第29話
美優は見慣れた天井をぼんやりと眺めていた。周りが見れば、虚空を見ているかのような腑抜けた顔をしているだろう。
「夢じゃないんだ…」
そんな言葉を呟いて、試しに頬っぺたを右手でつねってみた。痛かった。
美優はうつ伏せになって、顔を枕に預けた。落ち着きのない様子でバタバタと足を動かした。
鼓動がまだ収まらない。それはそうだ。あんなことがあったから。
時間は数時間前に遡る。
▼ ▼ ▼
「だってこの子、俺の彼女だから」
電車の中で聡太は確かにそう言った。聞き間違えではなかった。
「彼女? ははっ、なに言ってんだよお前」
淳哉は面白いのか、声を上げて笑った。
「いや事実ですけど」
聡太は気にした様子もなく淡々と言った。美優は彼を呆然と見つめていた。
「まだ付き合って日は浅いですけど、ちゃんと俺の彼女ですよ。だから彼女と遊ぶのはダメです」
彼は重ねて言葉を並べた。淳哉は少しひるんだのか、歯を食い縛っているのがわかった。
「はっ、急に出てきやがって。彼氏? 俺にはそんな風には見えないけどな。なあ、美優ちゃん実際どうなの?」
淳哉に振られ、びくりとした。とっさに聡太の顔を見た。彼はなにも言わず、じっと美優を見ていた。
美優は息を吸って、言ってやった。
「そうです。彼と付き合ってます。だから木部さんとは遊べません。ごめんなさい」
美優は頭を下げた。顔には出さないが、心臓はバクバクだった。
「へえ…、そうなんだ…。知らなかったわ…」
淳哉は明らかに動揺していた。こんな嘘でも彼には相当なショックだったらしい。
三人のやり取りを見ていたのか、車内の乗客が少しざわつき始めた。スマホをこちらに向けてくる乗客もいて、状況が悪化した。だがタイミングが良くここで電車が停車した。美優の自宅からの最寄り駅だった。
「そういうことなんで。もう彼女に関わらないでください」
聡太が淳哉に少し詰め寄って言った。淳哉は何も言い返せず、目をつり上げていた。
すると、美優の右手がそっと握られた。びっくりして彼を見た。
「行こ。美優」
聡太が優しく微笑んで言った。
「は、はい…」
美優は彼に手を引かれるまま、電車を降りた。彼の横顔をずっと見つめて。
心臓ははち切れそうになっていた。
◇ ◇ ◇
改札を抜けて、駅から出た。まだ右手は彼の左手と繋がっていた。それからしばらくはそのままだった。
どれくらい経って、切り出しただろうか。
「あ、あのーー」美優は彼に声をかけた。「神谷君」
聡太は立ち止まって、どうしたのと聞き返してきた。彼の顔が近くにある。今は顔が見れなかった。
「その、手…」美優は恥ずかしさを抑えることができずに伝えた。
数秒間沈黙があった。その静けさを打ち破ったのは彼だった。
「あっ、ごめんなさい!」
瞬時に左手が離れ、彼は美優と少し距離をとった。彼にしては滅多にないリアクションだった。
美優は彼の顔を見た。彼は恥ずかしそうに、目線を横に向けていた。
「その、ごめん。急に変なこと言っちゃって」
少しして彼が言った。変なこととはもちろん嘘のことだ。
「ああ…、うん。大丈夫だよ」
なんとか言葉を返したが、いつも通り振る舞えない。まだ鼓動は鳴りっぱなしだった。
「でもありがとう。おかげで助かったから」
それは事実だった。ああとでも言わない限り、あの男はいつまでも追ってくるだろうからだ。
「そう。なら良かった」
ほっとしたように、聡太はふうと息を吐いた。美優はそんな彼の表情を目にして、思わず笑ってしまった。
「……なにか、可笑しかったかな」
困惑気味の聡太が言った。怒ってるわけでもなく、どちらかというと恥ずかしそうな顔をしている。
「いや、神谷君がそんなに焦ってるの見たの初めてだから。神谷君でもそんなに焦ることあるんだね」
いつも聡太は冷静沈着。美優は彼を見てきてからずっと抱いていた印象だ。間違ってるわけではないだろうが、ここまで態度に出るのは新鮮だった。
「そりゃ焦るよ。だって、あんなこと言っちゃったし。新谷さんには申し訳ないことしちゃって……」
新谷さん、という響きに少し残念に思った。美優。また名前で呼んでくれたらいいのに。
「そんなことないよ。むしろ嬉しかったよ」美優は自然と彼の顔を見た。「だって、一瞬でも恋人になれたんだもん」
彼の目が大きく見開かれた。その表情に美優はあれ、と思った。前まではこんなにわかる反応を示してくれなかったのに。一体どういうことか。
もしかして少しは意識してくれてるのかなー-美優はそんなことを思った。
「神谷君さえよければ、本当の恋人になってもいいんだよ?」
ちょっと調子に乗ってからかってみた。顔は火が出るほど熱くなっているが、夜だからバレないはずだ。
「その」聡太は美優から視線を逸らして言った。「からかうのはやめてください…」
「あはは」美優は彼の表情を見て、恥ずかしくなった。「ごめんね」
そこから再び、沈黙が訪れた。何も言わずに、二人並んで歩いた。
美優は時折、彼の横顔を見て考えた。
