私にとって、このツノは。

龍々山ロボとみ

第1話


Δ 君たちにとって、ツノとは何だ?


 私にとっては至極どうでもいい事実なのだが、私の額には生まれつきツノが生えている。まあ、ツノといっても大したものではない。ヤギや羊、鹿やトナカイなんかと比べれば、全然ツノらしくもないものだ。


 生えている場所は右の眉毛の少し上辺り。額の皮膚を押し上げるようにして上向きに曲がって伸びている。長さは十センチにも満たない程度のもので、とんでもなく目立つというものでもなければ、どれだけ髪を伸ばしたところで隠しきることも出来そうにない。中途半端だな、とは自分でも思う。どっちにしろ、どうでもいいことなのだけれども。


 生まれつき、といったからには、まさしく生まれたときから生えていたらしい。私は覚えていないのだが、母の腹から出てきたときには既に生えていたそうな。もっともその時はまだ、少しコブのようになっていただけだったわけだが、生後一年を数える頃には立派にツノと呼べる形になっていた。私の物心ついた頃の記憶には、既にツノはあった。だから母の言うことは本当なのだろう。


 先天性頭骨奇形症。


 五歳の時に母に連れられて行った、町一番の大病院。そこで私を担当してくれた医者の先生は、そのような名前を私のツノに付けた。要するに、頭蓋骨の形が生まれつき変で、自然に治ることはないと、そう言いたかったのだろう。私を傷付けない為か、母を傷付けない為か、或いはその両方だったのかもしれないが、医者はあまり感情を交えず淡々と検査結果を語っていっていた。私としては、その態度は素直に良かったと思う。当時から私にとってツノは、有って当たり前のモノであり、無くても別に構わないモノだった。つまり、どうでもよかった。普通に生活する分には何の不自由もなかったのだ。前開きでない服を着るときには少々面倒だったし、通っていた保育園の他の園児たちにベタベタ触られたりもしたが、そのくらいだ。寝るときにツノが邪魔にならない寝方ならとっくに身に付けていたくらいで、もはや日常に溶け込んでいた。だからそうやって、大事に感じないように配慮してくれた医者の心配りというものは、私は好ましく思った。


 しかし、母は言うのだ。「なんとか治してやる事は出来ないでしょうか」と。その言葉は、医者に渋面を作らせた。「現状、手術をするのは負担が大きく、術後の状況によっては額に大きな傷跡が残ります。今すぐに取り除く、ということにはならないでしょう」と医者は告げる。母は泣いた。「ああ、どうして娘がこんな目に遭うのだろう」などと。


 私には、母の嘆きが理解出来なかった。母の口ぶりはまるで、このツノが良くないものであるかのようだった。私にとってはどうでもいいものが、母の目には不幸の結晶のように映っていたらしい。母はずっと気に病んでいたのだ。私がツノを生やして産まれてきたことに。ツノの生えた人間として、私を産んでしまったことに。その病院からの帰り道、手を引く母に「ごめんね、治してあげられなくて」と謝られた。


 私は、その言葉こそが辛かった。


 私が気にしていないことで、どうして母がそこまで苦しむのか。なぜ、そんな風にこのツノを忌むのか。このツノは私の一部だ。私の一部がこのツノなのだ。それをそんな風に言われては、私はどうすればいいか分からない。ただ、私はツノがあってもなくてもどっちでもよかったが、母はどうしても無い方が良かったらしい。だから、そんな言葉が出たのだろう。治して、とは要するに、悪いところだということだ。母はこのツノを、治療すべき対象として見ていたのだ。はじめから、あってはならない異物だと、そう思っていたのだ。そして、母は今でもそう思っている。私が社会人になった今でも。手術が出来る年齢になっても一向に手術を受けようとしない私に、ことあるごとに言ってくるのだ。「まだ治さないの?」「どうして手術を受けないの?」と。先日とうとう母から言われてしまったのが、「私が、貴女をそんな風に産んだから、当て付けのために治さないの?」だった。私は、そこまで言われてしまうとは思ってもみなかった。もちろん、そんなつもりはさらさらない。手術を受けないのは、単純に受ける必要がないからだ。このツノがあったところで何か不自由するというわけでもないというのに、どうしてわざわざ高いお金を払ってそれなりの時間を潰して、手術を受けなければならないのか。その理由が見出だせない以上、私はどうしても手術を受けるつもりになれない。手術を受ければ母が喜ぶ、というのはあるだろうが、それは母に対する利点であって私に対するものではないのだよ。


 確かに、西暦二〇三〇年現在での医療の発展は目覚ましいものがある。


 私が子どもだったころには実用化まで何十年もかかると言われていた理論や技術が、今ではもう当たり前に浸透してきている。iPS細胞や、それを用いての移植用内臓人工培養。義手義足には精密機械が組み込まれ、神経接続によって本物同様に動かせるという。医療、介護従事者のための身体補助用パワードスーツはいまや軍事目的生産を大きく上回っているし、遠隔治療用通信機器や撮影画像立体表示装置、リストバンド型のマーカーにより病院内患者のバイタルサインを逐次読み取り、記録・解析・反映する生体環境集中維持管理システムなどはどこの病院でも導入している。まことしやかに囁かれている話では、特定個人単位でのクローン体の作成、脳波信号のディジタルデータ化による記憶移送、遺伝子組み換えによる人類種そのものの強化計画、なんて眉唾物の話まである。こっちはどこまで本当か知らないが、案外数年後にはポロっと実用化しているのかもしれないな。今ですら、歯でも眼でも全身の皮膚でも、治せないところなどどこにもないし手術痕が残ることもあり得ないのだ。私が子どもの頃はあり得なかったのに。おかげで整形手術を受ける人間もここ十年程で大きく増加したらしい。コストの低下と安全性の確保。二つの要素の両立によって手術に対する敷居が大きく下がったからだ。


 だからこそ母も早くツノを取れと言っているのだろうが……、まあ、それはそれだ。私には何ら関係ないね。



「先輩ってー、変なトコ頑固ですよねー」


 昼休み、会社の食堂で向かいに座っていた後輩がそんな事を言ってきた。彼女は、昼食として注文した甘いパンケーキをようやく半分ほど食べ終えたところであり、とっくに日替わり定食を食べきって温かい麦茶を飲んでいた私は、唐突なその言葉に首を傾げた。いわゆるふわふわした女の子という言葉がピッタリ当て嵌まってしまうほど普段からふわふわした喋り方をする子で、緩くパーマのかかった腰まである茶髪とか、オフの時に着てくる私服なんかを見るにつけ、そのイメージが強化されていく。上司の一人が酒の席で「ふうちゃーん」などと呼んでいたが、本名に掠ってすらいないのにまるで違和感がなかったのには笑ってしまった。で、それはさておくとして返事だ。


