腋下汗出

 幾ばくかの時が流れてしまった。もはやそれは現実であり、還るべきよすがの薄れを否が応でも痛感させる。

 アカネのいった言葉はある意味で真実だったのだろう。廃校は彼らの秘密基地であり、そこを追われた僕は、またしても思入れの無い自室へと引っ込むほかに選択肢がない。

 ふと郵便受けに上等そうな封筒が入っていることに気が付いた。あまりこの時間を乱すような行動は慎まなければならないが、気づいた時には封を破っていた。中にはただ、外国語が一文。『Die Zeit heilt alle Wunden.』

 この頃の僕に友好関係があれば、後に智音と会う因果が生成されることはないのだから、特別な事象が導き出されてしまったということ。そしてそれは、アカネとの出逢いがトリガーであることは疑う余地が無い。


 <きっと生きるに値しなかったんだよ>


 彼女の言葉が脳裏を支配する。僕には使命がある。それを遂行できている自身は皮肉なことにと弱まっている。それでも、アカネの言動を思えば、遁世したはずの僕の方がより現世的である気さえする。彼女にとって、この世は生きるに値するのか。いたいけな少女であるにもかかわらず、なぜ彼女はあのように軍に戴かれたのだろう。彼女にしかできない事ってなんだ。

 アカネの顔が智音と重なる。ここに戻ってくる意味なんてないことをその瞬間、思い出す。僕はこの時代の智音を探しに出て行った。その時、不思議なことにアカネと出逢った。それはきっと何らかの演出なのだ。今、智音と会うのではなく、アカネとの特別事象を起こすべきという恣意的な何かが働いている。

 あやうく見失うところだった。精神干渉を受けている。まずそう仮定してみると、制脳を行っているのは、あの白服か?

 智音にこれから起こることも、アカネが今まさに犠牲を払おうとしていることも。

 本来、ここに居るべきではない僕が原因で、世界が選択をしようとしている。

「こんなこと、誰にも聞かせられないな」

 時間はあらゆることを癒す。そう諭す手紙への反骨精神なのかもしれない。


 2020年4月20日午後15時33分。特別非常事態宣言がこの地区に出された。


 全てはなるようになる。そういう意味もあの文には込められていた。

 廃校にはきっと何かが残されている。白服は僕を遠ざけると共に、アカネへの最期の賭けをしたはずだ。何の証拠もないが、いくつかの念押しとも感じられるあの態度が、僕に抗う理由を与える。

 住民が軍に先導されて出て行くのに隠れつつ逆行する。こんなの今に始まったことじゃない。

「あぁ」

 智音への後悔が現在とリンクしていく。捜索隊と崖下の男。

 シャットアウトした記憶が、懐古などという彼岸のものではなく、まさに部分一つ一つが追体験されていく感覚がある。

 息を切らしつつも、僕は街はずれのあの廃校へとやってきた。


『恒星間文明記録思念体第壱号オウムアムア』


 未だにその詳細を知らないこの文字の列挙は、おそらく今のような事態のために何某かによって設置されら次元断層の保障なのだろう。

 恣意的な、しかし人間的なこの祈りを、実現するために、僕はアカネを救わねばならない。それがやがてもたらされる智音の衰体の発端を解消する手立てなのだと、僕は無謀にも信じてしまったのだから。


 看板を引き抜くと、校舎に近い側溝が階段となって、地下へと通じた。アカネはヘリで空へ向かった。この事実と反しているけれど、事実はこの中に隠されている。あの日、智音を乱暴に扱った男が、証言を経ずに落下したように。