もし、彼の恋人になったら、こうして二人並んで歩ける日常なのだろうか。彼の手を繋いで、互いに見つめ合って笑い合うのだろうか。
美優は口元を緩めた。もしそうだったらなんて幸せなのだろう。でも、その理想にはまだ遠すぎる。
「あの男は」不意に聡太が言った。あの男とは淳哉のことだ。「知り合いのようだけど、いつもあんな風なの?」
「う、うん。そうだね」
彼が急に話題にしたから戸惑った。
「あの男にああやって嘘ついたけど、いつまで持つかは分からない」
「そうだね。あの人にはすぐにバレそうだし」
もしそうなったら、また面倒な日々に逆戻りだ。無性に溜息をつきたくなった。
「そんな感じがするよ」
聡太も同感のようで、苦笑した。
と、ここで美優はあることを思い付いた。大胆なことだと思うが、一応彼に提案してみよう。
「すぐにバレそうな気がするから、時折デートとかした方がいいんじゃない、かな」
言っちゃった、と内心バクバクだった。でももう引き返せない。
「デート…。それは彼への対策的な?」
聡太が訊いてきた。
「う、うん。やっぱり証拠って大事だと思うから。いつあの男に今日みたいなことされるかわからないし」
彼の表情を伺いながら、早口で捲し立てた。彼の反応が気になった。
「なるほど…」聡太は顎に手を乗せた。深く考えているようだった。
「確かに証拠は大事だけど、新谷さんは、それでいいの」
と、聡太は考えた末に言った。
「うん、私はいいよ。それに、私の気持ち…、知ってるでしょ」
美優は答えた。聡太が一瞬、虚をつかれた顔をした。
「ああ、うん」聡太は美優から視線を逸らした。
「もちろん神谷君に無理付き合わせる気はないよ。嫌ならいいから」
あまり言いたくない言葉だが、彼の気持ちは無視できない。ここで嫌と言われたらそこまでだ。
聡太は数秒考えた後、言った。
「わかった。じゃあ時折、そうしよう」
「いいの?」
美優は舞い上がる心を抑えて確認した。
「自分が起こした状況でもあるから。それに、ここで投げ出すのは無責任かなって」
「そっか」
緩む口を必死に抑えるのが難しかった。先ほどまでの憂鬱とは嘘のように上機嫌になった。
「それで、どうすればいいのかな」聡太は言った。「いつデートするとか」
「うーん、例えば大学終わった後とか? もしあの男と会っても困らないようにさ」
「ああ、そうだね。まあそれなら向こうも声かけてこないね」
どんどん話が進んでいく。けど彼も面倒そうにしてないから大丈夫そうだ。
「うん。本当ありがとう、神谷君」
「いや大丈夫だよ」聡太は僅かに微笑んだ。
彼氏、彼女の関係ではないが、彼が美優のためだけに時間を作ってくれる。それだけでも十分幸せだった。
「ありがとう。ここまでで大丈夫だから」
家の近くに来て、立ち止まり、美優は言った。別れが残念だった。
「うん、わかった。じゃあ」
彼が手をあげたので、美優も手を挙げた。
でも、すぐには帰らなかった。やっぱり訊きたいことがあったから。
「ねえ、神谷君」
「なに?」
「私のこと、前よりは少し意識してくれてたり、する?」
じっと彼の目を見た。彼はいつもの遠くを見るような目で、美憂のことを見返している。
「わからない」
彼は答えた。美優は特になにも感じることはなかった。予想はしていたから。
「でも」しかし、彼は言葉を続けた。「新谷さんだから、あんなことができたのかもしれない」
「えっーー」美優は速まる鼓動を感じながら訊いた。「それって…」
「わからない。でも前よりは違う気がするよ」
聡太は微笑んだ。それは遠くを見る目じゃなく、確かに美優を見ていた。
「ほ、ほんと?」美優は目を大きくした。「本当に?」
「新谷さん、じゃあまた大学で」聡太は答えず、背中を向けた。そのまま足速に帰ってしまった。
美優はじっとその場に立ち尽くして、彼の背中を見つめた。やがて見えなくなると、駆け足で自宅まで行った。完全に浮き足立っていた。
彼に近づけた。そのことがわかっただけでも、こんなに心は幸せな気持ちになるなんて知らなかった。
▽ ▽ ▽
聡太は彼女と別れ、足早に夜道を歩いていた。
なぜ自分でもあんなことをしたかわからないーー聡太は先の電車の出来事を振り返った。本当にあれは自分がしたことなのかと疑いたくなる。
『意識してくれてたりする?』
先ほど彼女に言われたことだ。わからない。それは本当だった。
けど、少しは意識していないとあんな行動起こさないよなと、聡太は思った。本当にわけがわからない。
彼女のことは、まだわからない。恋愛感情がないのは確かなはずだ。でもこれまで彼女と接してきた分、他の感情があるのかもしれない。
「デートか…」
聡太は呟いた。まさかこんな言葉を言う日が来るなんて。
(デートなんてろくにしたことないんだけどな)
不安しかない。大丈夫だろうか。
深く溜息をついた。何だか自分じゃないみたいだ。
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