「そうかな?」

「そーですよー」


 彼女に言わせればそうらしい。私も自覚がないわけではないのだが、こうして面と向かって言われると改めてそうなのかな、と思う。もっとも、こうして私に面と向かって何かを言ってくれる人間など、この会社には彼女くらいしか居ないのだが。他の連中とは、仕事で必要な事以外の話をしたりしないし、向こうから話し掛けてくることもほぼないし、目を合わせてくることすらない。入社して三年目になるがいまだに誰も、直属の上司ですらもそうである。別に、不愉快であるとかそういう感情はない。私は普通の人間であるからして、そうされる理屈はどこにもないと常々思っているのだが、向こうがそうしたいのであればそうすればいいとも思っている。その代わり、私は私で取りたい態度を取るしそれに文句を言われても、知らんよそんなもん、としか思えない。そもそも文句を言ってくる人間だっていないのだ。そりゃあ、入社したての頃は何度か上司先輩からご指摘を受けたりもしたし、こっぴどく叱られたりもした。ただ、そのたびに指摘事項の中で気になった事を確認の意味で問い返したり、感情的になって叱ってくる相手の言葉の矛盾を文章に纏めて提出してあげたり、日常の業務の中で気付いた業務内外での改善出来そうな点やもっと効率的に運用すべき点などを次から次へと意見具申したりしていたら、次第にそういう事をされなくなっていったのだ。別に私だって、指摘されたことが納得出来るものであれば素直に従うのだがな。そうでなければ私は、納得のいくまで説明をしてもらいたいのだ。


 ああ、そうか。おそらく彼女は、私のそうしたところを捉えて頑固だと言いたいのだろう。


「と、いうことかい?」

「それもあるんですけどー」


 彼女は、私の出した結論を聞くと困ったように笑う。その反応は、当たらずとも遠からずといったところなのだろうか。


「そのツノ、取る気はないんですよねー?」

「? これか? ないよ」


 彼女に言われて私は、自分のツノを撫でてみる。特段、普段と変わりない。成長期の終わりとともに伸びなくなったのだから当然だ。それと、このツノは頭蓋骨が変形したことによって出来ているものだから、ツノ自体には感覚なんてない。感覚があるのは表面を覆う皮膚のみで、その感度も他と変わりはしないのだ。


「なんでですかー?」

「何故と言われても、取る理由がないから、としか答えようがないな」

「そのツノでー、困った事とかなかったですかー?」


 困ったこと、か。そんなもの。


「困ったこと、たくさんあったよ。小中学生の頃はイジメられていたし、高校生の時には皆から孤立していた。当時は鬼娘なんて呼ばれていたな。迷子になっていた子どもを家まで送ってあげていたら誘拐犯に間違えられてね、それで人を拐う鬼だって。あと、大学にいた頃に一度、よく分からないバラエティ番組に出演して、いい見世物にさせられたりもしたな。日本中の面白い人間をスタジオに呼ぶ、みたいな企画だったようだが、あまり愉快なものではなかった。他にも――」


「……あのー、先輩」

「なんだ?」

「それってー、十分取る理由になるのではー?」


「ならないさ。取っても・ ・ ・ ・変わらない・ ・ ・ ・ ・んだから」


 そこまで言って私は、湯飲みの麦茶を飲み干した。食器の乗ったトレーを持って席を立つ。彼女はそれを見て諦めたのか、パンケーキを切る作業に戻った。どうでもいいが、早く食べないと昼休みが終わってしまうぞ、とは思う。彼女の食事のペースは老齢の亀を想像させる。目の前に置かれたエサにゆっくりと首を伸ばしていく亀だ。気の短い者が見たら苛々するやもしれない。


「しかし、彼女にまでツノのことを言われてしまうとは思わなかったな」


 私は自分のデスクに戻りながら彼女の言葉を思い出す。もちろん、困ったことはなかったのか、という言葉だ。彼女からは今までにも「先輩って目付きキリッとしててカッコいいー」とか「ちゃんと化粧したらもっと美人になるのにー」とか「さらさらの黒髪ストレートもいいなー」とか色々戯れ言を言われてきたが、それは今関係ない。困ったこと、と言われるとどこからどこまでがそうなのか判断しかねる部分があるので、彼女に対してはざっくりとしか説明しなかったが、実際のところ、困らなかった時の方が少ない。



 例えばまだ私が小学生だった頃の話だ。入学して早々私は隔離学級に入れられそうになっていた。隔離学級というのは、障害を持った子どもを別教室にして、その子に合った進度で独自に授業を進めていく、というやつだ。はっきり言わせてもらえば、非常に大きなお世話であった。私は生まれつきツノが生えていただけで別になにかしらの障害があったわけではないのだから、そんな余計な気を回して貰わなくてもいい。私がキッパリと、みんなといっしょがいいと告げ、母もそれを尊重してくれたので結局そうはならなかったが。母も、私がまるで障害を持っているかの如く扱われるのは嫌だったらしい。そして高学年になった頃に気付いたのだ。学校の先生たちが隔離学級に入れたがっていた訳を。五年生になった時に同じクラスになった乱暴者にイジメられたのである。理由は、よく分からない。体は大きく力も強かったソイツは、前々から私の事が気に食わなかっただの何だのと、何かと理由を付けては嫌がらせをしてきた。なにぶん昔の話でそのイジメの内容の詳細は覚えていないのだが、まあ、最後のやり取り位は愉快だったといえる。何の言い合いになったのかは忘れたが、その最中にソイツに胸ぐらを掴まれた私が、お返しのために頭突きをしてやったところ、たまたま私のツノがソイツの目に当たったのだ。たまたま、そう、たまたまだった。私にはそんな意図は一切なかったし、掴まれたままでは何をされるか分かったものではなかったから、苦肉の策としてそうしたに過ぎなかったのだが、果たして効果は抜群だった。痛みのあまりもんどりうってのたうち回るソイツ。それを見た私は、はっきりとチャンスだと思った。今なら勝てると。今ならやれると。私はおもむろに履いていた上履きを脱ぐと、それを手に持ち靴底でソイツの顔を思いっ切り引っ叩いた。何度も何度も。何度も何度も。最初は大声で喚いていたソイツが次第に大人しくなっていき、しまいには泣き出してしまっても、遠巻きに見ていた級友たちから悲鳴と泣き声が聞こえてきても、それでも私は叩くのを止めなかった。せっかくのチャンスを無駄にするつもりなどなかったし、当時の私はまだ子どもだったから、やられた分を全部やり返すつもりでとにかく叩き続けた。或いはこの一時を逃したら次はないと、心のどこかで理解していたのかもしれない。今ここでソイツを、完膚なきまでに叩き潰しておかなければならない、と。やがて騒ぎを聞きつけてやって来た先生が私を止めた。「どうしてこんなことをしたの!」と言われたが、私が一言「ソイツにイジメられてたから」とだけ返すと、先生が言葉に詰まったのを今でも覚えている。先生だって気付いていないはずはなかった。それだけソイツは堂々と私に対して嫌がらせをしてきていたのだから。そして先生が、ソイツに対して謝るように言ってきても私は謝らなかったし、ソイツを私に対して謝らせても、私はソイツを許したりしなかった。私は、無事な方のソイツの目を見て、言った。「私はお前を絶対に許さないから、またチャンスがあれば泣くまでお前を引っ叩く。それが嫌ならもう私に構うな」と。ソイツは泣きながら頷いて、それから病院に行った。幸か不幸かたいした怪我ではなかったらしく、一週間ほど眼帯を付けることになったようだったが、ソイツはもう、眼帯が取れても私に近寄らなくなった。それどころか、小学校を卒業して別の学校に行くことになるその日まで、ソイツは私に怯えていたようだった。それを見ていた私は、幼いながらも確信した。私はソイツに勝ったのだと。


