身体臭穢
彼女のいう秘密基地とは、大小さまざまな段ボールの他に、簡易に組み立てられた棚が少しとシングルベッドがひとつ、という殺風景なワンルームマンションのような趣のある部屋。ここでかつては授業を行われていたのか、あるいは部室棟か何かは分からない。年季の入り具合と彼女の模様替えの足し算の結果、外界から切り離されてしまっている。
娯楽も気休めも生活用品も何もない、ただの部屋。少女は自身の住まいであることを誇っている。狐狸妖怪が住むべきはずのこの場所に、あたかも新居の如く居心地の良さを感じているというのなら、きっと彼女は祀るべき何かなのだろう。
「落ち着くね」
ここは水洞に似ているとふと思った。アカネもまた、どことなく天人の素養があるのかもしれない。
「うさぎさんはさ、どうしてこいびとさんがいないの?」
「恋人?」
「寂しいと死んじゃうよ」
「いる、といえばいるかな」
「ふ~ん」
曖昧な返事のせいか、アカネの反応は微妙。僕と智音は確かに恋愛から始まった。けれども今はそんな次元にはいない。それをアカネに、言語をもって伝えるのは難しいのだから、仕方がない。
「ところで、花壇のとこにあったあれって?」
「分からないの」
「えっ?」
彼女のその言葉は、二重の疑問符を持ち合わせていた。彼女自身もなぜあるのか分からない。もしくは、本当にお前は分からないのか、と。
聞き返したものの、彼女は窓からガーデンピックを見下ろすだけ。上からみえる花壇は、雑草の中に不自然に手入れされた一角であるのがよりはっきりしていて、ここと同じ、陸の孤島のよう。
不意に大きな音が校舎にこだまする。
奇襲攻撃をかけられたかのような衝撃音。止まっていた時間が動きだす際にはきっとこんな音がなるに違いない。
「今の音は?」
アカネは殊の外、落ち着いている。さりとて原因は分かっていないらしく、さっきよりも身を乗り出して窓の外を見たりしている。
「まさか、老朽化とか?」
「う~ん」
またしてもぼんやりとした返事をしつつ、アカネはおもむろに段ボールをかき分けるようにして部屋を出て行く。今のところ、何も異常らしい異常はない。けれども僕だけ残るのも何だかなと思ったので、本当にうさぎのように、彼女の後を追っていった。
陽は更に高くなり、再び静寂さとわずかにそよぐ草木の音が校舎の外を覆っている。僕は目覚めた時からジーパンを履いているが、アカネは丁度、上空と同じような真っ青なワンピース姿なので、短い靴下では、しょっちゅう草花が彼女の素足を撫でていた。
「あの、おんぶしようか?」
「何言ってるの?」
「ああ、えっと、その方が遠くまで見渡せるし」
街はずれなのか、特に先ほどから雑踏の音は聞こえてこないものの、いや、だからこそ、年下の女の子にきりだすには突拍子もない言葉だったことをようやく気が付いた。
無かったことにしたい僕は何かを探すかのように――実際何かを探しにきたのだが――辺りをきょろきょろとした。
「ねぇ」
彼女の方は、あたかも平然と、何かジェスチャーをしている。
「ん?」
「それじゃ乗れない」
「あぁ!」
雑草の目線になったとき、彼女の足の細さと白さとが視界を独占した。けどすぐに反対側へとまわっていき、やがてほのかに背中が重たくなった。
シャツが背中に張り付くのを感じつつ、僕は上空へと還すかのように彼女をおんぶした。
子どもをあやしているとは決して言えない沈黙があたかもこのロボットの原動力かのように、そこかしこを意図もなく歩きまわっていた。観測係の彼女も特に指示を出さない。壊れたメリーゴーランドみたいに二人でさまようひと時は、吐きそうなほどにゆったりとしていた。
「止まって」
やがて彼女は静かにそういった。乱暴ではないが、後ろで今一度見渡しているのが分かるほどに、彼女はもぞもぞと動いていた。
「3時の方向、三階の窓」
コマンドに従って僕は見上げる。彼女がやや後ろに滑る。首元に結ばれた彼女の手がきつくなり、腰のあたりにある僕の手も力が入る。
「何か、白く汚れてる?」
「次、その下」
その窓の下には、校舎と地面との間の側溝がある。それを境に、校舎にはツタが、地面には雑草という風に分かれている。そこに何かがある。
「うわッッ!!!??」
思わず飛び上がり、またしても彼女の定位置がズレる。首が一瞬締ったが、そのおかげで彼女が地面に落とされることはなかった。
「ハト………?」
「うん」
「カラスにいじめられたのかな」
「ううん、あの窓みたでしょ」
「え、あ、ぶつかったんだ」
やや反射して見ずらいものの、なるほど、ハトと同じくらいのサイズの汚れ。
