第10話
(すごい…)
ピアノを弾きながら抜群の歌唱力を披露する彼の姿を、客席から見ていた新谷美優はそう一言胸の内で表した。
ライブの感想を書けと課題が出たら、何文字でも書ける気がした。それくらい美優にとって感動と衝撃のライブだった。
幕が上がると見える彼の姿。ピアノを前にして立つ姿はいつもより凛々しく見えた。黒基調の衣装、セットされた髪型は美優の心を強く揺さぶった。
「かっこいい…」
登場してすぐにそんな言葉を口から漏らしていた。ハッとして我に返り、周りを見ると、驚いた。観客の皆が彼に心を奪われたかのように釘付けになっていたのだ。
イントロが流れ、観客の手拍子が鳴る。同時にステージの上に設置されたスクリーンに映像が流れる。彼の顔が大きく映しだされる。
彼は手拍子を気にすることなく、マイクに近づき声を出した。
その瞬間、辺りが「おおー」と沸いた。
声は出なかったが美優も観客と同じ気持ちだった。澄んだ彼の歌声は美優の耳に、心臓を大きく貫いたように、一気に興奮させた。
スクリーンに映される彼の表情と歌詞。スクリーンの下には実物の彼が歌っている。それを交互に見て、彼の表情、歌詞を視覚に入れた。
サビに入ると、全身に鳥肌が立った。力強い歌声は美優の全身を襲った。
気付けば頬が緩んでいた。口角が上がっている。彼の歌声、演奏、メロディー、全てが美優の好みだ。
いつの間にか背筋がピンとしていた。それに気づいたのはいつだったかわからない。それほどまでに、美優はのめり込んでしまった。
力強く、圧倒的な歌唱力ともに、オープニングの1曲目が終わった。終わると同時に、体育館全体が揺れたように拍手と歓声が沸き上がった。美優はまたも鳥肌が立った。
2曲目、3曲目と彼の歌声はさらに力強さを増していく。ピアノを弾く曲の時の彼は、何度も観客席を確認していた。それだけで観客をどう想っているのかが伝わってくる。
ピアノを弾かない曲では、マイクを手に持って、観客に一番近い台の上で熱唱する。彼が手を挙げると、美優だけじゃなく観客全員が手を挙げて上下に揺らした。
アップテンポの曲、ミステリアスな曲、バラード曲。似た曲ばかりだけじゃなく、違う曲調のばかりで、聴いてて飽きない。
時間が経つにつれて、彼の顔には汗が滲んでいるのがわかった。いつも汗一つかかず、クールな表情ばかりを見てきた美優にとって、それは新鮮だった。クールな一面だけでなく、あのステージの上で歌う彼の表情には笑顔が多い。普段と違う彼の表情に美優の胸は躍った。
胸が躍ったのはおそらく美優だけではないだろう。この会場にいる全員がそうであるはずだ。彼の歌声に魅了され、彼が手を挙げると一緒に上げて、まるで本物の歌手のライブに来ているかのような空間。隣に座る友人の沙耶も最初からひっきりなしに歓声をあげている。
ライブ終盤。ステージ全体に照明が照らされると、そこに汗だくの彼が立っている。彼は観客を正面にして語った。
「本日は本当にありがとうございました。早いもので次で最後の曲となります」
えー-、と観客が言うと、彼はにこりと微笑んだ。
「今日は本当に夢のような日でした。ここにいる多くの皆さんが、僕たちの演奏で笑顔になってくれて、手を挙げて応じてくれて、本当に嬉しかったです。夢のような世界ってまさにこういうことなんだなって思いました」