 そして同時に、私はクラス中の人間からも怖がられるようになってしまっていた。



 次は中学二年の頃の話か。その時は、女三人組が私をターゲットにしてきた。いわゆる女子のグループというやつに入っていなかった私は、さぞ格好の標的だったことだろう。この時は、直接的な暴力を受けた記憶はない。代わりに、消しゴムのカスや丸めた紙が飛んできたり筆箱や靴を隠されたりノートや教科書に落書きをされたりお弁当を棄てられたりトイレに入っている時に水が降ってきたり制服を切り刻まれたり誹謗中傷を書いた紙が机に貼られていたり……、まあ、これ以上詳細に思い出すことに何の生産性も見出だせないのでここらで止めておくが、他にもあれやそれやと可愛らしい事をされたものだ。当時の私はそれなりに大人になっていたから、そうした同級生からのイジメを受けても怒ったりしなくなっていた。気に病むだけ損だと思ったのだ。だから私は、何をされても取り合わなかった。毎朝普通に学校に行って、勉強して、放課後には寄り道もせずに家に帰っていた。そうやって、私が気にした様子もなく毎日登校してくるのが気に食わなかったのか、ある日その三人組が私に面と向かって言ってきた。


「毎日毎日目障りなんだけど」

「なんでいつまでも学校に来るのよ」

「化け物さん、さっさと死んじゃえば?」


 他にも、思い出すことも憚られるような言葉で私を詰ってきていた。私は、その言葉に対して何かを言い返すつもりもなかったが、一つだけ、これだけは言っておかなくてはならないな、と思った事があったため、こう返した。


「私が化け物なら、お前たちは馬鹿者だな」


 と。……その一か月後に、三人の内の一人が転校していった。なんでも、父親が会社で左遷させられて引っ越さざるを得なくなったらしい。残った二人もほどなくして学校に来なくなってしまった。SNS系のサイトで大炎上してそれどころではなくなったのだとか。詳しくは分からないが、三人とも原因はおそらく私だろう。実は私は、毎日のように受けていたイジメに関してその内容と状況を丁寧にパソコンでまとめていて、それを印字した紙を三人の親宛と親の勤める会社宛と地元の新聞社宛に封筒で送っていたのだ。イジメを受けていた四か月間、毎日毎日淡々と。その中で私は、三人の実名を隠すことなく載せていたし、落書きされたノートなんかは紙面をコピーして一緒に送り付けたりしていた。どの言葉が誰の書いたものか分かるような注釈を添えたりして。もちろん郵便代なんかは馬鹿にならなかったが、趣味らしい趣味もなく小遣いやお年玉を貯め込んでいた私にとっては、それほど痛くもない額だった。で、先日の悪口雑言を録音したレコーダーを新聞社に送ったのがトドメになったのか、とうとう新聞社がそれを公表してしまったのだ。それほど大きい記事ではなかったが、私が送り続けたメモの内容やコピーしたノートの落書きがそのまま掲載されていて、それがどこの学校の何年生の生徒によるものである、みたいなところまで書かれていた。そこから私の知らないところでなんだかんだとあったのだろうが、それはまあいい。とにかく私は、それ以来他の誰かにイジメられたりはしなくなった。暴力を伴わない実に平和的な解決法だったと、当時の私は思ったものだ。


 そして、私に話し掛けてくる人間も、学校内には誰一人として居なくなった。



 高校生だった時は、ある意味気楽なものだったな。色々考えた結果隣町の高校に通うようにしたのだが、小中学校での出来事やそれに尾ひれのついた噂話なんかは隣町にも普通に流れてしまっていたみたいで、入学当初から私は誰にも声を掛けられなかった。無視されているというよりは、話し掛けたら何をされるか分からなくて怖いから関わりたくない、といった感じの対応だった。昼休みにお弁当を食べるにしても私がいると皆お通夜のように黙りこくってしまうので、さっさと食べたら図書室に行って本を読んで過ごしていた。あの高校は司書の先生がミーハーだったせいか、話題の新書とか人気シリーズとか、ジャンルを問わずたくさん置いてくれていたので読む本に困ることはなかったのだ。図書委員の子たちは私が毎日やって来ることに怯えていたようだったが、流石にそこまでは知らん。最初の頃に気にしないでくれと言ってあるのだから気にしなければいいのに、とは思っていたが。


 そんな風にして一年以上を過ごした私は、ある日ちょっとした事件に巻き込まれた。いや、事件というほど大袈裟なものではなかったのだが、それなりに大騒ぎになってしまった以上、やはり事件なのだろう。その日は、秋雨の合間を縫うようにして太陽が顔を覗かせた気持ちのいい晴天の日だった。放課後いつものように家に帰るべく駅に向かっていた私は、その途中で一人の少年に出会った。普段はあまり人が入らないような小さな公園のベンチに座って泣いているのを、私が偶然見つけたのだ。私は一瞬足を止めてどうしたものかと考えたが、少年の隣に置かれていた物を見て声を掛けることにした。白杖・ ・だった。声を掛けてみてはっきりしたことだが、やはり少年は目が見えていなかった。生まれつきの、全盲だという。そんな少年がどうしてこんなところに一人でいるのか。私は少年に問うたが、少年は頑なに答えなかった。代わりに私が家の住所は分かるかと聞くと、少年はつっかえつっかえしながらも番地を言ってくれた。検索してみると、その公園からバスで二十分ほどの距離にある住宅地だと分かったので、私は少年を送り届けてやることにした。置いていくという選択肢は、声を掛けると決めた時点で存在していなかったのだ。杖を持つのとは反対の手を握ってやり、少年の歩調に合わせてゆっくりと歩く。握った手は小さく、背も私より頭一つ分は低かった。運動もしたことがないだろう細い身体は少年を一際幼く見せたし、肌も驚くほど白かった。少年も、最初は緊張していたようで俯き黙ったまま私に付いてくるだけだったが、それでもしばらく手を引いていると、やがてポツポツと私に話し掛けてきた。自分の事を喋ろうとはせず私の事ばかり尋ねてきていたのは少しばかり不思議だったが、私は一つ一つの質問に丁寧に答えていたように思う。嘘を付く必要もなかったからな。それで、大通りまで出てバス停に着くと一緒にバスに乗って住宅地の近くまで行った。バスから降り、表札と番地表記を見て少年の家を探しながら住宅地内を歩いていると、一軒の家の前にパトカーが停まっていた。珍しいなと思いながら近寄ってみるとその家が少年の家だったため、私は少しだけ嫌な予感がしながらもインターホンを鳴らした。出てきたのは少年の母親らしき女性と、制服を着たお巡りさんだった。母親は少年を見るや涙を流して抱き付き、私は怖い顔をしたお巡りさんに有無も言わさずパトカーに乗せられた。その後、警察署に連れていかれた私は、事のあらましを聞いて愕然とした。


