傘が降る

 梅雨の終わりに降る短い雨の理由を知る二人を近付けるビニール傘が、ゆっくりとコンクリートの上を泳ぐ様に進んでいく。


「もうすぐ期末テストか、おれは赤点なんか怖くねぇけどな」


「だめだよ……ちゃんと勉強しなきゃ……」


 傘を支えるのは、身長が高い勇遂だ。そこに遠慮しながら距離を詰める澪。そんな男女が透明な世界の中に収まっている。


「勉強出来なくたって死にゃーしねぇよ」


「……勇くんは、進路とか、就職とか……将来の事……考えてないの?」


「おれはなーんも才能ねぇからな。安西家は資産だけはあるし、ニートでいいんじゃね」


 相合傘が恥ずかしくてたまらない澪でも、流石にニート発言は聞き捨てならず、俯かせた顔を上げて、勇遂の腰辺りのシャツをクイクイつまんだ。


「そんな……勇くん力持ちだし、運動神経いいし……色々出来るよ……」


「百姓家系の血筋だから、身体の作りだけは一丁前なんだよ。そういう澪だって将来どうすんだ」


「私……ッ⁉︎ 私は——無難に進学して——無難な仕事出来れば……いいかな」


 無難な将来設計を指折りしながら語る澪を、勇遂は横目で見る。ドリーム感は一切ないが、落ち着いた毎日は誰もが望みたい幸福だろう。


 勇遂は神事の中で、全身全霊で澪を支えると決意した。母、水絵と同じ道を辿らせない思いは過去に置いて、今はただ——高城澪の幸せを願っている。


「澪は、絶対おれよりも幸せになれよ」


「えっ……やだ」


「はぁ⁉︎」


 即刻否定され、勇遂の持っている傘がブレる。その発言は内気な澪を積極的にした。


「やだ……絶対にやだ」


「ガキみてぇにやだやだ言うんじゃねえよ、おれはな——」


「やだぁッ!」


 勇遂からバッとビニール傘を奪い取り、澪は全身で否定した。今までにない彼女の反論に、思わず勇遂は固まる。



「澪……お前……」


「幸せになるなら、勇くんと同じがいい……」



 澪は必死にそう主張した。今の言葉には、様々な解釈が出来る複雑さがある。真意が見え隠れして、勇遂は思考が停止する。


「……」

「……」


 立ち止まった二人は、静かにお互いを見る。その言葉の真の意味をお互いに掴めていない。考えを阻害するのは、パラパラとビニール傘に打ち付ける雨。


「……なんだよそれ」


「……私も、わかんない……」


 澪は自分で言った言葉の意味が分からないまま、勇遂が濡れない様につま先立ちで必死に傘をさす。二人の足が動かない、迷子になっている。


 そこにザバァンッと近付いた車が道路の水溜りを跳ねた。世界に取り残されていた二人はそれに気付かず、避ける事も出来ず、同じくらい雨水をかぶる。それでようやく思考が動き出す。


「どぅあああ⁉︎ あの車……ッこの野郎!」

「……ひゃあぁあ⁉︎ 制服がぁ……!」


 傘をさしているというのに、勇遂と澪はずぶ濡れになってしまった。湿った不快感が思考を支配する。


「ぶっ殺す今の車ぁ! まてやああああッ」


「まって勇くん、怒っても仕方ないよぉ」


「ああ⁉︎ やられたらやり返……ッ」


 怒りに身を任せていた勇遂の頭を冷やすのは、澪の真っ白なスクールワイシャツに浮き出た別の色。濡れた事により、くっきりと水色が見える。形もバッチリと。


「透けてる……」


「……ッ…⁉︎ みないでよぉ!」


 澪は腕で胸元を隠して逃げ出そうとするが、現在進行で雨は降り注いでいるので、勇遂は追いかけながら腕を伸ばし、傘に入れようとする。


「バッ…濡れるだろうが!」

「今更一緒だよぉ! こっち来ないでッ」


 バシャバシャと濡れたコンクリートを蹴りながら、澪と勇遂は雨の中を駆けていくが、バサァン…ッと傘が逆さに落下した音が追加された。遠くへ離れていく二人を立ち尽くして見送る人影が後ろにあった。



「高城……さん……?」



 それは竹中耕太であった。傘を失った竹中は打ちつける雨でどんどん制服が濡れていき、相合傘の外の世界にいた人間の存在感を強めていく。


 目を閉じたくなる程に髪から水が滴るのに、竹中は瞬きせずに、勇遂と澪の小さくなっていく背中から目を離さなかった。

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