第5話
神谷聡太は図書室のいつもの決まりきった席で今日も机に教材を広げ、勉強をしていた。
3年生となり、あれだけ猶予があった受験勉強の期間がもう1年もない。1日1日、やることをやればあっという間に日は過ぎていく。1日足りとも怠けることなどできない。
聡太は進学希望だ。既に進路調査票にもそう記入している。良い大学を出て、家族を安定させられる仕事に就くのが今の夢である。
家族は母親と妹がいる。妹は現在小学校4年生だ。明るく、活発な子だ。いつも聡太が家に帰れば、くっついてくる。甘えん坊な所もある。
母親は看護師として働いている。家にいる日もあれば、夜遅くまで働いて帰ってくる日もある。夜遅くなる時は、基本聡太が家族の夕食を作る。妹も料理はできるが、「お兄ちゃんが作る方がおいしい」との理由で、聡太が神谷家の料理長に定着している。
父親は聡太が小学生の頃に亡くなっている。それ以降、聡太は家族のために自分が頑張らないといけない思いで、料理や勉強、あらゆることに力を入れ始めた。
家族のために。それがどんなに辛くても、聡太が頑張る動機であるのだ。
今日も1日頑張った。疲れを体から吐き出すようにぐっと背筋を伸ばす。窓の外を見ると、野球部のグラウンドが見える。照明がつくなか、ネットに向かってボールを打っている姿が確認できた。
図書室には聡太しかいなかった。いつもの図書委員もいない。
そろそろ施錠担当の教師がやって来る頃だ。聡太は机の教材をまとめ、鞄に入れた。
薄暗くなった帰り道。一人帰路に着き、自宅へと到着した。「ただいま」と言うと、「おかえり!」と中から声が返ってきた。それから足音がドタドタ聞こえると、リビングに通じる扉が開き、妹の
「お帰り! お兄ちゃん!」
「ただいま、葉瑠。お腹空いただろ? すぐに作るから待っててな」
妹の頭をわしゃわしゃと聡太は撫でた。葉瑠はまんざらでもなく、嬉しそうに目を瞑った。
リビングで制服を脱いでいると、葉瑠が、
「ねえ、お兄ちゃん! 今日テスト返ってきたけど100点だった!」
「へぇ、すごいじゃないか。何の教科だったんだ?」
「社会と国語!」
「二つもとったのか? すごいな」
学ランを脱ぎ、部屋着に着替えながら答える。するといつの間にもっていたのか、葉瑠は二つのテスト用紙を聡太に見せてきた。
「ほんとだ。100点だ。前に社会で100点とったことは知ってるけど、国語は初めてじゃないか?」
「うん、国語は初めて! 今回は前より簡単な問題だったから、解きやすかった」
「そうか。でも100点はそう簡単にとれないからな。大したもんだよ」
「えへへ。すごいでしょ」
聡太が嘘偽りなく褒めると、葉瑠は頬を崩した。そんな顔を見て、聡太も少し笑みを浮かべた。
着替え終えると、聡太はすぐに夕食作りに取りかかった。今日はハンバーグを作る。材料は昨日スーパーで購入済みだ。
手慣れた作業で料理を作り、葉瑠の話にも耳を傾ける。料理を作るときはいつもこうだ。
数十分過ぎ、料理は完成した。母親は分はラップにして、冷蔵庫に保存しておいた。
時刻は7時過ぎた頃。夕食にはちょうど良い時間だ。葉瑠と向かい合わせでテーブルに着き、お互いにいただきます、と食べ始めた。
「そういやお兄ちゃん」
「なんだ?」
食ベ初めて少しして、葉瑠がふと思い出したように話しかけてきた。
「お兄ちゃんって将来は何になりたいの?」
唐突な質問に聡太は箸を持った手を止めた。
「どうしたんだ、急に」
「今日、先生が『もう少し先だけど、二分の一成人式をやるから』って言って、それでその時に将来の夢とかを発表する時があるから、考えてきてねって言われたの」
「2分の1成人式か。懐かしいな」
聡太はふと口を緩めた。
「お兄ちゃんもやったことあるの?」
「あるよ。葉瑠と同じ4年生の時にな」
「じゃあ、お兄ちゃんはその時将来の夢は何て発表したの?」
葉瑠は興味津々といった目で訊いてくる。
「なんだったかな…。確か、音楽の先生みたいなことを言った気がする」
聡太は当時を思い返すように、目を閉じた。しかし、かれこれ何年も前の話なので覚えていなかった。適当に答えたような気がして、あまり思い出深くない。
「お兄ちゃんピアノ弾けるもんね。まだそん時はやってたんだ」
「そうだな。小学校までやってたよ」
「今でも弾けるの?」
「ああ。小さい頃の感覚はなかなか抜けないから、全然弾けるよ」
「そうなんだ。けど、先生かー。何かイメージないや。サッカー選手とか俳優さんとかのイメージだった」
「もっとイメージなくないか?」
「そんなことないよ。お兄ちゃん顔は良いんだから、俳優とか向いてると思うけどなあ。あと運動もできるしちゃんと練習すればプロのスポーツ選手も夢じゃないよ」