「誘拐犯って、なんでですか!?」


 少年は、少し前に母親から行方不明の届け出が出されていたのだ。どうやら私が見つけた公園の近くの病院で(おそらく目に関しての)診察を受けさせていてたらしいのだが、予定の時間になって母親が迎えに行っても姿が見えず、心配になった母親が警察に通報していたようだ。しかも間の悪いことに、私が少年の手を引いて歩いているところを見た近所の住人が、このように通報していたのだ。「頭にツノを付けた怪しい女が小さい子どもの手を引っ張ってどこかに連れていこうとしてたよ。誘拐してるんじゃないのかい」と。流石の私も絶句した。そんな事を言われるなどと、思ってもいなかった。怪しいだと? きちんとアイロンをあてた制服を着て、髪だって染めたこともない私のドコを見て、その住人は怪しいなどと言ったのだ。一日だって学校をサボらず、タバコもしなければ夜遊びだってしたことのない私の、一体ドコが! 後で、私は無意識の内に額のツノを掴んでいたと教えられたが、腹の中では謂われなき言葉への憤怒がドロドロと渦巻いていてよく覚えていない。ただ、警察官からの質問に淡々と答えながら私は思ったものだ。決して賞賛を求めていた訳ではないが、このように何もかもを踏み躙られたような思いをさせられることになろうとは、と。その後、三時間ほど話を聞かれた上で帰って構わないと言われたときは疲れすぎて何も言う気にならなかったし、一週間ほど経って警察から電話が架かってきたときも、私はほぼ無言のまま聞き流していた。謝られていたような気もしたが、それももうどうでもよかった。すでにその時には鬼娘というアダ名が、面白おかしく脚色された噂話とともに学校中に広まってしまっていたのだから。


 高校を卒業するまで私は、ずっとそう呼ばれ続けたのだから。



 それで、地元を出て大学生になった私は、大学生らしい事をほとんどせずに勉学に励んだ。サークルにも入らず、バイトも最低限学費の足しにする分だけ。合コンだの何だのにも誘われないのを良いことに、私はゼミに入り浸った。そういえば成人式も行ってない。同窓会の誘いもあったが断った。どうせ行っても皆に怖がられるだけだと思ったからだ。おかげで三年次には必要な単位をほとんど貰うことが出来ていた。勤勉な学生だったのだ、私は。ゆるりと卒論に取り掛かりながら平行して就活する。同学年の他の生徒たちが次第に慌てふためき色めき立っていく中で、私はわりと暢気なものだった。最終的に今の会社に就職できたし、まあ大学生活は概ね悪くなかったといえるかな。


 で、だ。そんな私が大学生活の中で唯一悔いていることがある。三年の春先の事だ。私は何かの間違いでテレビ番組に出演したのだ。どこかの民放のバラエティ番組だったと思うのだが、日本全国の珍しい・ ・ ・人間をスタジオに呼ぼうなどという少々企画者の良識を疑うような企画であった。私は、この話を持ち掛けられた当初から出演を断っていた。どう考えても、嫌な目に遭う予感しかしなかったのだ。それでも私が最終的に出演することにしたのは、一つ、試したい事が出来たからだ。果たして人は、私の姿を見て私の言葉を聞いて、何を思うのかと。今にして思えば、やはり止めておけば良かったと思う。今更言っても後の祭りだが。収録日、私はテレビ局に入り控え室で待機し、スタジオに呼ばれてテレビカメラの前に出た。スタジオに入った途端、観覧者やゲストの芸能人なんかから驚きとも悲鳴ともつかないような声が漏れた。皆の視線が私のツノに注がれているのが分かった。ほとんどは好奇の視線で、中には明らかに侮蔑に近いものもあったと思うが、私は気にしないことにした。指定されていたとおりスタジオの中央に歩み寄る。司会役の芸人さんが、笑顔で私に話し掛けてきた。私は、機械的に形式的になるように心掛けながら返事をしていく。そしてとうとう芸人さんは、こんな事を聞いてきた。「今までに、そのツノを取ろうと思った事は?」と。私は、その時ばかりは感情を込め、はっきりと答えてやった。


「いいえ、一度もありません」


 芸人さんは一瞬驚いた顔をしたが、流石にプロだ。すぐに笑顔に戻って重ねて問うてくる。


「本当に? でも、そのツノのせいで辛いこともたくさんあったんじゃないの?」


 と。私は――。


「辛いことは、たくさんありました」

「じゃあ、」



「でもそれは、このツノのせい・ ・ ・ ・ ・なんかでは・ ・ ・ ・ ・ありません・ ・ ・ ・ ・でした」



「……えっ?」


 司会者も、会場も、スタッフも、皆が呆けたようになったのを、私は今でも覚えている。


「私が辛い目に遭ってきたことは、決してこのツノのせいなんかではありません」


 これは、今でも私は、本心からそう思っている。


「私は幼い頃からよくイジメを受けてきました。それは間違いありません。しかしそれが、このツノのせいだとは思いません。思いたくありません。ツノが有ろうが無かろうが、私はきっとイジメられていたでしょう。ツノが有ろうが無かろうが、私は何かに困っていたでしょう。ツノが有るから困るのではないのです。困った事が起きたときに、その原因を・ ・ ・ ・ ・このツノに・ ・ ・ ・ ・求めて・ ・ ・ ・しまいたく・ ・ ・ ・ ・なって・ ・ ・いるだけ・ ・ ・ ・なのです。自分の弱さを。自分の不甲斐なさを。このツノに押し付けたくなっているだけなのです……!」


