第32話
体は疲れていた。でも、夜風に当たりたい気分だった。一旦部屋に戻った後に、再び外に出た。
堤防に腰を下ろして、月の光が注ぐ海を眺めた。ザァという音が、とても心地よく耳に届く。心が浄化されていくみたいだった。
後ろから、足音が聞こえた。聡太は反射的に振り返った。
「乾さん。どうしたの」
そこには乾春奈がいた。彼女はラフなtシャツに、ショートパンツ姿だった。昼間は纏めていた髪は、今は無造作に下ろされていた。
「先輩が外に行くのが見えたので。私もついて来ちゃいました」
春奈はそう言って、堤防の上に乗って、聡太の横に腰を下ろした。シャンプーの香りが、鼻腔をくすぐった。
「なにしてたんですか。こんなところで」
「いや。ただ夜風に当たりたくてね。海をのんびり見ていただけだよ」
「そうですか。けど、良いですね。夜風がすごく気持ちいい」
「そうでしょ」
夏特有のこの絶妙な気温が、聡太は好きだった。小さい頃にこうして旅行に来た時も、親とこうして夜風に当たったものだ。
「そういえば先輩のこと、松浦さんが探してましたよ。酒飲もうぜと言ってました」
「ああ、そうなの? もう少しのんびり行こうかな」
やけに海斗が酒を買っていたのを思い出した。夜に部屋で飲むつもりだったのかと、合点がいった。
「いいなあお酒。私も飲みたい」
「未成年はダメだよ」
「一歳なんて変わんないですよ。それに私飲んだことありますし」
「悪だね、乾さん」
「先輩が真面目すぎるだけです。周りの友達、バレないように皆飲んでます」
それも当然か、と聡太は思った。世の中の規則なんて形だけなのだ。実際はルール違反ばかりだ。
「ていうより先輩も飲むんですね。結構飲むんですか」
「いや、大したことない。海斗と翔に比べたら」
「あの二人は凄そうですもんね」
春奈は苦笑した。二人の姿を想像したのだろう。
「そういえば気になったことあるんですけど」
「ん、なに?」
聡太は春奈を見た。彼女は目を合わせて来た。
「松浦さんとカキサヤさん。あの二人って出来てないんですか?」
春奈は美優と話していたことを聡太にも尋ねてきた。
「付き合ってないはず。そんな話聞いたことない」
「でも、あの二人、すごくお似合いじゃないですか?」
聡太は首を捻った。
「ん、どうだろう。でも確か、海斗好きな人がいたはずだけど」
「えっ、そうなんですか」
聡太はうんと頷いた。
「バイト先の、一歳歳上の人が良いみたいなこと前に言ってたから」
居酒屋で働く他大学の女子大生だ。海斗曰く、そこらの女優よりも可愛いというほどの女性らしい。聡太は顔は見たことなかった。
「へぇ、そうだったんですか。何か意外。そういえば、今日のメンツで恋人いる人いないですよね?」
「いや、いるよ。一人」
えっ、とまたも春奈は驚いて目を大きくした。「誰ですか」
「亮太。いるでしょ、金メッシュの髪をした男。他大学の人と付き合ってるって本人が言ってた」
聡太の言葉に春奈は、「へぇー…」と口に出した。意外な人物に言葉が出なかったのかもしれない。
「でも良いんですかね。女子がいる旅行に来ちゃって」
「どうだろうね。本人は、恋愛感情は一切ないから大丈夫って言ってたけど」
「そういう人に限って、浮気とかするんですけどねえ」
彼女の発言には聡太は苦笑するしかなかった。ここで男の肩を持つのは良くないと感じた。
「先輩は、いないんですか? 恋人」
突然、春奈がぽつりとそう口にした。二人だけの空間にその声はよく聞こえた。
「いないよ。知ってるでしょ」
「はい、知ってます。恋人は作る気はないんですか」
春奈の質問に、聡太は黙った。答えは出ているが、それを本人の前で言うのはどうかと、迷いが生じたからだ。
数秒考えた後、聡太は言うことにした。
「乾さんには申し訳ないけど、好きな人がいないから。そういう気はない、かな」
海に向かって、そう言った。
「…、そうですか」
春奈の声に変化はなかった。まるでわかっていたかのようだった。
「けど、私の気持ちは変わってませんから」
彼女を見ると、その視線は海に注がれていた。ただ真っ直ぐに。
「そう。ありがとう」
聡太は礼を言った。そのまま何も言わず、黙って海を眺めた。
波飛沫が一定のリズムで辺りに音を響かせる。ここに来て、何回波が引いて、押し寄せるを繰り返しただろうか。しばらくの沈黙の間、そんなことを考えていた。
「ねえ、先輩」
春奈が聡太を呼んだ。聡太はなにと返事したが、彼女を見ずに、海を見続けた。
「キス、してもいい?」
えっ、とその言葉に驚いて彼女を見た。けどすぐにまた別の驚きを彼を襲った。
春奈はいつの間にかすぐ横に来ていた。そして柔らかい感触が手の甲に伝わった。彼女は聡太の左手の上に、右手を乗せていた。
「ちょ…」聡太は思わずのけぞっていた。あまりにも顔が近かったからだ。