 恐怖と期待が入り混じりつつも、機器が並んでいるようなありきたりの舞台でないことが、ヒロイズムさえも鼓舞させてくれない現実味を刺激する。

 自分の行いの正しさを見つめる機会はここしばらく幾度もあった。だが、どれひとつとして裏付ける理由というものを見い出せず、孤独な遠征に集中するしかなかった自分の姿。


「ここには二度と来るなといっただろ」

「勘があったみたいですね」

 地下のわずかな電灯に、着崩された軍服が照らされる。

 軍刀は近くの机に無造作に置かれている。この男の他に人の気配はない。

「アカネはどこですか」

「それを聞いてお前、どうするつもりだ」

「知りたいんです」

「浅はかだな」

 愚弄、というよりは哀れみがその目には込められていた。

「お前は解放されたんだ。もう責任を負う必要はない」

「あの手紙はあなたですか」

「さぁな」

「……もう後悔したくないんだ」

「それはもっともなご意見だ。だがな、不条理ってのは、お前の意思なんかを悠々と超えてくるんだ」

「それでも生きるに値すると証明してみせる!」

 軍刀を奪い取り、さやを投げ捨てる。

「面倒さが欠落して、初めて気が付いたんだ、僕の有閑は誰かに作ってもらっていたということを」

「その先の8番ゲートにアカネは通る。最後に勇姿でも見せてやれ」

 信頼するに足りない、だが、その言葉を信用し、僕は地下鉄線のある場所へと向かった。絶えず後ろを気にしつつ、アカネの姿を探し求めて。

「アカネはなぁ、この世界を守ろうとしているんだ。お前のどうこうできる問題じゃない」

「彼女に何の責任があるっていうんですか」

 軍刀を握る力が強まる。一定の距離を保ってはいるが、あくまでもあちらの方が優位であるのが空気で伝わる。

「アイツは捧げものなんだよ、人類から選びだされた」

 意味不明な言葉に腹が立ち、ついに彼の方へ刃をふるう。勲章やモールが散らばり、じんわりと白が血に染まる。

「人類は既に滅亡しかかっている。それに抗い、高度な文明を遺すのが、プロジェクトオウムアムアの目的だ。アカネは創設者の娘であり、人類初の文明への犠牲者になったんだ」

「アカネが犠牲になれば、人類は助かるとでも」

「あぁ、そうだ! お前に何が分かる」

「なんにも、何も分かりませんよ!」

 肩を押さえつつ、何かのレバーをひく。駆動音とともに、これまで無かったはずの機器がそこかしこにあらわれる。

「3分だ。それ以上はもたない。さあ、早くその防壁の中に入れ!」

 爆発音が鳴り響く。防壁と呼ばれた小さなスペースに、僕らは跳び込んだが、それでも、胸が痛むほどの振動が伝わった。軍刀がショック波のような風によって遠くの方へ跳ね飛ばされる。


 気づけば真っ暗だったレールの上に、一両の電車のようなものが停まっている。


「こいつが、プロジェクトオウムアムアの要『Fatalität』」

「ファタリテート」

「リニア充填までもう二分を切った、早くしろ!」

「アカネ!」

 扉のロックが外側にあることに気が付いたが、そんなのはもうどうでもいい。

 操縦席の他には所狭しと機械で埋め尽くされた棺桶の中に、アカネは眠るようにして座っていた。ただでさえ人形のようだった彼女の恰好は、まるで夜会を控える皇女のような絢爛さで、とても似つかない出で立ちだった。

「どうして」

「君だけに、君だけにこんな思いはさせない!」

「やさしいうさぎさん、あなたにはもっとするべきことがあるはずよ」

「アカネにだって、もっと選択肢があっていいはずだ」

「いいえ」

「そんなの間違ってる」

「早く降りないと、一緒に行くことになるよ」

「構わない…………!」

「うそ。でも、ありがとう」

「やめてくれ」

「私が死んでも、うさぎさんが心配するほど酷くはならないはずよ」

 全く震えることなくアカネはカチューシャのようなものを付け、ボタンを押したことでだんだんとシェードのようなものがフロント部分を覆っていく。もう時間がない。

 モーター音がどんどん大きくなって、外での状況は何も分からない。


「君が好きだ」

「よく言えました、その思いを忘れないで、きっと生きる糧になるから」

「いやだ」

「安心して、私が全てを無かったことにするから。あとはうさぎさんの頑張り次第」


 ――わたしを信じなさい――


 放り出された僕を今度は男が防壁の後ろへと強引に押しやる。

 ほぼ同時に、再び天地が崩れるような音が鳴る。でも今度のはずっと遠くへと向かっていった。

 慟哭は最初から無かったかのようにいとも容易くかき消され、強く認識しているのに、意識自体はどんどん薄れていく。

 アカネはあの時、目を閉じて、いっさいの感情を打ち消していた。そのとき、確かにアカネは天使へと昇ったのだ。あの口づけは贖罪しょくざいであり、人類への赦し。

 どこからともなく聞こえてくる栄誉礼曲と弱まることの無い電気系の音、そしてこだまする爆音。ついにまぶたが閉じられるその瞬間まで、アカネの表情がずっと浮かび上がっていた。




 2020年4月20日午後18時18分、日の入りと共にオウムアムア文明記録思念機『Fatalität』爆沈。

 そのと、近衛府左中将・越前薫が被害にあったと報道された。

 何者かによって、切られたかのような跡が司法解剖の結果、判明したが、誰かが進入した形跡は残っていない。

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