美優は観客を前にして語る彼の姿を目に焼き付けるように見る。
「本当にありがとうございました。それでは最後の曲です」
そう言うと、イントロが流れる。彼は自分に残っている力を全部出すかのように、歌った。
曲が終わりに近づくと同時に、幕が下りてくる。そして曲が鳴りやむと幕が全て降りた。
観客から大きな拍手が沸き起こった。それも長い時間。
次第に音が鳴りやみ、完全に音が無くなった後。どこかの誰かが、
「アンコール! アンコール!」
と言い出した。
その声は瞬く間に他者へと伝染した。
「アンコール! アンコール!」
「アンコール! アンコール!」
体育館全体に手拍子とともに響くその声は、おそらく見ていた観客全員から発せられているに違いない、と美優は感じた。
美優も声に合わせ手を叩く。まだ彼の歌声が聴きたかった。
少しして。降りた幕の奥から、ピアノの音が響いた。その瞬間に観客が沸きだった。
メロディーとともに降りていた幕がまた上がった。彼はピアノを楽しそうに弾いていた。
彼の歌声が聴こえると美優は再度興奮した。
メロディーに合わせ手を叩く。会場全体が一つとなっている。
「アンコールありがとうございまーす!!」
マイクを通して彼の声が響くと、観客はまたも沸きだった。
アンコールの1曲目、2曲目が終わり、最後の曲。アップテンポで美優好みの曲だった。
「最後の曲の最後のサビです!! 会場の皆さん全員で手を振って、最高の思い出を一緒に作りましょう!!」
彼が台に上がって言うと、今日一番の歓声が上がった。そして美優を始め、観客全員が彼に合わせて、手を振り始めた。
紙吹雪がステージの上に舞った。美優の頭上にも飛んできた。
「皆さんの前でこうして歌えたこと、本当に嬉しくて、楽しかったです! 本日は本当にありがとうございました!」
その言葉を最後にして、彼のロングトーンが響き渡る。そしてバンドメンバーと顔を見合わせ、バッチリのタイミングで演奏が終了した。
同時に上がる拍手と歓声。彼を含めた4人はステージ前に来て手を繋ぎ、観客に向かって深く一礼をした。
「神谷くーん!!」
「聡太ー!!」
彼の名を呼ぶ声があちこちから上がった。間違いなく彼は今年の文化祭の顔だ。あれだけの演奏と歌声を目にして、多くの人を虜にした。
手を振りながら、4人がステージを去っていく。美優も手を振って彼らの別れを惜しんだ。
「すごかったね!! 私、神谷君のファンになりそう!」
ふと、どこからが上がる女子生徒の声。
「かっこよすぎる!! 私もファンになったかも!!」
「もしバンドでメジャーデビューとかしたら絶対ライブ見に行く!! てか絶対売れる!」
「ねえ! 誰か今のライブ撮ってない!? もう一度聴きたいんだけど!」
4人の演奏はこれほどまでに強く観客の心を貫いていた。特に中心の神谷聡太が見せたギャップに驚き、魅了されたのだろう。
「すごかったね!! 神谷君あんなに歌上手いなんて思わなかったね!」
「うん。すごかった…。本当にすごい。ファンになっちゃったかも」
当然、美優は彼の虜になった。これまでも彼のことは好きだったが、今日のステージを見て、その想いがさらに強くなった。
友人の沙耶と感想を語り合って体育館を人の波に押されながら出た。
すると、体育館の外で女子生徒の歓声が聞こえた。美優らは聴こえた方へ歩を進めた。
(なにやってんだろ…?)