でも彼女は聡太のそんな仕草に何の躊躇いも感じなかった。そのまま顔を近づけて、唇を優しく重ねてきた。
何が起きたかわからなかった。聡太は何も抵抗せずに、指一つ動かさず固まった。
何秒続いたかわからない。きっと数秒だろう。けど、その数秒がとても長く感じた。
唇が離れた。次第に彼女の顔が見えてくる。でも暗いから彼女の顔の色はわからなかった。
「乾さん…」
聡太はやっと声に出した。けど何て話せばいいかわからなかった。彼女の名を呼ぶだけで限界だった。
「ごめんなさい。許してください」
春奈は微笑んだ。そんな表情をされては、何も言えなかった。
「そろそろ戻りますね。夜も遅いですし。じゃあ、おやすみなさい」
そうして春奈は宿に戻っていった。聡太は彼女の背を見つめた。
彼女の姿が見えなくなって、自分の唇に手を触れた。
温かく、柔らかい感触がまだ残っていた。強烈なファーストキスだった。
▽ ▽ ▽
宿に戻った春奈は部屋の前で楓と出会った。
「春奈! どこ行ってたの!?」
楓は一気に詰め寄って捲し立てた。春奈は苦笑して、夜風に当たってた、と答えた。
「どこにもいないから、心配したよお」
楓は首に手を回して抱きついてきた。ごめんごめん、と春奈は彼女の背中をさすった。
部屋に入ると沙希が布団の上でスマホをいじっていた。こちらは全然心配してなかったようだった。おかえり、と呑気な声で春奈の帰りを迎えた。
「どうやった、成果は」
沙希が変なことを言うから、へっ、と間抜けな声を出した。「何のこと?」
「とぼけなくていいよ。神谷さんが外に出てくの知ってたから。春奈もその後追ったんでしょ?」
ぎくりとして、春奈は沙希の顔をまじまじと見た。彼女も春奈を見た。そして微笑んだ。彼女は知っていたのだ。バレないように抜け出したつもりなのに。
「で、どうだった?」沙希は再度同じことを訊いてきた。
「えっと…」春奈は言葉に詰まった。さっきのことは自分だけの秘密にしておこうと決めていたのだ。しかしとんだ誤算だった。
「これは、なにかあったな」沙希と楓が同時に口にした、互いを見た。二人は春奈が隠し事が苦手ということを見抜いている。
「いや、別に…、なにも」
春奈は明後日の方向を向いた。でもそれが逆効果だということを知らなかった。
「春奈。早めに白状した方が良いよ」
「そうやね。じゃないと、くすぐりの刑だぞ」
沙希が両手の指をくねくねと動かした。くすぐりは弱いからダメだ。
「わ、わかったから! 言う! 言うから!」
ジリジリと近づいて来た二人を制して、春奈は息を深く吸って吐いた。まだあの時の鼓動が収まってないのだ。
「実はねーー」
春奈は先程の出来事を話した。自分で話すのは何とも恥ずかしことだった。
「ええー! キスしたの!?」
楓と沙希は当然と言わんばかりに声を大にした。
「しー! しー! 隣の部屋に聞こえるでしょ!」春奈は口元に人差し指を立てた。
「春奈、思い切ったね…」楓が驚いた目で見てくる。変な生き物でも見てるかのような目だった。
「自分でもわからないよお!」
春奈は羞恥で手に持っていた枕で顔を埋めた。うーうー、と枕に向かって唸った。
自分でも何故あんな行動に出たのかわからなかった。気づいたら唇を強引に重ねていた。とんでもないことした、と気づいたのは宿に帰る時だ。罪でも犯した気分で、鼓動が強烈に速くなっていった。
「春奈に、こんなえっちな部分があったなんて…お姉さんびっくり」
沙希が感心したように言った。
「ねえ? びっくりだよ」
楓も同情した。二人の言葉が春奈の胸にさらに傷跡をつけていく。
「でも、まあいいんじゃない? なにも進展ないより、こうやって手は打っておいたほうがいいよ」
「そうだね。これで意識しない人はいないよ」
沙希と楓はそう言うが、どうだろうか。相手は聡太だ。世間が思う一般男性とは違う。女性に対してどこか恐怖心を持っている男だ。この程度の攻めは何とも思わないなではないだろうか。
もしこれで意識されなかったらどうしようか。春奈は考えた。しかし悲観的になることはなかった。むしろ逆だ。もっと頑張ればいいのだと心に言い聞かせた。絶対に諦めないと誓ったのだ。
そういえば、と春奈は枕に顔を埋めたままあることを思い出した。先の一件で宿に戻る際、誰かがいたような気がした。顔を見ていないからわからなかったが。
「それで春奈、キス以外のことはしなかったのー?」
頭上で相手をからかう声が聞こえてきた。今日はというより、これからこの話題で持ちきりだ。
(やっぱり、キスはやりすぎたかなあ…)
思い出すだけでも顔が熱くなる。この熱さは当分は冷めない気がした。
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