クソ野郎の神


「……ただいま」


 立派な屋敷に相応しい引き戸をガラガラ引いて、勇遂は自宅に帰宅した。傘の水を払い、壁に立てかけた後、木製の上がり框に足を引っ掛けながら、乱暴に靴を脱ぎ玄関に上がった。そこに奥の居間から髪を一つに結った無精髭の父、安西雅彦あんざいまさひこが這いながら顔を覗かせる。


「おー、勇遂お帰り。さっき学校から電話が来たぞー? またクラスメイトと揉めたのか?」


「竹中の野郎だよ。いつもの事だ、ほっとけ」


「って言っても俺保護者なんだよお、そーゆう訳にもいかないのさぁ」


「どーでもいい、めんどくせえ」


 ひょうきんな雅彦と無愛想な勇遂。しかし父と息子の仲はそこそこいいのか、遠めに交わされる会話は雑だが毒気はない。


「今は可視化されてる社会だから気をつけろって渋沢先生も言ってたぞー? 俺の学生時代とは違うんだから、勇遂も気をつけないとさぁ」


「勝手に言わせとけ。事情も知らねー外野が言う事なんかいちいち気にしてられっか」


 ドカドカと家の奥へと勇遂は進み、雅彦のいる居間に入ると、学生カバンを畳に向かって雑に投げた。


「こらあ、勇遂〜。お父さんのありがたーい話くらいちゃんと聞いていきなって」


「同じ事しか言わねぇ親父の話に、ありがたみもクソもあるか」


「かぁーッ……なぁんでこんな不良息子に育っちまったんだぁ〜」


 雅彦の嘆きを聞き流しながら、勇遂は居間の襖を開ける。六畳ほどの和室の奥には、黒い立派な仏壇があった。そこには若く、笑顔の眩しい女性の写真が入った小さな遺影が立てかけられている。



「母さん、ただいま」



 勇遂は仏壇前の紺色座布団に丁寧に正座し、優しく語りかけた。彼の母親、安西水絵あんざいみずえは勇遂が小学生に上がる前に他界している。


 そしてマッチで蝋燭に火をつけ、緑のお線香を焚いて立てると、チ——ン……とりんを叩き、目を閉じて手を合わせた。



「今日も澪は静かに泣いたよ。……母さん」



 勇遂は、時が止まっている水絵に対して穏やかに話しかけた。外は梅雨を示す様にざあざあと雨が瓦を打ち付けている。その音を耳にしながら、腕を組んで襖に寄りかかる雅彦が息子の背中を見つめていた。


「お前には、苦労をかけるな——勇遂」


「親父に比べたら、マシだろ」


 仏壇が置かれている和室の壁には、白黒の遺影や戒名が記された古い位牌が数を連ね、安西家の歴史の深さを感じさせる。そして勇遂はゆっくり目を開き再び水絵を見つめた後、仏壇上の天井下に設置されている立派な神棚に視線を移す。


「……神様のクソ野郎が」

「こ、こら。天津神様あまつかみさまに失礼だ」


 流石に祀られている神様に対する息子の暴言に、雅彦は口を挟む。しかし勇遂は立派なしめ縄と綺麗な神鏡、大切に保管されている神札が置かれた榊の香り漂う神棚を睨み付けていた。


「母さんも、澪もなんでこんな目に遭わなきゃいけねぇんだよ——」


「勇遂。天津神様はナキサワメ様を神格化し、立派な降雨の神様にさせて下さったんだ。……やめるんだ」


 鋭い雅彦の声に勇遂は歯をギシ…と食いしばり、神様への文句を必死に我慢する。若者らしく現実に納得出来ない息子の背中を見た父、雅彦はゆっくり歩み寄り勇遂の背後に腰を下ろし、正座した。


「豊穣神と縁のある百姓一族の安西家は、先祖代々『泣女なきめ』をお支えするお役目がある——何百年も続く、立派なお役目だ」


 『泣女なきめ』とは故人を悼み、そして神と人を繋ぐ巫女である。しかし安西家のお役目の対象となっている泣女は、かつてこの地を襲った大飢饉と密接な関わりがあった。雅彦は勇遂を躾けるような口調で言った。


天明てんめい大飢饉だいききん——農村であったこの地、橿原かしはらは長い間雨が降らず井戸が枯れ、作物が育たなかった。飢えに耐え切れず、村の巫女であったナキサワメ様は神と繋がり、雨乞いを願う。しかし地を潤す代償と揺るがぬ信仰心の証として、天津神様に巫女の『涙』を日々捧げなければならなかった」


「んなの知ってる。何回も聞かせんな」


「そしてナキサワメ様の死後、長きに渡り橿原かしはらは天災から守られ、豊作が約束された。その後も泣女のお役目は継続され、代々泣女となる女性が一人……天津神様によって選ばれる事となる」


 雅彦はジッと妻の遺影に視点を移す。かつての泣女であった、水絵を真っ直ぐに見つめる。


「泣女となる者は、子供大人問わず突如毎日、黄昏泣たそがれなきのような症状を丸一年繰り返すのが特徴だそうだ。そして泣女はその一生をかけて、涙を毎日流さなければならない——そして、丸一日泣かなかった場合、信仰心の穴埋めとして神へ——」


「命捧げられちまうんだろ、胸糞悪い」


 勇遂は再び神棚に向かって暴言を吐いた。再び無礼を止めようと、雅彦は口を開くが言葉が出ない。彼もまた夫としてそれに納得出来ないからだろう。


「泣女だった母さんはそのせいで死んだ。あんなに元気だったのに、あっさり死んだんだ」


「勇遂……」


「親父がずっと支えてきたのに、うっかり一日泣かなかっただけで、何で母さんが死ななくちゃいけない? 何が涙は信仰心の証だ、命は神に捧げる生贄だ。マジくだらねぇ」


「勇遂」


「神様はクソだ。何十年も頑張った母さんは死んで、その後の泣女は澪だ。夜泣きが酷いって家族から捨てられて、安西家のあるこの場所しか頼れる場所がねぇ、それに生きる為に、毎日泣かなきゃならねえんだぞ!」


「勇遂ッ!」


 神棚へ怒りを抑えられない勇遂を雅彦は父親らしく、怒号で叱りつけた。辺りはシン…と静まり返る。


「天津神様に謝りなさい」


「……。……すみません、でした」


 勇遂はゆっくり神棚に頭を下げた。しかし悔しい表情を必死に押し殺す。勇遂が澪を泣かせる理由、それは現泣女である彼女を死なせない為だ。彼女が泣かない日、それは澪の死を意味する。



「こんなのは、母さんだけで十分だ。絶対、澪は死なせねぇ……絶対にな」



 ゆっくり顔を上げ、勇遂は覚悟の眼差しを神棚に向ける。母親の理不尽な死を乗り越えた少年は、神に従いながら抗う。澪を奪われないように、彼は明日も明後日も彼女を泣かせ、守るのだろう。

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