不審に思いながら近づくと、だんだん理解してきた。女子生徒が長い列を作って何やら待っている。その列の先頭には先のバンドメンバー3人、椎崎、松浦、小川がいた。
「すごい写真会だね…」
隣の沙耶がその光景に苦笑した。「あれ? でも神谷君いないね」
「そうだね」
美優もそのことにはすぐ気づいていた。もし彼がいたらこの列に並んでいたのに。
そんなことを考えていると、
「あっ、いたよ!」
近くにいた女子生徒そう言って、とある方角へ駆け足しだした。それにつられたかのように他の女子生徒たちも駆け出す。
もしかして、と思いながら美優はその波に乗って女子生徒たちの後を追う。その先には、やはり彼がいた。
彼は女子生徒に囲まれて、困惑しながらも写真撮影に応じている。汗で少し乱れた髪に、黒基調のステージ衣装はやはり似合っていた。女子生徒たちが彼に向ける目は、恋する乙女そのものだ。
「美優、行かなくていいの?」
沙耶はニヤリと笑ってそう口にした。
美優は友人の顔に少しムッとしたが、写真を一緒に撮りたい気持ちは嘘ではなかった。
美優は女子生徒たちが少しずつ去っていくタイミングを見計らって、彼に近づいた。
彼は声をかける前に、美優の存在に気付いた。
「か、神谷君、あの写真一緒に撮ってもいい?」
彼を目の前にすると、緊張で唇が震えてしまった。彼と過去にあったこともそうだが、目の前の彼はいつも以上に素敵に見えてしまうからだ。
「うん。いいよ」
素直に彼が応じると、美優は目を輝かせた。「ありがとう!」と言って彼の横に立った。
沙耶が、「写真撮ってあげる」と言うので遠慮なく撮ってもらうことにした。ニヤニヤとしているのが妙に腹に立つが、彼の前では極力態度を出さないよう抑えた。
「うん、ばっちり!」
沙耶が写真を確認してそう言った。美優も沙耶が撮ってくれた写真を横から見た。沙耶の言う通りバッチリと撮れていた。ツーショットだけで、心が舞い上がりそうだ。
ありがとう、と美優は再度彼に礼をした。
「うん。あと、こちらこそ演奏聴いてくれてありがとう」
え、と美優はポカンとした。彼が美優に話しかけてくれたのもあるが、その言葉の意味にもだ。
「新谷さん、ステージから見てもすごく楽しんでいるのがわかって、それが嬉しかったから」
彼は嬉しそうに、少し恥ずかしそうに目を細めた。
美優はその表情を見た時、何だか泣きそうになった。自分だけに見せてくれた笑顔。久しぶりに彼とこうして話せたこと。嬉しくてたまらなかった。
じゃあ、と彼は美優の目を見て去っていく。美優はその後ろ姿をじっと見つめた。
「良かったね、美優」
「わあ!!」
立ち尽くしていた美優の耳元に沙耶が声をかけて来たので、驚いた。美優は耳を抑え、口を尖らせて沙耶を睨む。
「怖い顔しないでよー。惚気モードを邪魔したのは悪いと思ってるよ」
「べ、別に惚気てないんだけど!」
美優はそう言うが、周りからすればその顔を真っ赤だ。沙耶はそのことをあえて言わなかった。
「誰かさっきのライブ撮ってないかなー? 良い曲いっぱいあって、もう一回聴きたいんだけど」
「誰か撮ってるんじゃないの?」
「確かにね。あ、もし誰か撮ってて、私がゲットしたら、美優も欲しい?」
沙耶はニヤニヤして訊いてくる。さっきからからかわれてばかりで悔しいが、相手を倒すネタは美優の手持ちにない。
「それは、もちろん…」
欲しいに決まっている。手にしたら何度でも見返すはず。誰か撮っていたらどんな手段でも獲得すると心に誓っていた。
「神谷君のかっこいい姿を、永久保存しないといけないもんね!」
沙耶のからかいに、美優はムッとするが、彼女の言葉は完全に的を射ていた。
後日、美優はライブ映像をゲットすることができた。沙耶から入手するのは少し手間取った。
美優はそれから毎日のように映像を見返した。その度に、
(かっこいいな…)
惚気た表情を出してしまう。
あの日から、さらに聡太を好きになった美優。
(高校卒業したら、神谷君とはもう会えない。でも…、嫌だな。もっと近くにいたい…。恋人になりたいな……)
美優は一つの決断をした。
彼と同じ大学に行く。学部は違っても同じ場所でまた彼に近づきたい。
美優は、人生で一番といっていいほど勉強に力を入れるのだった。
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