「私は、至って普通の人間です。ツノが生えているというのは、単に背が高いとか手先が器用であるとか歌が上手いとか、そういったものと変わりません。それがあるからといって何も変わらないのです。ただの一人の人間です。だから、失敗もするだろうし嫌な目にも遭うでしょう。それにツノが、背の低さや不器用さや音痴さが原因の一端を担っている事もあるでしょう。ですが、一事が万事そうではありません。ほとんどはその他の様々な要因が絡み合った結果、何かが起こるのです。その責任を全て何か一つの物事に押し付けるのはフェアではありません」


「……それは、誰に対して?」


 絞り出すような司会者の言葉が聞こえた。私は感情のままに吼えた。そこから後は、タガが外れたようになってしまった。


「私に対して、……だ! 私は私の失敗を、不幸を、痛みを、何かのせいにしたりしない! このツノは私の一部だが、同時に周囲からは異物のように見られている! 私がどう思おうとも、世間ではそうなのだ! その異物に不幸の咎を押し付ければ、なるほど私はもう少し楽に生きられたかも知れない。だが、それだけだ。私は決して先へは進めない。自分の身に起きた何かを、自分ではない何かのせいにして安堵しているようでは、私は私に顔向け出来ないのだ!」


「例えば先程貴方が言ったように、このツノを手術なりなんなりして取り除いたとしよう。少なくともその時はこう思うはずだ。これでもう嫌なことは起きないだろう、と。だが、現実がそんなに甘いわけないのだ! 不幸は必ずやってくる! 必ずだ! ツノを取ったくらいで、ずっと幸せになれるはずがないんだよ! そして不幸が起きたときに必ず思うはずだ。どうしてツノを取ったのに、私はまた不幸になったのか、と。その時にはもう、不幸を押し付けられるものなどどこにもない。そうなれば、やがてそれは外へ向く。私が不幸なのは社会が悪い、時代が悪い、隣人が悪い、私以外の何かが悪いのだと。そんな、ゴミクズみたいな事を宣う人間に私はなりたくないのだよ! 私は、私の思うとおりに真っ直ぐ生きる! そのためには、私はこのツノを捨てるわけにはいかないんだ!」


 スタッフたちがバタバタと慌ただしそうにしていた。構うものか、と私は思った。


「私のツノを見て、笑いたいなら笑えばいい! そんなお前たちを私は笑ってやろう! 私のツノを見下すお前たちは、必ず自分の不幸を何かのせいにする! そんな人間が! まともな人生を! 歩めるなどとは思えないなぁ!! お前らは、ずっとそうやって醜く生きていろ! 私は一人の人間として、私の生きたいように生きる! 自分の責任は自分で取る! 自分の事は自分で決める! もう一度言うぞ。私はこのツノが生えていて、不幸だと思った事は一度もない。一度もだ! それを、よってたかってさぞ不幸だったろうなどと! お前らは、一体何様だ! 人の事を可哀想だと蔑む・ ・暇があるのか! お前らはそんな高尚な人間なのか! 私は――」


 そこまでだった。私は女性スタッフに背後から羽交い締めにされた。それ以上は言わせないと、そういうことらしかった。私はそのままスタジオから退場させられて、控え室で封筒を押し付けられるとテレビ局を追い出された。後日、放送内容を確認してみたが、案の定というべきか、私の言葉は八割方カットされていた。最初の、機械的に受け答えした部分しか使われていなかったのだ。私は大いに落胆し、それから、そんなものかと納得した。


 結局私がこのテレビ出演で得たものは、出演料の二万三千円と、放送後テレビ局から送られてきた一通の手紙だけだ。手紙の内容に関しては、とある団体から貴女宛に何通もメールが来ているというもので、なんでもカイなんとかという人物の立ち上げた角っ娘信仰振興会という訳の分からない集団がネット上に存在するらしく、そこから私に会わせてほしいという連絡がひっきりなしに来るので困っている、ということらしい。で、締め括りには「鬱陶しいのでそちらに対応してもらえないだろうか」みたいな事を書いてあったが、私の心境としては「知らんよ、そんなもん」であったので、便箋二十枚ほどにみっちりと、お断りする旨と私の個人情報を漏らしたら許さない旨と次に手紙を送ってきたらこの倍の量にして返信する旨を書き殴って送り付けてやったら、それ以後パッタリと連絡は来なくなった。


 あの後その話がどうなったか、私は一切関知していない。



「おや?」


 ……なんてことを思い出しながら仕事をしていたら、一日が終わっていた。早いな。

 荷物をまとめて帰路に就く。時刻は午後六時半。そろそろ日も沈もうかという時間帯だ。夏が終わり、にわかに涼しい風が吹き始める季節。予報では数日後から雨が続くという。私は帰り道にある自販機で缶コーヒーを買うと、近くの公園のベンチに腰を下ろした。そこそこ広くて、よく犬の散歩をしている人たちが朝夕に通る。今は、中学生か高校生かの学生服姿の男の子たちが敷地内でサッカーボールを蹴っていた。私はコーヒーを一口飲むと、今日考えていた事をまとめてみる。昔から習慣なのだ。その日あった出来事を頭の中でまとめてから、家に帰って日記を付けるのは。


 しかし、昔の事を思い出すのも随分久し振りだった。改めて考えてみても、私は人様に比べて稀有な経験をしているのではなかろうか。そっとツノを撫でてみる。およそ四半世紀、ずっと付き合ってきたものだ。どうでもいいものとはいえ、それなりに愛着はある。先日の母の言葉を思い出す。当て付けのつもりで手術を受けないのか、と。そういうつもりじゃあないんだよな。例えば、人間の足の小指の骨は普通二本しかなくて、三本ある人間はもはや希少になってしまっているが、三本も要らないからといって取ってしまったりするだろうか。或いは、今でこそそうでもなくなっているが、昔は盲腸という臓器は残していても益はなくそれどころか細菌の温床になって炎症を起こしたりする恐れがあるからと、他の手術のついでに切除したりされていたらしい。でも、そんな盲腸だって、何の異常も発していない内からわざわざ腹を切って取り出したりまではしなかっただろう。私のツノは変な言い方をすればそれらと同じだ。そりゃあ有っても無くても同じなら、無くても良いんじゃないかと思うかも知れないが、だからといって簡単に取ってしまったりしていいものでもない。もっと極端な事を言えば、目なんて二つも要らないから片方は刳り抜いてしまおうとか、指は五本も要らないから一本二本切り落とそうとか、私はそれくらいおかしな事だと思うんだ、ツノを取ろうというのは。


 それに昔、テレビ局で叫んだことがあるが、私がツノを取ったところで何も変わらない。何も。本当に何もだ。ツノが有っても無くても、私は私だ。私にとってツノは、本当にどうでもいいものなんだ。これの有る無しで何かが変わるような、そんな大層なものでは決してない。これを取ったくらいで変われるなどと、私は私を見くびったりしない。



