た。


「いやいや、全然するって。私の周りなんて付き合う前に体の相性確かめるぐらいだから」


 春奈は目を見開き、呆然と沙希を見た。返す言葉が見つからない。彼女の友人は一体どんな思考をしてるのだろうか。


 そもそも沙希は経験豊富だった。交際経験はこれまで三回と言っていた。当然、性交渉も経験済みだった。何もかも未経験な春奈とは違う。そんな彼女の友人なら、考え方は自分とは正反対なはずだ。


「大丈夫だよ。何ともないって。堂々とアタックすればいいって」


「本当かなあ」


 沙希の励ましがいまいち胸に響かなかった。胸の蟠りが全部取り除かれない。


「私もちょっと行ってこようかな。春奈は?」


「私はいいや。もう少しここにいる」


 そっか、と口にして沙希は海に向かって駆け足になった。春奈はその後ろ姿をぼんやりと眺めた。


 はあ、と一人ため息をついた。本当にどうしようか、と自問した。けど答えは出てこなかった。


 昨夜寝不足なこともあって、頭が重かった。春奈は少し目を瞑っとこうと、膝に顔を埋めた。


 観光客の声とどこからか聞こえる音楽が耳に届いた。そのこともあって眠りはしなかった。こんな所で寝ていたら何をされるかわからない。


「せん、ぱい…」


 ぼそりと呟いて、聡太の事を考えた。彼の様々な表情が瞼の裏に再生された。


 戸惑ったような顔だ。それは昨日キスをした時に見た表情だった。無理もない。突然あんな事をしたのだから、その反応は正しいのだ。しかしーー


(先輩は、どう思ったんだろう…) 


 少しでも自分のことを考えてくれただろうか。それとも逆か。彼の心が知りたい。


 ブルーシートの上を誰かが踏んだ音が聞こえた。誰だろう。けど、顔は上げなかった。もう少しこの姿勢が良かったからだ。


「大丈夫? 乾さん」


 その声が聞こえて、春奈は徐に顔を上げた。顔を上げないと決めていたのに。しかし彼の声を聞いたら別だ。眩しい太陽の光に、目を細めて、次第に彼の顔がはっきりと視界に映った。