俳優、という単語が出で、一度家族で東京に行った頃の出来事を思い出した。小学校3年だった。原宿を歩いていたら、スカウトマンに突如話しかけられたことを。スカウトマンは必死の懇願でどうかどうかと、頭を下げていたが、聡太は興味なかったから丁重に断った。当時のスカウトマンは今どうしているだろうか。
「で、葉瑠はどうするんだ。将来の夢とかあるのか?」
聡太は肝心のことを妹に訊ねた。
「んー、モデルとか女優とか? あっ、パティシエでもいいなあ。あと…」
葉瑠は決められない様子であれやこれや候補をあげてく。
「そんな何個も言っちゃだめだぞ」
「わかってるよ。決められないなあ…」
悩む妹の姿を見て、顔が少し綻ぶ。自分にも4年生の頃は、こんな感じだったのだろうかと、思うと今の自分からは考えられない子どもっぽさだ。
「えー、わかんない。お兄ちゃん決めてよ」
「なんで俺なんだ。わからなくなったら、今挙げたやつの中から一つ言えばいいじゃないか」
「それが選べれないの。1つに絞れない」
困ったお嬢様だ。聡太はやれやれと内心思い、適当に、
「じゃあモデルでいいんじゃないか。本屋で雑誌とかよく読んでいるし」
葉瑠は兄の答えに少し考えたのち、
「んー、じゃあそれでいいや! どうせ将来の夢なんて変わるだろうし」
「なんだよそれ」
ごちそうさま、と葉瑠は立ち上がって食器を流し台に運んでいった。聡太も残っていたご飯を口に中に放り込んだ。
(将来の夢か。確かに夢なんてすぐに変わるな)
妹の言葉を受け、聡太は頭の中でそんなことを思った。
春も過ぎ、初夏が近づく頃。3年5組の教室に着いた聡太は鞄を机に置いて、必要な教材を机の中に入れ込んだ。
「おっす。聡太」
そんな時、聡太に声をかけてくる人物がいた。橋本渉。聡太の小学校からの友人だ。聡太はおはよ、と返した。
「知ってるか。今日古典単語のテストあるの。俺全然知らなくて、何も手つけてねえんだけど」
「俺は知ってたけど」
「さすが学年1位。俺とは全然意識の差が違うな。来週中間テストあるけど、まだ手どころか、課題も終わってねえわ」
「いつもいつもギリギリだから、渉にとっては平常運転だろ。それに何だかんだ点数悪くないじゃないか」
「まあな。スタートが遅くてもやる時はやるんだよ。で、聡太は昨日もいつものように図書室で勉強か?」
「そうだけど」
ふーん、と渉は口角を上げた。
「じゃあ、図書委員の女の子と最後まで一緒だったわけだな。羨ましい」
おちょくってくる渉に、聡太は冷静に返した。
「あの子は何時か知らないけど、俺より先に帰ってた。だから最後まで一緒にいたわけじゃない。それに、少し会話をするだけの関係だ。それ以上でも、それ以外でもない」
図書委員の女の子。乾春奈という名の女子生徒だ。去年も図書委員をしていた。図書室で毎回勉強をしている聡太は、彼女と少し話す仲であった。
そもそも聡太は女性が苦手だ。しかし会話が全くできないわけではない。普通に話されたら、答える。愛想よく演技もできる。だが、仮面を被ったまま受け答えするのは辛い。どっと疲れた感じになる。
要は、本当の自分をさらけだすのに時間がかかる。この人は大丈夫な人、そう信頼できるまで聡太は心を開くことはない。心を開くまでに異性として意識することはまずありえない。開いてからも意識することはないかもしれないが。
しかし、そういった意味では乾春奈は聡太の中では少し信頼感がある人物と言えるかもしれない。校内で女子生徒と話すのは彼女ぐらいだ。特段、意識していることは全くないが。
「ふーん、まあいいや。そういえば聡太。お前と話がしたいっていう奴がいるんだけどちょっといいか」
「話? 誰が?」
ちょっとついてきて、と言われ聡太は渉の後ろをついていった。教室から廊下に出て、隣クラスの3-4組の教室に入った。
教室に生徒はまばらだった。始業時間までまだ少し時間があるからか、そこまで生徒はいない。誰が自分に話があるのか、と教室を見渡していると、一人の男子生徒が聡太に近づいてきた。
「すまんな渉、連れてきてくれて」
そう言って目の前に立つのは、
聡太は彼のことは名前だけは知っていた。渉が過去にクラスメートだったからだ。話す際に時折会話に出てきた。
確か彼は軽音楽部だったはず、聡太はそんなことを考えて話の続きを待った。
「神谷君と初めて話すかな。名前は松浦海斗って言う。よろしく」
よろしく、とぶっきらぼうに聡太は返す。
「で、唐突で悪いんだけどさ。神谷君ってピアノ弾けるよね」
「うん、弾けるけど…」
でも、急になぜ? その続きを言う前に、海斗が思ってもいない言葉を言った。
「俺たちとさ、バンドやってみないか?」
安定な職に就き、お金を得る。そう描いていた自分の未来に思ってもいない選択ができたのは、この瞬間だった。
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