 もし、私が私でなくなる時があるとすれば、それは決してツノを取った時なんかではなく。



 このツノを取ってしまいたいと、そう思って・ ・ ・ ・ ・しまった時・ ・ ・ ・ ・



 その時、まさにその時こそが、私が私でなくなる時なのだ、と私は考えている。



 なんでもないはずのものに理由を求め、縋り付いて乞い願い、私に起こる苦難を押し付け、自分ではない、何か別のもののように扱う。私がこのツノに対してそういう思いを抱いてしまった時、私は私でなくなるだろう。それは、嫌なのだ。少なくとも、そんな方向には変わってしまいたくない。私は、ただツノが生えただけの普通の人間だ。このツノは、私にとって特別なものでもなんでもない。私の一部がこのツノなのであり、このツノは紛うことなく私の一部だ。母が、世間が、私以外の全ての人間が、誰が何と言おうが関係ない。このツノを悪し様に言うことも、このツノで私を憐れむことも。例えそれが悪意なんかではない善意や正義感、良識、誰かの為を想う清い心、純粋な優しさや広く深い慈愛の心などから出てきたものだとしても、だ。私はそれを受け取らない。私はそんなもの望んでいない。


 私はただ、普通に接してほしいのだ。世間一般の大多数の人間たちがお互いをそう扱うように。たかだかツノ一本生えてるぐらいでオロオロしてないで、気にせず普通に接してくれれば。そりゃあ、他人と比べて変わっているという世間の評価も理解できるが、そんなもの、大なり小なり皆同じだろう。人は、お互いそれぞれ違うではないか。世間様の普通とやらは、まるで属する全ての人間が均一であるかのような幻想を抱いてるように見えるが、そんな事はない、そんなハズがないのだ。自分は自分しかいないのだから、その他の人間はどうやったって違ってくるのだ。そこに程度の差は有ろうが、違うというのは当たり前の事であって、おかしな事でも何でもない。



 違うことを恐れるな。いいからもっと胸を張れ。



 私は常にそう考えて生きてきた。生まれつきツノが生えていたからとかそんな下らない理由ではなく、私という人間が、ただそうありたいと願うから。そうでなければならないだろうと、私の心が望むから。私はそうやって生きていたいのだ。他でもない私のために、私は私の生きたいように生きるのだ。このツノがどうこうとは全く関係なく、一人の人間として胸を張って、違うことを恐れず真っ直ぐに生きたいのだ。


「……ふむ」


 なんだかんだと考えていたら結局いつもの結論に辿り着いてしまった。コーヒーもなくなってしまったし、そろそろ家に帰るとするか。そういえば近所のスーパー、今日はレタスが安いんだったな。三玉ぐらい買って帰ろう。ついでに牛乳とハムと、あと何か足りないものはあったかな……。そんなことを考えながら、空き缶を捨てるべく公園内に設置されたダストボックスに近付いていると――。


「ん?」


 足元に、ボールが転がってきた。サッカーボールだ。どこから転がってきたのだろうと思いつつ拾い上げる。あまりスポーツには詳しくないのでよく分からないが、多分真新しいだけで何の変哲もないものだ。ボールの印字を読んでみて、おそらく今年のワールドカップで使われていたモデルなのだろうということだけ分かった。開催地はどこだったかな。覚えていない。ボールから視線を上げてみる。一人の学生服を着た少年がこちらに駆け寄ってきていた。ああ、なるほど。そういえば向こうの方でボールを蹴っている子たちがいたな。そこからここまで飛んできてしまって、彼が回収に来たのだろう。確認するべくボールを持ち上げてみる。少年が笑顔で頷いたのを見て、足元に向けて放ってやった。


「ありがとっ!!」


 元気の良い礼の言葉とともに、少年はそれを器用に足で受け止めると、振り向きざま、遠くにいる仲間たちのところに向けて力強く蹴り飛ばす。蹴った瞬間、ドンッと心地好い音がした。蹴られたボールは真っ赤な空に吸い込まれるようにして美しい放物線を描いて飛んでいく。おお、凄いな。一蹴りであんなに飛ぶのか。私は思わず口笛を吹いていた。それに気付いた少年が、はにかんだように振り向いた。


「おっと済まない。あまりに気持ちの良い音がしたから、つい、な。気に障ったのなら謝ろう」

「あ、いえ、そんな全然気にしてなんか――」

「……?」


 ――そこで生じた少年の変化を、なんと例えればよいだろうか。


「――…………」


 適切な表現が見付からないほど唐突に、少年は全身の動きを止めてしまった。心臓ごと止まってしまったのではないか、と思えるほどに。言葉を紡ぎながら浮かべていた笑顔は凍り付いたように固まり、言葉の続きは一向に出てこない。私は突然の事に少々訝しんだが、いつまで経っても少年は電池の切れたオモチャのように動かなかった。やがて徐々に別の感情が膨らんできたのか少年の目が大きく見開かれていき、遠慮のない視線が私に注がれる。なんだ、どうしたというのだ。……ひょっとしてこれか? 私はそっと額に手を持っていく。


「このツノが、そんなに珍しいかい?」

「――――!!」


 途端に少年は、大慌てで首を振った。ぶんぶんぶんぶんとひたすら横に。とんでもない、といわんばかりだ。そんなに振ったら首が取れてしまうぞ、と思わなくもなかったが、それを口にして茶化すのも無粋だろう。


「それなら、一体どうしたというのだ?」

「あの、えっと、そのぉ……」

「?」


 なんだ、さっきまで元気よくハキハキ喋っていたではないか。急にもじもじするんじゃない。


「少年よ、言いたいことがあるならハッキリ言ってくれ」

「……」

「ないなら、……これで失礼するよ。君のお友達だって君を呼んでいるようだからな」


 ボールを受け取った子たちが、こちらに向けて手を振っているのが見える。この少年がなかなか帰ってこないからだろう。これ以上引き留めてしまっても悪いし、私も空き缶を捨てて帰ることにしよう。


「それじゃあな、少年」

「あ、……あの!」

「なんだい?」


 手をひらひら振って立ち去ろうとする私の背中に、慌てたような少年の声が届く。首だけでチラリと振り返ってみれば、少年が意を決したような表情で立っていた。


「また明日、この公園に来てくれませんか!?」

「……」


 そして必死な声で、そんな事を言うのだ。


「お、お話したい事が、あって、あの……、お願いします!!」

「……」


 腰から真っ二つに折れて、頭を下げる少年。私は、勢いに押されたのか、咄嗟に明日の予定を勘案した上で。


「……仕事が長引いて遅くなるかも知れないが、それでも構わないなら」


 と、答えていた。




Δ ツノとは、何だ?


 もし私にツノが生えていなかったとしたら?