「先輩…」


 寝ぼけたように、春奈は言った。


「大丈夫? 何か偉そうだけど」


 聡太が見下ろしてくる。彼の手にはペットボトルがあった。彼はキャップを外して、飲み口を口に当てた。彼の口の中に水が入っていくのがわかった。


「大丈夫です。ちょっと、寝不足で」


 春奈は心配かけないように笑った。


「そう。なら良かったよ」


 安心したように、彼は微笑んだ。彼はペットボトルをパラソルの根元付近に置いた。


「えらかったら言ってね。無理は禁物だから」


 そうして彼は再び海に戻ろうと足を前に踏み出した。


「あっ、先輩!」


 春奈は反射的に声をあげていた。彼は振り返って足を止めた。


「やっぱりしんどい?」


 彼は近づいて、ブルーシートに膝をつけた。そのまま春奈の顔を覗き込んだ。彼の顔が正面にきて、春奈は思わず目を見張った。


 先輩はどうしてそんなにいつも通りなのーー。


 昨夜沙希達が言っていた。これで意識しない人はいないと。あれだけのことをしても自分は女性として見られていないのか。


 顔を背け、春奈は拳を強く握った。聡太の態度と自分に対しての情けなさ、悔しさに心が折れそうになった。ここが一人だけの空間なら涙が溢れていただろう。


「先輩は」春奈は顔を逸らしながら訊いた。「私のこと…、何とも思ってないんですか」


 目が熱くなってきた。ダメだこのままでは。春奈は必死に堪えた。


「何とも、なんてことはないよ」


 えっ、と春奈は聡太を見た。彼は目線を落として、考えているような顔をしていた。


「昨日は」聡太は少し照れたように、頬を指でかいた。「びっくりした。どう言葉を出せばいいかわからなかった」


 春奈はまじまじと彼の顔を見た。彼のこんな顔はほとんど見ない。


「あんなことがあって、何とも感じないわけがない。だから今日はいつも通り振る舞うことに必死だったよ」


 そうだったんだ、と春奈は声にした。彼は彼なりにいつも通りに振る舞おうとしてくれたのだ。


「その、嬉しかったですか」春奈はここで訊いてみた。「私のキスは」


「参ったな」聡太は困ったように目を細めた。「そういう質問は勘弁して」


「お願いします! 教えてください!」


 春奈は四つん這いになって、彼に詰め寄っていた。彼との距離が一気に近づいた。


 聡太は顔を逸らして言った。


「その、嫌ではなかったと思う…」


 その言葉が聞けて、心の不安が一気に晴れた。


「嫌じゃない…。そっかそっか。嫌じゃない、か」


 春奈は緩まる頬を極力抑えながらにやけた。


「恥ずかしいから、繰り返さないで」


 彼の唇が動いた。春奈はそれを見て、またキスがしたいと思った。今すぐにでもまたあの感触を味わいたかった。

 

 でも、それはダメだと自制した。彼の心を無視して強引にするのは良くない。しかし、嫌じゃなければまたしてもいいのだろうか。


 衝動的に彼の顔に手を伸ばしかけた時、海の方で声が聞こえた。春奈と聡太は二人して視線を向けた。明らかに二人を呼んでいる素振りだった。


「お呼びだから、行こうか」


 聡太が立ち上がったので、春奈も倣った。あとちょっとのところだったのに、と口を尖らせた。でも心は晴れ晴れしていた。


 チャンスはいくらでもあるかーー。


 春奈は聡太に置いて行かれないように、後ろをついて行った。



◆ ◆ ◆


 

 夕陽が海に少しずつ沈んでいく様子をここまで見たことはなかった。聡太は窓越しに見て、そんなことを思った。


 翔が時折体を伸ばしながらハンドルを握っている。さすがに疲れがあることは見ていたわかった。


 助手席には吉野舞がいた。行きとは違う乗員にした理由は舞が、帰りは変更しようよ、と言い出したからだ。くじ引きで決まったのだが、聡太は行きと同じ翔の車だった。


 聡太と同じ後部座席にいるのは賀喜沙耶だ。このメンツで一つの空間を過ごすのは珍しい光景だった。それでも会話は途切れることなく盛り上がった。


 一段落喋り終えたところで、沙耶と舞が静かになった。気づけば二人は寝ていた。そんな二人を見て翔は笑っていた。


 夕陽が消えて、外が暗くなり始めた。聡太は窓に映る景色を見て、先の出来事を思い返した。


「キス、されてたね」


 帰り際、お手洗いから出た聡太を待ち構えていたのは美優だった。彼女と並んで駐車場まで戻った。


「どうして…」と掠れた声を出して、すぐにピンと来た。彼女は昨夜のことを見ていたのだ。


「どうだった? あの子のキスは」

 

 なんて質問をしてくるんだ、と心で悲鳴を上げた。聡太は何も言わなかった。


「嫌じゃなかったんだね」


 覇気のない声だった。彼女の機嫌が良くないことは察した。


「その」聡太は何かを言おうと彼女に顔を向けた。その瞬間、温かい感触が唇にはしった。


 体が金縛りにあったように動けなかった。唇が離れてもその状態は続いた。


「私のも、嫌じゃない?」


 美優が顔を紅潮させ見上げてきた。聡太は目を見開いたまま固まっていた。


 彼女は微笑んだ。


「その反応は、嫌じゃないってことかな」

 

 おーい、と呼ばれ美優は先に走って行った。聡太はぽつんとその場に残された。


「ん、どうした聡太。そんなとこで突っ立って」


 長いトイレから出た海斗が後ろから言った。その声でやっと体が動ける気がした。


「何でもない。ちょっとびっくりしてて」


「は。なんだそりゃ」


 聡太はそうして海を去った。


 後部座席で誰にも気づかれないように、息を深く吐いた。


(二日間で二人からキスなんて。どういう状況だよ)


 二人からのアプローチに聡太の思考は混乱状態だった。


 疲れていても、眠れるわけがなかった。

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