御神体の井戸

 優しい雨が降り注ぐ中、神事を終えて集まった人々は次々に帰っていく。今年もこうして梅雨は終わりを告げ、豊穣の季節を迎える。


 そんな中、勇遂はビニール傘を肩に泣沢女神ナキサワメの御神体となっている井戸を見つめていた。全ての始まりの巫女——初代の泣女。


「ナキサワメも、死なせたくなかった一心だったんかな」


 天明てんめい大飢饉だいききんによって、当時の人々は飢えに追い詰められている。ナキサワメが神と繋がらなければ、たくさんの人が死んでいた。安西家もこの代まで続かなかっただろう。


「おれにも死なせたくねえ奴がいる——同情するが、泣女の宿命だけはクソだ」


 勇遂は本音を井戸にぶちまける。過去はどうであれ、この何百年もの間泣女が誕生し、涙を捧げ死を背負う人生を送ってきた。いつまでこれを繰り返さなければならないのだろうか、神の助けに頼らなければならないのだろうか。


「神とやらに頼りたくなったらまた来るかもな。一生ねぇだろうけど」


 そう言い残し、勇遂は井戸に背を向け歩き出した。その場にいた誰もが、神に感謝を示していたが相変わらず彼は違う。


「勇遂様、ここにいらっしゃいましたか」


 そこに赤い番傘をさして歩いていた芳江と、バッタリ会う。誰かに傘を届ける途中なのか、右手に可愛らしい水色の折りたたみ傘を持っている。


「芳江の婆さんおつかれ、澪はどうした?」


「神主様や雅楽師様達へ挨拶周りで御座いましょう。私は宴会の準備が御座います故、お先に安西家へ戻ります」


「そっか。じゃあおれも帰ろうかな。雨だりぃし、昼寝してぇし」


 神事が終わり、後は休日を満喫しようと勇遂はふああと欠伸をして鳥居を抜けて歩き出す。すると芳江に呼び止められる。


「勇遂様」

「なんだよ?」


 勇遂は振り返り、返事をした。芳江は神社の拝殿を見つめながら言った。


「澪様は本日神事でお疲れのはずです。一緒に安西家までお帰りになられては?」


「はぁ? 神職の奴等にタクシー代ねだればいーだろ。神聖なる泣女様だ、余裕だろ」


「まだ、本日は涙を流されていないようですよ」


「……マジ?」


 勇遂を引き止めるには十分な情報。神事の時期は泣女に対する理解者が集まる為、勇遂も他人任せにしていた。しかしこの数日、澪の涙を彼は見ていない。一気に不安になる。


「では、お先に失礼致しますね」


 ぺこりと芳江は頭を下げ、鳥居を抜けて先に帰ってゆく。赤い番傘が雨を凌ぐが、紫の着物は雨の中ではとても歩き辛そうに見えた。


「……探すか」


 雨の不便さを芳江の姿から感じた勇遂は、拝殿へ戻っていく。神社内には神事関係者が数人残っており、軽く挨拶をしながら澪を探す。するとスーツを着た副担任の渋沢とすれ違い、呼び止めた。


「おい、渋沢。澪はどこにいる?」


「その声は安西君か。あのな、仮にも相手は先生だろう。いくら神事で顔馴染みとはいえ、呼び捨ては良くないぞ」


「ああくそ、休日まで先公の説教なんか聞きたくねぇよ。おれは澪を探してるだけだっつうの」


「はぁ……高城澪様なら、さっき祖霊社それいやしろで見かけたな」


「それい? ああ、歴代泣女まつってるとこか」


 普段注意ばかりされる渋沢とあまり話したくないのか、そのまま逃げるように勇遂は離れていく。啼澤なきさわ神社は、飛鳥時代には既に存在していたらしく、境内けいだいはそこそこ広い。社の数もあり、ご立派な神社である事は間違いない。


「ああ……雨ん中、歩くのめんどくせえな……」


 流石に雨に思い入れがある勇遂でも、雨の中を動き回るだるさは拭えないらしい。パラパラとビニール傘に打ち付ける音がうっとうしい。


「……!」


 しばらく歩くと、祖霊社それいやしろから動けずにスマホを操作する澪を見つけた。誰かを待っている訳ではなく、雨のせいで外に出れないという雰囲気だ。


 神事を終えた彼女は、いつもの手前二つ結びの黒髪。そして何故か高校の制服を着ている、神事故に正装的な意味合いだからだろうか。

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