 いくら私でも、そんな想像をしたことがないといえば嘘になる。

 そして想像するたびに思うのだ。やっぱり何も変わらないだろうな、と。


 私が、このツノによって理解したこと。


 それは、ほとんどの人間は私と同じようにツノを・ ・ ・生やして・ ・ ・ ・いるということだ。


 ここでいうツノとは、あくまでも比喩だ。はっきりと目に見えるものではないかもしれないし、そもそも本人が自覚していないものかもしれない。


 そのツノの名前は、劣等感。或いは焦燥、不信、嫉妬や傲慢、並び立てればキリのない様々な感情たち。嫌いな相手のイヤなところ、自分自身の好きになれないところ、閉塞的な環境、社会や世間への不満、才能の有無、障害の有無、身長の高低や美醜や体質、人種や文化や性別の壁、生まれた時代、場所、家族。貧富の差や境遇の違い、こうありたいと思いながらもそうあれない事へのままならなさ。


 それら諸々をひっくるめて。


 自分から何かを押し付け切り捨てられる全てのものが、その人にとってのツノなんだ。


 私のツノは、たまたま目に見える形になっているだけだ。さも、切り落とせば何かが変わるような形となって。


 無駄だ。


 切り落とせば次の何かを、次のツノを探してしまう。次のツノを見つけてしまう。次のツノに押し付けてしまう。


 そうやって切り落としていって、最後には何が残るのだ?


 最後まで切り落としていって残ったものが、果たして自分といえるのか?


 それは、自分の形をしているのか?


 それでも自分であると、胸を張って言えるのか?


 私は、……きっと自分ではなくなる。なくなってしまう。そんな確信が、私にはある。


 私は私だ。切り落としてしまって、切り捨ててしまって、……そうして構わないところなんて、一つもない。


 だから私は、ツノを取らない。

 私は、このまま生きていく。


 このまま――。



「…………む、もう八時か」


 ふと外を見れば、完全に真っ暗になっていた。今度の会議に使う資料、やっぱりこんな時間まで掛かってしまったか。それでもどうにか完成の目処は立ったから、残りは明日にしよう。デスク回りを片付けて、窓の施錠を確認してから明かりをを消す。もう他の連中は全員帰っているのだ。部屋の出入口を施錠し、建物を出る際に警備員さんに鍵を渡す。


 夜に染まった町の中を歩きながら、私は昨日のやり取りを思い出す。遅くなっても構わないならと告げた瞬間、少年はバッと頭を上げて嬉しそうな顔を見せた。「大丈夫です! ずっと待ってます!!」などと言っていたが、本当に、まだ待っているのだろうか。正直、話したい事と言われても私には何の事かさっぱり分からないので、若干遠慮したい気持ちもあるのだが……。


「本当に、待ってるな……」


 公園の入口から覗いてみると、昨日私が座っていたベンチに、学生服の少年が座っていた。いつから待っていたのやら。仕方ない。約束した以上話くらいは聞かねばなるまい。人気のなくなった公園というシチュエーションは少々危ないかもしれないが、まさかいきなり襲われるということもないだろう。


 公園に入りベンチに向かう。途中で私に気付いたようで、少年は立ち上がり、こちらに向けて大きく手を振ってきた。私は苦笑しながら手を振り返す。それを見てか、少年が輝かんばかりの笑顔を浮かべた。


「お疲れ様です!!」

「お疲れ。待たせて済まないな」

「いえ、僕は全然待ってません!」


 ふむ。まあ、そういうことにしておこうか。


「そうかい。それなら、時間を掛けるのも馬鹿らしいし単刀直入に聞こう。私に話とは、何だ?」

「はい。……実はですね」


 少年は、自らを鼓舞するかのように一つ深呼吸すると。


「貴女に、お礼が言いたかったんです」


 真剣な表情で、私の目を見つめ。


「お礼? 私に?」

「貴女にです。僕は、ずっと前から貴女にお礼が言いたかった。

 ――本当に、ありがとうございました。貴女のおかげで僕は、変わることが出来ました」


 そして深々と、頭を下げた。誠心誠意、感謝の気持ちを伝えようとしてくれているようだ。


「……」


 だが、私にしてみれば、やはり意味が分からない。この少年は一体何の話をしているのだ。そんな風に感謝されるようなことを、私はした覚えがないぞ。

 仕方ない。失礼だとは思うが本人に聞いてみるしかない。


「なあ、少年よ」

「はい! あ、僕の名前は津野原つのはら健太郎けんたろうといいます!」


 少年はバッと頭を上げて名乗ってきた。いや、名前を聞きたかった訳ではないのだが……。


「……そうかい。私は鬼怒笠きぬがさ桃子ももこだよ」

「桃子さんですね! 可愛らしい名前だと思います!」

「やめてくれ」


 恥ずかしいから。

 そんなキラキラした笑顔で可愛らしい名前だとか言わないでくれ。

 ええい、調子が狂う。


「そうではなくて、だな。その、済まないが、私は君の言うことに心当たりがない。私のおかげというのは、一体何の話なんだ?」


 そもそも、昨日が初対面のはずだろうに。


「あ、やっぱりそうですよね。覚えてないだろうなとは思ってました」


 だが少年は、気落ちした様子もなくそう言うと、ベンチの横に置かれていた棒のようなものを手に取り、私の前に差し出した。これは、何だ? 白い・ ・――。


「……ん?」


 …………、か? 少々短いが、おそらくこれは杖だ。

 ――いやまて、これは……!


「……まさか、君は」

「はい」

「あの時の、少年なのか?」

「――はい」


 静かに微笑む少年の顔を見て、私は言葉を失った。それほどまでに衝撃的だったのだ。目も口も、さぞや間抜けに開いてしまっていることだろう。待ってくれ、そんな馬鹿な――。


「君は、目が・ ・見えない・ ・ ・ ・のではなかったのか!?」


 夜の公園に、私の声が響く。そうだ、あの時の少年は間違いなく目が見えていなかった。なんせあの時、私は私の事について少年からたくさん質問を受けたが、少年はこのツノに・ ・ ・ ・ ・関しては・ ・ ・ ・一度も・ ・ ・質問して・ ・ ・ ・こなかった・ ・ ・ ・ ・のだから。


 そして今、目の前の少年は間違いなく目が見えている。それだけじゃない。身長は私より頭一つ分は高いし、細身ながらも立派な体格をしている。肌は健康的に焼けていて、昨日の様子を見る限り運動も得意そうだった。


 八年前のあの時の少年とは、なにもかも違いすぎるぞ!?