「どうして」
「きっと自殺したんだよ」
「まさか、動物は自殺なんて」
「しないって言える?」
「だって、生存本能が」
「きっと生きるに値しなかったんだよ」
何と返せばいいのか分からなかった。出会って早、小一時間は経つだろうが、時折、驚くほど声色を変えずに言ってのける節がある。
でもドライなどという言葉で解決できない。
「後で僕がお墓を作っておくよ」
校舎へと戻っていく際に、ガラス戸に反射した涙を僕は見逃さなかった。
春風を背後に、再び二階へと戻ったが、意識だけは未だに地上とまだ見ぬ三階を行き来していた。アカネは独り残された西洋人形のように端に黙って座っている。学校の椅子にある呪いの人形と形容すればある程度は想像と結びつくだろうが、彼女の場合、もっと清廉で、廃校になっても生徒を待ち続けている名物人形といった雰囲気があった。
「うさぎさんは生きたい?」
「うん、きっと」
「そう」
考えていることは同じなのに、こうも感じ方を共有できないなんて。智音と離れて久しいのだろう。まるでハトが窓ガラスにぶつかったあの時以来、全生命体が地球上から消え失せたかのような静けさ。それがまたしてもぶち壊された。しかし今回のは幼稚園児にだってすぐに何か分かる。ヘリコプターが校庭に着陸しようとしているのだ。
「急になんだ!?」
思った以上に声が出てしまい、自分にも驚く。一方でアカネの方はまるで観念したかのような諦めが表情に浮かんでいた。
「心配いらないよ」
やがてぞろぞろと迷彩服と白い軍服の男が一人と、楽器を担いだ数名の男たちが整列し、上官と思われる白い軍服と二人の迷彩服が校舎へと入ってくる。
「ヤバくないか!?」
「大丈夫、うさぎ狩りをしに来たんじゃないから」
「失礼する」
帽子を脱ぎつつ入ってきた男は、無精ひげがあり、そこまでガタイがいいとは言えないけど背が高い見た目で、いくつかの勲章の付いた白い軍服とはあまり印象が合っていない。でも似合っていない訳でもないのは、貫禄や権威などというものではなく、彼にそれを着て部下を引き連れる実力がある何よりの証拠のような気がする。
「アカネを借りるよ」
飄々とした口調で軽くこちらに会釈する。一体アカネに何のかかわりがあって、こんな大層な事態へ発展するんだ。
しかし、またしてもアカネは平然としていて、まるで僕が本当にうさぎで、人間社会にまだ馴染めていないかのような気さえ起こさせる。
僕は呼ばれていないが、彼女と男がヘリに向かうまでついて行くのは許されたらしい。
「受礼者に対し、捧げ
やはり彼は上官らしく、彼の一声で更に緊張がほとばしった。そして、疑いようもなく、彼らが敬礼しているのは、他でもないアカネなのだ。
「栄誉礼」
フィクションのように声を張らず、しかし力強く新たなる命が発せられる。と同時に、意気揚々とさせるような、それでいて厳かな楽曲が演奏され、アカネは上官にさそわれてヘリに向かってゆく。
「悪いな、流石のコイツでも、お前さんを載せるほどのスペースはもうない」
アカネが見えなくなった時、男は分かりきっていた事実をしっかりと残す。
演奏を終えた兵隊も続々と乗り込んでいき、上官の男のみが、ヘリの扉を背にして校舎を見ている。そして彼は敬礼した。何に敬意を払ったのか。突如としてアカネを連れ去ったというのに。
「いいか、二度とここには来るな」
僕の反論は駆動音にかき消され、ついにアカネを遥か上空へといざなってしまった。きっともう彼女と空の境界は無くなっただろう。彼女にとっても、戻るべき場所を失ったのだから。
日食のように僕の視界から全てが一瞬にしていってしまう。
僕は風が切れる音を聞こえないふりをして、花壇に無造作に置かれていた古いスコップを手に、小さな墓穴をこしらえた。どこからともなく桜の花が紛れ込んだ。ハトと一緒に一枚の花びらを埋めたとき、遥か彼方の思い出のように感じられた。
一瞬、智音の苦しむ表情がシグナルのように脳裏によぎり、それまでせき止められていた不安と恐怖、失望感が一挙に襲い掛かる。
これで良かったのか。そんな問いがまたしても浮かんだとき、花の強い香りが今はまったくしていないことに気が付いた。
花粉で汚れていたその花は、この数時間で、純白からは程遠い、枯草のような色味へと退化してしまっていた。取り戻したはずの記憶が、踏みにじられ、そして今や、見知らぬ危機を追体験している。
僕の懐古はとうの昔に終わっていた。世界中が色を失くしていくその中で。
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