「手術をしたんです」

「!!」

「貴女に助けてもらった後に、眼球の・ ・ ・移植手術・ ・ ・ ・を」


 少年は、はにかんだように笑ってみせる。

 照れ臭そうな、それでいて嬉しそうな笑みだ。


「あの日僕は、――病院で診察を受けた後、迎えに来た母親と一緒に手術についての話をするはずだったんです。手術の予定日まで、一か月ほどしかありませんでしたから」

「……」

「でも、病院のロビーで母を待っていたら、なんだか手術を受けるのが不安になってきて。それで思わず、先生や看護師さんに何も言わず病院を抜け出してしまいました。駆り立てられるように、知らない道をひたすら歩いてたらあの公園に辿り着いて。……ベンチに座ってから気付きました。ひょっとして僕は今、とんでもないことをしているんじゃないかと。ただでさえ母は、目の見えない僕を一人で病院に残しておくのは不安だと言っていましたから、勝手にいなくなったら、大騒ぎになってるんじゃないかって」


 それは、そうだろう。私でも冷静でいられなくなりそうだぞ。


「慌てて病院に戻ろうにも、僕はどんな道を通って公園に辿り着いたのか分からなくなってたし、それどころか、僕がここにいることを知っている人もいない、迎えに来てもらうことも出来ないと気付くと、一気に恐ろしくなりました。いつも隣で手を引いてくれていた母がここにはいないんだと、今は自分一人になってしまっているのだと、そう思うと涙が止まらなくなりました」

「……それで」


 あんなところで、一人で泣いていたのか。


「……あの時の僕は、色んな不安がごちゃ混ぜになって、どうしようもなくなっていました。その場から動くこともできず、どこへ進むこともできない袋小路に入ってしまっていました。このまま僕はどうなってしまうんだろうと、本気でそう思ってしまっていました。……そんな時、」


 少年は、笑う。


「貴女が来てくれました」


 心底喜ばしそうに。

 眩しさに目を細めるようにして。


「貴女は、泣いてうずくまる僕を立ち上がらせてくれました。僕が転んでしまわないように、ずっと手を引いてくれました。僕の少し前を、僕に合わせてゆっくりと、一緒に歩いてくれました。貴女の手は暖かかった。貴女の言葉も暖かかった。貴女の優しい心が、本当に本当に暖かかった」

「……」

「僕が自分の事を話さなくても、貴女は僕を助けてくれた。僕が貴女に何を聞いても、貴女はきちんと答えてくれた。僕はそれが、嬉しくてたまらなかった」

「……たまたま目についたから助けただけで、嘘を吐く必要がなかったから正直に答えただけさ。そんな、大層な事をしたわけではない」

「それでも、ですよ。僕は感謝してもしきれないほどの恩を、貴女に感じています」


 そんなに真っ直ぐな瞳で見つめられると、なんとも面映ゆい。思わず目を逸らしてしまいそうになる。たまらず私は、話を切り替えることにした。


「そうか、まあ、それならそういうことでいいよ。君が元気そうで何よりだし、目も見えるようになったのなら言うことなしだ」

「はい、貴女のおかげです」

「……。あー、ところで、よく昨日は私だと分かったな。君は私の顔を知らなかったと思うが?」

「ああ、それはですね、何年か前に母から教えてもらいまして。――貴女がテレビに出ていたと」


 ……アレか。アレを見たわけか。


「母曰く、貴女だとすぐに分かったそうです。当時の面影が残っていたみたいですし、なにより、その……」

「……ツノが生えているものな」


 言いにくそうにしたので、代わりに言ってやる。

 少年はホッと息を吐いた。


「そのとおりです。で、たまたま学校の友人が番組を録画してくれてまして、そいつに見せてもらってました。だから、一目見て貴女だと分かりました」

「……そうか」

「はい。――それに、見終わった後でコピーしたのを譲ってもらって、毎日繰り返し見てましたし」

「うん?」

「あ、いえ、なんでもないです」


 困ったように少年は笑う。


 ……誤魔化せたつもりか、それで。

 しっかり聞こえてたからな。追及はせんが。


「コホン。とにかく、だ。事情は分かったよ。君の話したい事というのも。君が感謝したいというなら好きにすればいいし、私もまあ、君の感謝を受け取ろう」

「はい! ありがとうございます!」

「……ありがとうついでに聞いておくが、少年は」

「あ、僕の事は健太郎って呼んでくださいよ、桃子さん」

「……オホン! 健太郎は、今何歳だ?」

「十八ですよ。高三です」


 ……七つも下か。分かっていたことだが、若いな。


「そうか」

「はい。それと僕からもお願いがあるんですけど」

「なんだ?」

「桃子さんの連絡先を教えてほしいです。せっかくこうしてお会い出来ましたので」

「ああ、それは構わないよ」

「やった! あとこれは、怒らないでほしいんですけど、そのツノ、」

「これがどうした?」

「今度、触らせてもらえませんか?」

「ツノを?」

「はい。駄目ですか?」


 駄目、とは言わないが……。


「そんなことを言われたのは小さい頃以来だよ。なんせ私は嫌われ者だったからね」

「む……」

「事実さ。……ちなみに君は、このツノを見てどう思う」


 健太郎は、キョトンとした表情を浮かべた。


「どう、ですか?」

「ああ、正直に言ってほしい。――君にとって、このツノはなんだ?」


 私の質問。多分、意味がよく分からないはずだが、それでも健太郎は考える。それから。


「よく分かんないです。珍しいんだろうなとは思いますし一回触ってみたいなとは思いますが、なんだ、と聞かれても……」

「まあ、そうだろうな」

「はい。あ、でも」

「ん?」

「それが敬愛する桃子さんの一部だと考えたら、カッコ良いって思えてきました。うん、カッコ良いですよ、それ」

「……そうか」

「はい!」


 ニッコリ笑う健太郎に、私も緩く微笑み返して。

 その日はそこでお開きになった。




 で、だ。これは余談なんだが。

 その数日後のことだ。

 会社の終業後に、私はふうちゃんを自宅に招いた。


「先輩ー、お話ってなんですかー?」

「ああ、実は重大なお願いがある」

「……?」

「――化粧の仕方を、教えてほしい」


 健太郎から、「今度の休みにどっか遊びに行きましょう!」と言われたのだ。……まあ、その、なんだ。もちろん他意はないと思うが、念のため、な?


「……先輩ー?」

「な、なんだ……?」

「詳しい話はー、今度聞きますねー?」

「う、うん」


 私を見つめるふうちゃんの笑顔。

 普段のふわふわした雰囲気が嘘のようだ。これは、獲物を狙うハンターの目だ。


「ふふふー、楽しみにしてまーす」

「…………」


 ふうちゃんよ。――大獅子おおじし華音かのん二十歳よ。


 ……君は、そんな笑顔も出来たんだな。




Δ 私にとって、このツノは。


 どうでもいいものだよ。いや、本当に。

 有っても無くても、どっちでもいい。

 どっちでもいいが……、まあ、そうだな。


 こんなものでも、カッコ良いと言ってくれる人がいるみたいだから。



 やっぱり切り取らなくて良かったな、とは、思うかな。

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私にとって、このツノは。 龍々山ロボとみ @Robo_dirays

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